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「倫理」が好きコミュの絶対善の定義について

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絶対的に正しい、つまり絶対的善の定義を私がどのようにして導いたのかを書いてみたい。

私たちは普通、自分の考えたことは正しいと思っている。しかし本当にそうなのだろうか? ではどのくらい正しいと思っているのか? 命や全財産を賭けても、自分の意見は正しいと言えるのか? そのように自問自答したとき、自分の意見に対して、あまり自信が持てなくなってしまった。

そして、そもそも正しいとはいったい何なのか?しかも曖昧な正しさではなく、絶対的な正しさとは何なのだろうか?と考え始めた。絶対的な正しさ、つまり絶対的善さえ分かれば、どんな問題も、この絶対的善に合致してさえいれば、自信をもって正しいと判断できるのだ。

正しさには科学的正しさと道徳的正しさがある。私が求めているのは、道徳的正しさである。道徳的正しさを、一般的に善という。

善を辞書で調べれば「善いこと」「道理にかなっていること、また、そのような行為」「道徳的に正しい行為」とあるが、それは説明であり、本当に知りたい善の本質ではない。

ネットで善を調べてみたが、善は人それぞれであり、相対的であるとか、定義できないとか、またいろいろ難しく書いてあるだけで、どれも納得するようなものはなかった。

そこで、いろいろと自分で考えていたら、これが善ではないのかというものに辿り着いた。

「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗人、詐欺などなどである。これら多くの悪に共通するのは、他人(公)のことより自分(私)のことを優先しているということである。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は自分(私)のことよりも公のことを優先する行為である、ということになる、略して“公の為”である。私より公を優先する行為は時代を超え、民族を超え世界に共通する善である、つまり普遍的なものであろうから、これを絶対的善とした」これは帰納的証明であり、内包的定義である。

最近ではマザー・テレサの評判はあまり良くないようだが、分かり易い例えとして言えば、マザーテレサのように自分の私欲を捨て他人、公の為に尽くす人を善人という。これは時代を超え、国を超え世界に共通するものであろう。言うならば、この考えは世界共通善ともいえる。

また別の考え方では

「我々日本人にとって最も大切なものは国民の命であろう。この最も大切なものを守ることは絶対的に正しいことである。つまり最も大切な国民の命を守ることは絶対的に正しい事である。逆に言えば、絶対的に正しい事、つまり絶対善は国民の命を守ることである。つまり、それは種族(民族)保存のことである、これは世界の各民族にも共通することであるから普遍性もある、ゆえにこれも絶対善である」これは演繹的な証明である。

その民族にとって最も大切で、最も正しい行為というのは、その民族の命、財産を守ることである。これも時代を超え、国を超えて世界に共通する考えである。ゆえにこれも世界共通善ともいえるだろう。

これら二つの考えから“絶対的善、つまり絶対的に正しいことは種族保存であり、公の為である”となった。
公の為の公とは大きくは民族のことであるから、種族(民族)保存の為と同じ意味である。つまり種族(民族)保存と公の為とはほぼ同じものである。ですから基本的に大きな問題、つまり種族保存に関係する大きな問題なら種族保存の為と考え、種族保存にあまり関係のない小さな問題なら公の為と考えればいいのです。

また公の為という考えは非常に大事なことも示している。公の為と考える事は国民一人一人が群れのトップの立場に立って群れ全体の為にと考える事である。これは非常に大切なことで「責任を持って考える」と言うことである。無責任な立場で考えても何の役にも立ちません。責任をもって考える事が最も大切なことなのです。そのことを図らずも善の定義は示しているのです。

「私より公を優先する事が正しい事である」と言っても、私たち凡人にはなかなか納得しがたい定義である。しかしこの定義をそんなに大げさに考えなくてもいいのです。善にも大から小まであります。我々凡人の善は、お年寄りに席を譲るとか募金をするとか、ボランティアをやるとか、普段我々がやっている小さな親切、思いやりを実行することも”私より公を優先する”ことなのです。

例えば、席を譲るにしても「自分も疲れている、できれば座っていたい」という私欲はあるが、その私欲を抑えて、相手、公の為にと席を譲るのも小さいながらも善なのです。「私より公を優先するなんて私にはとてもできない」と思いがちだが、私たちは日ごろから何気なく行っているのです。

また絶対善と言っても絶対など神にしか分からないことだから、絶対的善が正しいと思うが、善という言葉は”善きかな“というふんわりとしたものなので、的という意味も含まれている。また普段、絶対的善とはあまり使わないから、便宜上、絶対善を時に使っている。しかし絶対善は、本来は絶対的善のことである。私たちは神ではないのだから、通常、絶対など恥ずかしくて使えないのです。

そして絶対善(絶対的善)とは時代を超え、民族を超え、世界に普遍的であろうから真理であり絶対善と言っている。

また群れの保存、村の保存、民族の保存、人類の保存など問題により、保存にもいろいろあるが、これらを便宜上、種族保存という言葉で書いている。群れを守るという意味では種族保存という言葉が分かり易いからである。まあ、あまり種族という言葉に拘らないでもらいたい。基本的に種族保存とは民族保存の事です。

もともと私の絶対善に対する考えの根本にあったのは・・・・

「ウイルスから虫、植物、犬や人間まで、ありとあらゆる生物が何億年もの間、命を賭けてやってきたことは何か、それは子孫を残すことである、これはいわゆる種族保存である。

ゆえに、この大自然の、大宇宙の意志というのは、命を賭けて種族を保存せよと言う事であろう。我々人間の知恵では絶対善を決められないのであれば、この大宇宙の意志を絶対的に正しいと言わずに何を絶対的に正しいと言うのだろうか。ゆえに「絶対善とは種族保存のことである」と、このように考えていたのである。

私には、この絶対善の説明が一番しっくりとくるのだが、これでは他の人たちはなかなか納得しないのだ。それで上記のように論理的にも考えてみたのである。しかし、あらゆる生物たちが何億年もの間、本能の意に従って行ってきたことが、悪であるはずはなく、自分たちにとって正しいからこそ命を懸けて行ってきたと考えるのが道理ではないか。

私は、群れでなければ生きていけない生物たちが、何億年の時をかけ種族を保存する為に一番確かなシステムとして見つけたのが、自分より公を優先するというシステムではないだろうかと考えている。ですから、公の為は群れで行動する動物たちにとって共通する本能であろうと思う。
群れでなければ生きていけない人間の道徳観も、この種族保存のシステム、本能からきているのではないだろうかと考えている。いや、この世のすべて、ありとあらゆることは、種族保存の為に創られ存在しているのではないだろうか。

つまりこのようにも言えるのではないだろうか・・・・何のために生まれたのか、種族保存の為である。何のために生きるのか、種族保存の為である。愛とは何なのか、種族保存の為にある。イジメとは何か、種族保存の為にある。嫉妬とはとは何か、種族保存の為にある。芸術とは何のためにあるのか、種族保存の為である、何故、悲しむのか種族保存に合致しないからである。何故、感動し涙を流すのか、種族保存に合致するからである。そして何故、人は真理を求めるのか、それもまた種族保存の為である。

別に私は絶対善の名前には拘らない、最高善でも真理でも何でもいいのだ。とにかく各民族の種族保存こそが最も正しい行為であると言う事だ。たまには私の絶対善をどうしても否定したい人たちもいるが、私が出した答えは、ある問題が発生したとき”最も正しいこと”とは何かを示したものである。

その国民にとって「国民の生命、財産を守る事(種族保存)は、絶対的に、最高に正しいことではないか、また私欲を抑え「公の為」にと、みんなで考えることは世界の常識に沿ったものではないのか。そして「公の為」と考えて出る答えは、それはみんなにとっても一番いい答えであり、これは最大多数の最大幸福に合致するものなのである。それゆえに私の言う絶対善は間違いないと確信している?のである。

内包的定義でいえば、絶対的善とは何か(内包)に相当するのが種族(民族)保存である(公の為)、そして何が絶対的善なのか(外延)に相当するのが、社会の秩序であり、人としての進歩・向上であり、本能である。これらこそ絶対的善である。これらに合致するものこそ絶対的に正しいことである。

私は論理学の内包的や演繹的方法により善の定義を導いたのです、恣意的なものではないのです。内包的定義は、帰納法的定義である。私の善の定義が間違いであると言うなら、みんなが「これは道徳的に正しい行為だろう」と思うもので「私より公を優先していないもの、公の為でないもの」を示せばいいわけです。日本中の誰に聞いてもいいですから、私の善の定義が間違っているというなら、まずそれを示してください。

私はみんなが道徳的に正しい行為であろうと言うものを数多く考えてみましたが、そのすべてに「公の為」が含まれていたのです。そして正しい行為であろうと思うものには何かしら感動が伴います。感動のないものは正しい行為ではありません。また自分だけが正しい行為と思うものは除外しなければなりません。

「人は皆死ぬ」というのは絶対的に正しいと信じられています。それを例えていうなら、私の善の定義が間違っているというなら「まず数百年間でもいいから、死んでいない人を連れてこい」と言うことなのです。
哲学のド素人が、善の定義などできるはずはないと初めは自分自身も疑っていましたが、徐々に確信に変わりつつあります。

善、つまり道徳的に正しいことは「私より公を優先すること、略して公の為」である。また公の最大は基本的に、その民族(仲間の群れ)ですから、最も、絶対的に、最高に正しいことは種族(民族)保存ということになります。これ以上に正しいことはないのです。

しかしもしこの絶対的善の定義が正しいとすれば、今までの常識がガラリと変わってしまうかもしれません。これは真理でもあり、美でもあると思うのです。つまり哲学の真・善・美の解明に近づいたのでは?ということです。哲学のド素人にしてはちょっと大げさ過ぎですねwww

コメント(177)

>>[137]

外でも一杯やってるし、本人は気づいてないっぽいですよ。
そこが、ワンダーですよね。

釣りなら釣りでいいんですが、相手してやろうかなと思うと逃げるし、
無限に同じことをいい続けるし。
違う質問を出すと一応反応するので、
人らしきものであるのは間違いないかなと。

フェミや障害者系の人と同じで、
「自分は被害者だ!」
「自分は絶対正しい!」
「お前らは真実を知らない!」
という大前提がないとだめなんですかね?
>>[138]

はい。ワンダーです。

shinwoodさんのブログやyahoo知恵袋などの議論もだいぶ前に一部読みました。

私は、思想や哲学に「絶対的なもの」を求めていた気がしますが、そんなものは見つけられなかった。そういったことが判別できることも、現代思想哲学の成果であり課題だと思います。

しかし、私と違って、、shinwoodさんは、なぜか「絶対的なもの」を見つけてしまったと確信したらしいので…その考え方の違いに興味があります。

なんで、メタ認識できないんだろう?というか理屈もワンパターンなんだろうなどと思うんですが…自分にとって不都合な大前提・条件を無視できる人もいるようです。

というか、見たくないものは見ない、考えたくないことは考えない、それが人の本質であり、誰しも一定そういうところがあると思うので、shinwoodさんがAIか狂人だとかは微塵も思っていませんが…shinwoodさんとの認識のズレのすり合わせを克服できないものか?とポジティブに捉えたいと思っています。

shinwoodさんからすれば、大きなお世話かもしれませんが。
内包的な帰納法と演繹法で証明したとのことですが、

使われている言葉の定義が定まっていないので証明になっていない。

「"みんな"って何?」に答えなくてもいいと思いこんでいる。

たぶん、一階述語論理なんぞや?みたいなことを、

shinwoodさんは考えないで済む環境で、生きてきたのでしょう。

そういう人は一定数いるんですね。
>>[140]

いいかい、りょうちゃん。私が間違っていると言うより君が間違っていると考えてごらん。その方が早く答えは見つかるよ^^
もう一度しっかりと私の書いた絶対善の定義を読んでご覧。みんなとは誰を言うのか、ちゃんと書いてあるからね。そして善とは社会的問題に関係しているのだ。善とは神秘的なものではなくいろんな社会的問題の正しい答えを出すためのものなのだよ。絶対善の定義その1とその2をしっかり読んでそれでも分からないところがあれば質問しなさい。それが礼儀と言うものだよ。相手はたった一度の人生の大事な時間を使って自分の為に説明してくれていると言う感謝の気持ちを持つことが大切なのだよ。

https://ameblo.jp/shinwood/entry-12277885699.html?frm=theme

https://ameblo.jp/shinwood/entry-12361959246.html?frm=theme
>>[141]

>みんなとは誰を言うのか、ちゃんと書いてあるからね

じゃあ書けよ。
早く書け、それだけでいいんだぞ。
どうしてやらないの?

お前のリンクなんか気持ち悪く踏みたくないですぅ。
社会性というのは、相対性だ。
そこに絶対を持ち込むファンタジーがなぜ成立するのか?
そこが非常に興味深いが、信者ってだいたいそういうものか。
そして、愚者だ。
皆さんにはまだ信じられないかもしれませんが、私は確かに絶対善を見つけたのだ。
絶対とはいかなる時代でも変わることなく、いかなる民族・国家でも変わらず、いかなる場合であっても変わることのないものを言うのだ。つまり一切の条件でも変わらないものを絶対と言うのだ。この世は諸行無常であり全ての物は移り変わるが、絶対に変わらないもの、それこそが絶対なのだ。

善い、と言うことはこれが善いと選択し結論付けることなのだ。それはこれが善い答えである、と言うことだ。答えがあるならば問題があるはずである。その問題とは科学的、数学的などの問題ではなく、善は心や行いに関するものだから社会的問題となるのだ。何故善において科学的、数学的な問題においても絶対でなければならないのだ。それは理屈に合わないだろう。絶対善とはあらゆる選択すべき社会的な問題の場合において絶対であれば絶対善と言えるのだ。

であるから善であれば「いかなる時代でも変わらず、いかなる民族国家でも変わらず、いかなる社会的問題の場合であっても変わらないもの」を絶対善と言うのだ

これは私に気づきだが、その問題の答えと言うのは必ず「〜の場合」であり「あらゆる場合」の答えなどない。例えば人を殺してはならないと言うのが正しいのは「普段の場合において」だ。また逆に人をころしても善いのは「非常時の場合(正当防衛など)において」だ。普段の場合であっても、非常時の場合であっても、つまり絶対の条件である「あらゆる場合」であっても正しい答えなどそもそもないのだ。問題の答えと言うのは常に「〜の場合において」なのだ。だから答えには絶対はないといえる。絶対とはあらゆる場合と言う条件でなければならないからね。しかし問題の答えは常に「〜の場合」の答えであるから問題の答えには「あらゆる場合」と言う条件はなくてもいいのだ。ゆえに問題の答えであれば、いかなる時代、いかなる民族・国家であっても変わらなければ、それは普遍的に、絶対的に正しい答えであると言っても良いのだ。

普段の場合においては人を殺すことは絶対的に正しくないことだろう。これは時代を超え、民族国家を超えても絶対的に、普遍的に正しい答えと言えるだろう。また非常時(正当防衛など)の場合においても人を殺すことは時代を超え、民族国家を超えても絶対的に、普遍的に正しと言えるだろう。このように問題の答えは「〜の場合において」であれば普遍的に、絶対的に正しいとはいえるのだ。しかし絶対の条件であるあらゆる場合において正しい答えなどないのだ。であるから問題の答えには絶対はないのだ。

しかし問題の答えではなく、その問題の答えの根拠、目的には絶対があるのだ。それが「みんなの安心・幸せの為、みんなの為」だ。普段の場合において人を殺すのは絶対的に正しくないことだろう。その根拠は「みんなの為」にならないからだ。また非常時(正当防衛など)の場合において人を殺すことは普遍的に正しいと言えるだろう。その根拠もまた「みんなの為」になるからなのだ。このように「みんなの為」と言う根拠、目的はいかなる場合であっても変わることはないのだ。常に社会的問題の正しい答えは「みんなの為」になる、適う、合致する答であると言えるのだ。私の言う絶対善は「いかなる時代でも変わらず、いかなる民族国家でも変わらず、いかなる社会的問題の場合であっても変わらないもの」なのだ。だから絶対・善と言えるのだ。

このことを理解できる人は必ず現れるはずである。何故なら私はすべて論理的に語っているからだ。私の言う事に何の矛盾もないからだ。絶対善とは「いかなる時代でも変わらず、いかなる民族国家でも変わらず、いかなる社会的問題の場合であっても変わらないもの」を言うのだ。
私の言う絶対善を否定したければ正しい答えであって「みんなの為」ではないものを何か一つでも示せれば私の言う絶対善は間違いであると認めよう。しかしそんなものはないのだ。なぜならば、何かみんなに関する問題が起きれば常に、必ず、絶対に「みんなの為」になる答えを「これが一番善い答えである」と私たちは選択するのだからね。私の言う絶対善に何の間違いがあろうか^^
>>[144]

>皆さんにはまだ信じられないかもしれませんが、私は確かに絶対善を見つけたのだ。

ポエムはいいから。
根拠を示せということでまず、お前の土俵に上がってやるから、
ルールの条件を明確にせよと言っているんだよ。

まず「みんな」の定義付けから頼むよ。
問題はね、「キミの考えた定義の内容」ではないんだ。
そんなものはどうでもいい。

問題として扱うのは、「定義の仕方」なんだよ。
そこに、論理的な矛盾やルール違反がないか検証してやろうじゃないかと。
そのための作業をしてやろうと言っているのに、
ルールを開示しないのでは、リングに上がれない。
皆さんね。心とは何か?存在、自分とは何か?などといろいろ難しい事を考えていますが、やはりね、哲学的に一番大事なことは「正しいとは何か?、絶対善とは何か?」を知ることなんですね。
それが分からずして哲学をする意味は見いだせないのです。いろんな難しい事が分かっても「正しいとは何か?」が分からないで哲学をしたとはいえないのです。絶対善が分かって初めて哲学の価値が見いだせて世間は哲学の凄さを知るのです。

勿論、私がすでに絶対善を見つけましたのであなた達は何の苦労することはないのです。ただ、私の絶対善を未だ理解できずに困惑し罵倒しているだけなのです。私の説明不足と言うこともありますがあなた達も感情的にならずに、もう少し論理的に考えれば、やがて私の絶対善は正しいことが分かるのです。ソクラテスが絶対善を見つけていれば私もこんなに苦労することはなかったのです。

さて初心に返って皆さんに問いますが「何故、人を殺してはならないのでしょうか?」誰か分かる人はいますか? 
>>[147]

>私がすでに絶対善を見つけましたので

お前、ただのポエマーじゃなくて。
釣り師だろ?
>>[148]
ごちゃごちゃ言わずに、馬鹿なお前でもいいから「何故、人を殺してはならないのか?」、その根拠を言ってみろ!!言えまい 一昨日きやがれ^^
>>[149]

なにそれ?幼稚園の逆ギレ?
日本語わかりますか−−−?

>「何故、人を殺してはならないのか?」

お前の答えが楽しみだよ。
教えてやるから、答え書いてみ。

お前の言う絶対善において、「何故、人を殺してはならないのか?」
ほれほれ。

みんなお前のようなおもちゃには期待しているぞ。
早く笑わせてくれ。
「何故、人を殺してはならないのか?」の答えは日本の哲学者のみならず世界の哲学者も分からないだろう。しかし人を殺してはならないことは道理ではないか。みんなの為、みんなの安心幸せの為、群れ仲間の種族保存が出来ないからだよ。
道理とは何故だか分からないがそのようにあるものを言う。道理とはすべて種族保存、みんなの安心幸せの為つまり絶対善である「みんなの為」に合致することを(心に関する)道理と言うのだ。

一般人を銃で殺しまくっている犯人を警察官が殺すのは正しい。これも道理であろう。なぜ?道理と思うのか、それは「みんなの為」になるからである。道理はなかなか言葉では説明できないものではあるがすべて「みんなの為」になることを道理と言う。

何故、人を殺してはならないのか?の答えは「みんなの安心幸せの為」に反するから、これが答えである。また何故人をころしてもいい時があるのか?の答えもそれが「みんなの為」になるならば正しいからである。絶対善が分かれば分からないことも分かるようになるのだよ^^
>>[151]

>日本の哲学者のみならず世界の哲学者も分からないだろう。しかし人を殺してはならないことは道理ではないか


バカですか?バカですね。バカじゃしょうがないですね。

他のところで賢いであろう人と議論してみたがやっぱり絶対についてどうしても理解できない人であった。絶対善と絶対は違うものであると理解できないんだね。絶対善は善において絶対であれば絶対善と言えることが理解できないんだよ。
そして私は絶対の本質、絶対のイデアは「矛盾がない事」であると見つけたよ。また自由のイデアは「束縛のない、囚われのない、開放された状態」であるとも分かったよ。「善のイデア、絶対善を見つけたのならば、あなたの方法でほかにもイデアを発見できるはずである」と言う質問もあったが考えてみれば多くのイデアも何とか発見できるものだね〜^^

絶対善、絶対美、絶対神、絶対君主などなど多くの絶対○○はあるが、それらすべてに内包しているものが絶対の絶対、つまり絶対のイデアなんだ。イデアは絶対であり、それは「矛盾がない」と言うことだ。つまり絶対=矛盾がないと言うこと。 そうであれば絶対・善=矛盾のない・善と言うことだ。だから善において矛盾が無ければ絶対善と言えるのだよ。
何度でも言うがユークリッド幾何学は「平面上において」は絶対に正しいのだ。「平面上において」三角形の内角の和は180度である、これは絶対なんだね。「〜において」もそれが絶対であれば絶対と言えるんだ。絶対とは矛盾がない事だ。ユークリッド幾何学も「平面において」は一切の矛盾が無く絶対に正しい、真理と言えるものなのだ。絶対とは、絶対のイデアとは「見順が一切ない」と言うことなのだよ。絶対である事、これは真理と言えるものだ。だから絶対善も一つの真理と言える。そして数多くある真理のイデアが絶対真理、絶対の絶対、絶対のイデアでありそれは「矛盾が一切ない」と言うことなのだよ。

そしてだ、善とは選択すべき問題において「これが善い」と選択することだ。ゆえにその問題とは科学的や数学的などの問題ではなく私たちの心や行いに関する社会的な問題となるのだ。何故、善と言うのに科学的・数学的問題などにおいても絶対でなければならないのか、それは理屈に合わないだろう。
絶対とは「いかなる時代であっても、いかなる民族・国家であっても、そしていかなる場合であっても変化しないもの」を言う。そして絶対善であれば「いかなる時代であっても善であり変わらず、いかなる民族国家であっても善で相変わらず、いかなる社会的な問題の場合であっても善であり変わらないもの」を言うのだ。ゆえに絶対善には一切の矛盾がないのだ。だから絶対善と言える。ここのところが誰か理解できる人はいないものだろうか。ちょっと難しすぎるかな? 私のようなバカにも分かることだから、そうでもないと思うのだけれどもね^^
>>[153]

>絶対善と絶対は違うものであると理解できないんだね。絶対善は善において絶対であれば絶対善と言えることが理解できないんだよ。

ニポンゴ、ダイジョーブデスカア?
道徳的に絶対に正しい事は「みんなの為」であるが、科学的、数学的などの絶対的に正しい事は「真実、事実」と言うことである。この真実、事実と言うものに論理的に合致していればそれはすべて絶対的に正しい答えと言える。

「クレタ人は嘘つきであるとクレタ人は言った」と言う命題は絶対的な答えはないとされている。しかし絶対的に正しい事「真実、事実」に合致していればそれは絶対的に正しいと言えるのだ。だからそのクレタ人の言ったことが正しいかどうかはそれが真実、事実に合致しているかどうか調べればわかるのだ。だからクレタ島に行って、クレタ住民の暮らしに秩序があれば住民は嘘つきではないと分かるだろう。嘘の多い社会は必ず混乱しているかだ。嘘つきが多ければ他人を信用しないし法律も守られないであろう。嘘つきの多い社会は秩序が乱れているものである。
このように真実・事実に合致しているかどうかを調べればそのクレタ人が言っていることが正しいかどうかわかるのだ。
>>[155]

まだ書くんだねえ。

「絶対善の定義について語りたい」

  *ほお。おもちゃが湧いた。

「オレは絶対善を理解した」

  *なんて香ばしい。

「これからオレの、絶対善について語る!!!!!!」

あ〜〜はいはい、じゃあ話に乗るから。
きちんと説明してくれるかな。

>道徳的に絶対に正しい事は「みんなの為」である

うん、じゃあその「みんな」を定義づけしようか。
キミの土俵に上がってあげるから、キミのルールを教えてよ。


「それは、このurlにある」

いやそんなゴミはいいから、ここに書いてよ。




「絶対善は絶対善だから絶対善なんだ!」


会話拒否?


芹沢大助氏が馬〇のコメントにいいね!をするとは情けない。

私はただ「みんなの為」になる、適う、合致する答こそが正しい、と常識的なことを言っているだけである。「みんな」とはその問題に関係している人たちを言う。あらゆる選択すべき社会的問題においてすべての善い答えは全体的な利益である「みんなの為」になる答えである、と言うことだ。だから私の言う事に間違いがあると言うならば「みんなの為」であって間違いの例を何か示せばいいだけである。間違いであると言うならばその矛盾を示せと言うのに誰もそれを示せない。

「平面上において」ユークリッド幾何学は絶対に正しいと言える。違うと言うなら矛盾を示せとあるブログにて議論しても賢いと思われるその人は逃げ回るばかりで矛盾を示せない。ただただ「〜において」ならば絶対ではない、と言うばかりだ。全く論理的ではない、感情だけだ。大学院を出たと言うのに情けない限りだ。「〜において」も絶対であれば絶対と言えるのだよ。そして間違いであると言うならば矛盾を示すことが論理的な人と言うことだ。

絶対善とは「時代を超え、民族国家を超え、あらゆる社会的問題の場合であっても変わらずに善であるものを言う」だから間違いと言うならば、あらゆる社会的問題において「みんなの為でない」答えが正しいと言う例を一つだけでも示せばいいのだ。しかしそんなものはないのだ。常に、あらゆる社会的問題の正しい答えは「みんなの為」になる答えなのだ。他にはない。ゆえに絶対善とは「みんなの為」であり、それに合致する答が常に正しい答えと言えるのだ。
「みんなの為」とはいつも言うように「みんなの安心・幸せの為」と言うことだ。みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせていることに何の悪があるのか? 悪があると言うならそれを示してくださいと言っているのだ。「みんなの安心・幸せ」こそが私たちにとって最も価値あるものであり、それに合致することを私たちは常に「これが一番善い」と選択するのだ。私の言う事に何の矛盾があろうか。ねえ、芹沢さん^^
>>[157]

だからバカは同じことをしないでくれる?
いい加減、お前はおもちゃにもなってない。
もうちょっと遊ばせてよ。

>私はただ「みんなの為」になる、適う、合致する答こそが正しい、と常識的なことを言っているだけである。

おいヴァカ。
だからその「お前の言うところのみんな」を定義してって言ってるんだよ?

それはお前のようなノータリンや、性犯罪者やサイコパスも含まれるのか?
イヌやネコは家族なのでみんなに入るのか?
かんたんだろ?
お答え待ってま〜〜〜〜すうまい!
さて、今回は私の言う絶対善が正しいと言うことを分かり易く書いてみましょう。

ある集団が新天地を求めて道を歩いていました。ところがある地点で道は二つに分かれていました。さて、どちらの道を選ぶのか選択すべき問題の発生です。善、善いとは常に選択すべき問題に関係するのです。
それではこっちの道が善い、と選択するのはいかなる根拠、目的なのでしょうか。それはその集団、群れ仲間が食べて生きていけるか、または安心で幸せなのはと言う目的によってこの道が善い、と選択し答えを出すのです。これはあらゆる選択すべき社会的問題においても同じなのです。全ての選択すべき問題において、どちらを選択すればその集団が生きていけるのか、安心で幸せであるにかと言う目的でもって「こちらが善い」と選択するのです。
その群れが生きていけるのか、それはいわゆる群れの保存と言うことです。いわゆる種族保存です。そして生きていくためにはやはり安心でなければ群れ、種族保存は適いません。ですから最高の目的、最高善は常に「生きていけるのか、またはみんなの安心・幸せの為」と言う目的なのです。その目的に合致する方を必ず、常に「これが一番善い」と選択するのです。これは例外はないのです。絶対なのです。

つまりその群れ、集団の全体の最高の利益である「みんなの安心・幸せの為」つまり「みんなの為」になる、適う、合致する方を常に「これが善い」と、あらゆる問題において選択するのです。それは「みんなの為」が絶対善であり、その絶対善に合致するから「これが善い答えだ」と選択するのです。
このように説明すれば良く分かるでしょう。善、善い、とは選択すべき社会的問題に関するものであり、選択する根拠、目的は常に「生きていけるか、安心で幸せになれるのはどちらなのか」なのです。私たちの最高の目的は「みんなの安心幸せの為」つまり「みんなの為」なのです。そしてあらゆる社会的な問題において常に正しい答えは絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致する答なのです。
正しくないと言うのはその説明に矛盾があり、論理的ではないと言うことです。私の言う事は何ら矛盾がないのです。だから絶対に正しいのです。お分かりですか^^ 
>>[159]

ニポンゴワカリマスカ?




>私はただ「みんなの為」になる、適う、合致する答こそが正しい、と常識的なことを言っているだけである。

おいヴァカ。
だからその「お前の言うところのみんな」を定義してって言ってるんだよ?

それはお前のようなノータリンや、性犯罪者やサイコパスも含まれるのか?
イヌやネコは家族なのでみんなに入るのか?
かんたんだろ?
お答え待ってま〜〜〜〜す!
とにかくアホ、馬鹿という表現は絶対禁止。ノータリンもダメ、そういう言葉を遣う人は「倫理が好き」からは排除します。警告、警告、警告。
>>[161]

あれ?管理人でしたっけ?
それなら、
コミュのトップにゼネラルルールとして明文化しておいてください。

感情的に物事を個人の裁量で突発的に決めるのは、
管理者として恥ずべきことだと思いますよ。
>>[162]
それはどうも失礼しました。ご忠言に従い、早速明文化しておきました。
ともかくそういう言葉が飛び交えば、冷静に論理的に議論ができなくなるのでよろしくお願いしますね。
>>[164]

読みました。
よろしいのではないでしょうか。

場合によっては、
管理や雑談系の「問題について語り合う」トピも必要かもしれませんね。

他人の話を全く聞かず、同じことだけを延々と書き連ねるような人を、
どう扱えばいいのか?というような。
>>[165]
そういう人がいても、放置しておいてください。反論が続かないと、その人もやがて書くのをやめるでしょう。追っかけまわす人がいて、いろいろ感情的な言葉まで書いてくるものだから退くに引けなくなる。
>>[167]

おはようございます。

ご無沙汰しております。

ご質問の件、下記に回答させて戴きました。

Q1:絶対善教?宗教ですか?

A1:宗教ではありません。

   倫理で、1950年から、朝起き会(倫理の集い)で、取り扱ってきております。

詳細は、本件の第103項目と第104項目に開示した通りです。

ご参考情報として寄与されれば嬉しい限りです。

宗教と倫理の相違観について、判別できれば、容易に認識出来ると想っています。

如何でしょうか?

感謝。
>>[168]

お久しぶりです。(๑'ᴗ'๑)

『絶対善』って朝起き会で使ってるんですかー?
知りませんでした!

ウチには毎月、朝起き会の人たちが来ます。
というか、お友達になったので、会報誌をもらってます。( ˊᵕˋ ;)なかなか読めないのですが、、。
>>[169]

おはようございます。

近況をご開示して戴き有難うございました。

貴女のお友達が朝起き会に参加されているのであれば、一度、視察に、友達と一緒に朝起き会(倫理の集い)に参加して診てください!!

毎朝、5時から開始し、6時に終了し、その後、集い場所や人達にもよりますが、お茶会があり、初めて来た人は、歓迎を受けるはずです。

また、人生相談も、奉仕活動の一環として、派遣講師が来た時に、受けることが出来ます。

日本では、純粋倫理と実践倫理の2つがあり、後者は、前者の弟子が立ち上げました。

前者の月刊誌(会報誌)は「新世」の名称で、後者は、「更生」の名称で、長年発刊されてきました。

早起きが出来ない人は、参加することは難しいです。

目が覚めたら、パット起き上がる実践が、朝起き会の原点(源泉)です。

パット起き上がる実践が出来ない人は、ワガママを増すばかりです。

目が覚めたらは、気づいたことに通じ、何でも、気づいたら間髪入れずに即実践することが求められているのです。

会報誌の内容中身を精査して診てくださいね!!

何でも現場検証されて、真相が診得るまで、実践・研鑽・精査・考察を繰り返し積み重ね、真理に辿り付ければ幸いです。

感謝。




絶対善ーその定義は一文字で済む。

   神

である。

神以上でもなく神以下でもない。

神=絶対善  あるいは、 神≡絶対善 である。
絶対的善は真善美なくては語れないですね。
神=絶対善

つまり神を信じるということはそういう愚かさの証。

「習近平=プーチン=イエスース=絶対善」
こういうこと。
絶対善なんて無いとしか思えないですね。
存在しないものに定義があるとも思えず、、、

善悪すら無いのに、絶対善は無いでしょう。
全てニンゲンが好き放題に意味付けしてるだけで、、、
わかった!

「唯一絶対!」に執着する人が行き着く先に、一神教の唯一の神を造りだし、易経のような陰陽流転する世界観を持つ東洋の文化圏では仏教 儒教 道教 神道 先祖崇拝 のような信仰が根付いたのかも!
なんて考えてみました。

そもそも根本的に備わっている志向や感性が違っているのかな〜
>>[174]
ども
プラトン的に言えば、絶対の善なるものは、イデアとしては存在する、ということになるのでしょう。 つまり、人間の理性、あるいは意識の対象として“直接” そこに到達することは出来ないもの。精神作用が直接及ぶとすれば、それを「概念」と呼ぶ、そういう位置付けのものではないでしょうか。
>絶対的に正しい、つまり絶対的善の定義を私がどのようにして導いたのかを書いてみたい。

「正しい」という言葉と「善」という言葉を無理矢理一緒(イコール)にしようとするところに矛盾が生じている。

なのでなにかと突っ込みたくなる。

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