最も優秀なアルモニカ奏者の一人、マリアンヌ・デイヴィーズ(Marianne Davies)は、精神病院でその命を終えた。1788年に出版された、ヨハン・クリスチャン・ミュラー(Johann Christian M?ller, ?はuにウムラウト)著『ハーモニカの独習法(Method of Self-Instruction for the Harmonica)』で、彼は、心をかき乱されやすい傾向のある人は演奏を控えるように、と注意を促している。あるドイツの町では、人々の健康を破滅させたり、公共の秩序を乱すとして、アルモニカが法的に禁止されさえした。メスメリスム(催眠術)の実験や、患者の治療に催眠療法を使うことで知られていたウィーンの医者、フランツ・アントン・メスマー(Franz Anton Mesmer)は、治療においてグラス・ハーモニカを使っていた。 (彼の患者の)盲目のピアニスト、マリー・パラディス(Marie Paradies)が、視力を取り戻したものの、精神の健康を損ねたのち、彼はウィーンを去らなければならなくなった。この種の噂がアルモニカの消滅の一因となった。
18世紀の後期に、カール・レオポルト・レーリヒ(Karl Leopold R?llig, ?はoにウムラウト)が、グラスに直接指を触れることによって起こりうる危険を回避するために、鍵盤を取り付けてみたのだが、以降の作曲家でこの楽器に興味を持つ人はほとんどいなかった。オーケストラの音量が増大したことも関係している。しかし、2つの目立った例外がある。1835年、ドニゼッティ(Donizetti)は彼のオペラ「ランメルモールのルチア(Lucia di Lammermoor)」の狂乱の場面で、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)も、彼のオペラ「影のない女(Die Frau ohne Schatten)」の最終幕で、グラス・ハーモニカを使った。ドイツ人グラスハープ(テーブルに立てたグラス)奏者のブルーノ・ホフマン(Bruno Hofffmann,1913-1991)の活躍や、ドイツ生まれで合衆国に移住したガラス吹き職人、ゲルハルト・フィンケンバイナー(Gerhard Finkenbeiner)らの貢献のおかげで、1982年以降、グラス・ハーモニカの再発見が進んでいる。