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「倫理」が好きコミュの歴史の危機ー歴史終焉論を超えてー

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歴史の危機ー歴史終焉論を超えてー  やすいゆたか著
THE CRISIS OF HISTORY

この著作は1995年8月31日三一書房から刊行されたものを改訂したものです。

採録に寄せて

 
目次

プロローグ 近代的歴史観を超えて
西暦二千年代を目前にして
歴史の進歩への問い
「近代」の擁護について
疎外と物化の問題
危機意識と歴史的自覚
歴史法則の呪縛からの解放

〔前編〕歴史はクライマックスヘ
ーフランシス・フクヤマ『歴史の終わり』についてー

序章 フクヤマ『歴史の終わり』の登場

リベラル・デモクラシーの勝利
長いレインジで捉えよ!
歴史はクライマックスヘ
「対等願望」と「優越願望」

第一章 歴史の進歩ー歴史はリベラル・.デモクラシーを目指すか

第1節 歴史は循環する
第2節 ローマにおける「歴史の終わり」
第3節 王権神授説と社会契約説
第4節 ホッブズと民主主義
第5節 ハリントンの進歩史観
第6節 リベラル・デモクラシーへ
第7節 「法の支配」の原理の普及
第8節 信教の自由
第9節 経済活動の自由
第10節 精神及び行動の自由
第11節 参政権の拡大
第12節 選挙区制度と民主主義
第13節 グローバル・デモクラシーへ

第14節 付録「グローバル・デモクラシー宣言」

第二章 コジェーブのへーゲル解釈と『歴史の終わり』

第1節 へーゲルの「歴史の終わり」発言
第2節 コジェーブのへーゲル解釈
第3節 へーゲルの「自由」
第4節 へーゲルは「民主主義者」か?
第5節 何故、歴史が終わるのか?
第6節 歴史の終末、人間の死
第7節 アメリカと共産主義
第8節 哲学と言説の消減
第9節日本的スノビズム

第三章 はたして歴史は終わるのか?

第1節 歴史はいかに始まったか
第2節 歴史の出発点は交換である
第3節 交換の論理と人間の生成
第4節 リヴァイアサンの意義
第5節 ブルジョワの道徳性
第6節 資本の論理と気概
第7節 疎外と気概の喪失
第8節 疎外の克服と気概
第9節 ラースト・マンと優越願望
第10節 それでも歴史は進む
 

〔後編〕二千年代に向けて

ヤスパースの歴史哲学ー「歴史の起源と目標」についてー

第一章 冷戦終焉
第二章 枢軸時代
第三章 世界史の図式
第四章 先史時代
第五章 文明の発祥
第六章 枢軸時代と世界史
第七章 近代科学とその限界
第八章 近代技術と労働
第九章 現代世界の直面する状況
第十章 未来の問題ー自由についてー
第十一章 未来の問題ー社会主義についてー
第十二章 未来の問題ー世界帝国か世界秩序かー
第十三章 未来の問題ー信仰ー
第十四章 歴史の意味
第十五章 歴史の克服
第十六章 ヤスパース歴史哲学の意義

エピローグ 歴史哲学と人間論の時代

歴史が意識に浮上するとき
歴史的事件と民族・人類の自覚
歴史上の人物との一体感
歴史法則の落とし穴
人類統合の展望
歴史哲学から人間論へ

あとがき

コメント(145)

□ヤスパースの考えでは、世界観的政党は独裁化すると決め付けていますが、無理やり上から社会主義体制を押し付けて、官僚的にノルマで中央集権的な計画経済の目標を遂行させるやり方だけが、マルクシズムの世界観に適合していたとは言えないでしょう。

□社会主義建設の方法については様々なアプローチが可能です。どれを選ぶかは人民の自由な総意に基づくべきです。共産党の指導で行ってきたという受動的な意識では、経済的な困難の責任はすべて共産党が負わなければならなくなります。

□人民が主人公であるためにも複数政党制が必要でした。これはマルクシズムの世界観に基づいても、科学的に認識可能なことだったのです。

□ヤスパースの問題意識から学ぶべきことは、社会主義社会でも政党は世界観の一致によって形成されるべきではなく、社会主義建設の政治的経済的プログラムの一致によってのみ形成されるべきだったということです。

(11)自由の維持には社会生活のエトスが必要です。遵法精神、社会性、協調性、相互の権利尊重、公共精神などです。

(l2)自由を破壊するための自由は存在してはならないとヤスパースは強調します。

□いかに選挙の結果とは言え、いかに多数決の決定とは言え、デモクラシーや基本的人権、政治的、社会的自由が再び否定されるようなことはあってはならないのです。

□それを防ぐための違憲法令審査や民衆投票などの制度が必要です。ヤスパースは人権と自由そのものが脅かされる場合には、確かに一つの制限が必要だとしています。

□これは大変微妙な問題を含んでいます。人権や自由に関しても、人によって様々な解釈が成り立ちます。経済的自由や労働基本権等ではどの程度認めるべきかは社会的な階級的な立場によって、根本的に異なります。

□搾取の自由を犯罪的だとして否定し、社会主義体制にしようとしますと、これに対抗して、私的所有という市民権の根本的な崩壊だと見なし、多数決の結果であっても、クーデ夕ーで覆して、暫定的な軍事政権を樹立しようとすることもあり得ます。

□ヤスパースの論理ではこれに対抗できません。好ましくないとは言え、デモクラシーは民主的な方法で、デモクラシーを否定することもできることを承認し、その責任をすべて人民に預けなければならないのです。

(l3)民衆がデモクラシーを血肉化できず、民主的な価値観を確立していませんと、彼らは多数決でとんでもない独裁者や利権屋を権力の地位につけ、デモクラシーを葬る結果になりかねません。この場合

「形式的デモクラシー(自由で平等で、秘密の選挙権)は自由の保証ではなく、むしろ同時に自由の脅威ですらある」(305頁)

と言えます。それは衆愚政治や独裁政治を招くのです。イスラム世界では自由で民主的な選挙を行えば、大衆を大量にしかもファナティックに組織できるイスラム原理主義が政治権力を獲得し、近代的な意味での民主主義と程遠いものになりかねないのです。

-----------第十一章 未来の問題ー社会主義について-----------

□フクヤマは社会主義を対等願望によって優越願望を抑圧しすぎた体制としてもっばら否定的にのみ捉えていますが、ヤスパースは、剰余価値の私的独占を排するための大企業の生産手段の社会化を、当を得た政治目標と認めています。

□「特権を廃し、正義を基準となし、すべての人が共に働き共に生きる状態を秩序づけようとする意向、傾向、計画はことごとく、今日社会主義の名で呼ばれている。社会主義はあらゆる人間の自由を可能にするために、労働並びに労働収益の配分を組織化しようという、現代人類にあまねく見られる趨勢なのである。その意味では、今日ほとんどあらゆる人が社会主義者である」(316頁)。

□彼は政治的自由を充分尊重した上で、自由競争に基づく市場経済が前提される「自由な社会主義」を目指しているのです。1989年に東欧諸国は、「コミュニズム」を脱皮し、ヤスパースの期待した方向に大転換を遂げたようです。

□ヤスパースが批判の対象にしているのは、マルクス・レーニン主義を掲げて国際共産主義運動を形成していた1949年当時の現代「社会主義」です。

□これは弁証法的歴史観を全体知として科学的だと思い込んでいました。そこから、窮乏化必然論や暴力革命必然論、プロレタリア独裁の理論、社会主義計画経済論等が打ち出されていたそうです。

□このようなドクトリン(教条)は、真実だと思い込まれていて、これに基づく実践こそが真理の実現だとされていました。だから反対を許容しません。そこで扇動家による大衆支配となり、結局独裁とそれを維持するためのテロによる恐怖政治に行き着きます。つまり「非自由の道」を意味するのです。

□ヤスパースのこの分析は、スターリンによる大粛清の事実に照らせば、説得力があります。共産党の一党独裁も共産党は真理を独占しているから、人民が共産党の指導に従うのが社会主義建設を成功させるためには不可欠だと、党自身が確信していたから成立したのです。このような上からの権力を笠にきた教条の押し付けが、根本的に誤っていたことは、今や明白になってきました。

□ではこれからは、共産党は、ヤスパースの言うように全体知に立つことを止め、独自の体系的なドクトリンを持たず、その真理性を人民に訴えず、国家と人民を指導しないでもよいのでしょうか。 

□物事の根本的な見方としての世界観を持ち、それを基礎にした確固たる全体的な歴史観、社会観を持って、科学的に理想社会への現実的な歩みを理論的に明らかにできれば、それに越したことはありません。

□またその信念に基づいて政治的・経済的プログラムを打ち出し、人民に支持を訴えるのは、その党の政治的権利です。

□ヤスパースのように、それは全体知だから必然的に独裁政治、恐怖政治になると断定するのは、かえって人間が自分の頭で考えた全体知に基づく信念を実行しようとするのを、その内容は問題にしないで、独裁に繋がると決め付けるようなものです。

□ですから大切なことは、人民に社会主義に反対することも含む基本的人権を保障し、「法の支配」を確立することです。

□そして対等な権利を持つ複数政党制を承認し、政党と国家権力を分離し、民主的な選挙が行われ、民主的な討議と多数決原理が貫徹する立法機関として議会を持つことを承認することなのです。

□これがすべての政党と人民の間で政治原則として協約されていれば、その政党が特定の世界観に基づいているか、単なる当面の政策課題の一致に基づくだけなのかは、結社の自由に関することで干渉すべきではないのです。ヤスパースは、社会主義の下での独裁化の原因を計画化が全体計画化として展開するところに求めています。

□「全体計画化はただ国家によって可能である、しかも絶対権力を有する国家、もしくは国家の全体計画化により初めて達せられるのであるが、このような全体計画化は、資本主義的経済におけるどの独占企業の権力をもはるかに凌駕して、歴史にかつてなかったほどの範囲と、私生活をも包み込む独占性を具えた権力なのである」(319頁)。

□中央集権的な計画経済では、国家自体が一つの経営体となりますから、その権力の強大化は避けられません。その運営も官僚的になりがちです。工場現場でも上から与えられたノルマを受動的にこなすだけに終わりがちなのです。それでは利潤の最大限獲得を目指してしのぎを削っている資本主義社会の企業に後れを取るのは当然です。

□しかし、ソ連等の社会主義経済の生産性向上が、先進資本主義諸国からはっきり後れを取るようになったのは、1970年代後半からです。それまでは日本よりは生産性向上は劣っているが、欧米を凌駕していると見られていました。生産財中心から消費生活の充実を目標にするようになり、ソ連にも市民社会の成熟が見られるようになりました。

□ヤスパースが書いた一九四九年当時は、ソビエトの計画経済に対するイメージは、戦時経済のイメージでした。

□「戦争とか天災のごとき窮迫時には、生活物資の調達と配分のための全体計画化は、すべての人が少ないながらも平等に受け取ることによって、欠乏を公平な状態にする唯一の手段であるのは明らかである」(323頁)。

□ところがこの体制が戦争という異常な状態においてであれ、瞬間的エネルギーの最大量を獲得できたものですから、この体制のまま平和時でもやっていこうということになったのです。

□この体制では例えば、鉄鋼生産、石炭の採掘量、鉄道の敷設、コンビナートの建設、ミサイル開発等を計画的に遂行するのには有効性を持ちました。ソ連の経済成長は、このような重工業の計画的整備に支えられていたということです。

 消費物資の供給も、計画経済で行いますと、足らない物資を平等に分配して不足を忍びあうにはよいのですが、平和な時には画一的な品物を計画分だけ造って、配給することになりますので、市場の需要にマッチしないと、売れ残りが大量に出て山積みになったり、品不足で行列ができることになります。

□また完全競争市場でないと、企業間でよりよい製品をより安く大量に提供しなければ、競争に敗れて潰れてしまうということになりませんので、コスト引き下げ競争による生産性の向上、品質の競争的な向上ができません。

□しかも国際貿易に関しては不足している物資を輸入するだけのバーター取引になりがちですから、外国製品との競争もあまりありません。そこで市場原理、競争原理の導入が検討され、1960年代には、いわゆる「利潤」概念の導入が検討されたのです。

 ヤスパースも計画化一般を否定しているのではないのです。計画経済の起源は大企業の競争排除のための独占形成から始まり、国家経済へと進んだとしています。

□合理的な需要充足のための効果の点で見通しが立つ、限定された目的のための計画化ならいいわけです。とはいえ、計画が国家全体に対する包括的な全体計画化となると、例の「全体知」に基づいているから正義の押し付けになり、自由の否定になるという理窟で反対しているのです。

□完全な意味での全体計画を策定し、市場経済を無くしてしまうことは、少なくとも社会主義段階では不可能です。

□需要・供給の一致は生産物の流通によってわかるのですから、生産に取り掛かる段階では、どうしても見込み生産が避けられません。それで商品という形で生産物を市場に流す必要があります。

□そして市場がある限りは、価値法則に基づく資源の最適配分を行い、独占の弊害を防ぎ、競争の効果を保つために、企業の経営の自主性をある程度認める必要があるわけです。

□しかし、そうなりますと企業の経営責任者は、労働コストを削減しようとし、現場の労働者との間に労働争議が発生します。中央集権的な戦時経済にあっては、ソ連は労働者階級が主人公だというのが建前の社会主義国であったにもかかわらず、実際は、共産党の指令、スターリンの指令が絶対的であり、労働基本権は無視されていました。

□労働組合は全く党の政策の意義を労働者大衆に啓蒙し、労働者の能動性を引き出すための機関に過ぎなかったのです。

□市場経済が重視され、企業の自主性が尊重されるようになって、初めて労働者自身の要求に基づく運動が展開されるようになったのです。市場原理の重視政策が本当に根付くかどうかは、労働基本権が承認され、それに基づいて対等な労使関係が確立し、安定した労働市場が形成されるかどうかにある程度依存しています。

 このような分権化の動きと、ヤスパースの非難する全体計画化は両立するでしようか。両立しなければ経済運営は完全に失敗するでしょう。

□現在では世界経済は深い繋がりを持っており、グローバルな視野を持って、資源や技術そして生産物、それに人材などの交流を計らなければなりません。何処にどんな工場を建設するのかという問題でも、国家全体の観点から、物的、人的資源、自然環境の保全等を考慮しなければならず、企業の経済的自主的判断だけに任せておいては、いわゆる「市場の失敗」に繋がります。

□1985年来のペレストロイカが経済運営の点で行き詰まったのは、企業が独立採算を求められたために、計画経済の課題遂行をネグレクトし、市場に必要な物資を供給しなくなった事から事態の深刻化を招いたからです。

□資本主義の自由競争市場であっても、実際は国家の経済政策による誘導が不可欠です。その場合にグローバルな知、全体知がなければ良い政策策定は不可能です。

□アメリカ合衆国の1980年代のマネタリストによる高金利政策は、それがドル高による貿易赤字を招くというグローバルな知に欠けていた例です。1970年代のスタグフレーション下でのケインズ政策には、ケインズ政策がインフレ下では逆効果でしかないという全体知に欠けていた例です。

 まして社会主義経済であれば、国家と地方、国家権力と企業体の間の権力関係を微妙に調整し、全人民の支持を背景にした計画経済の課題遂行を相互の義務として確認しあうことができなければならないのです。

□ただし誠意を持って課題遂行に励んでも、全体知に誤りがあり、計画に無理があれば、課題遂行は失敗に終わり、生産・流通・消費に様々なひずみが生まれ、調整が必要になります。

□その時に、原因や問題点を厳しく点検し、全体知自体にどんな誤認があったかきちんと反省しなければなりません。そうして全体知をより完全なものに作り変えるのです。

 ではヤスパースは、彼が支持している「自由とデモクラシーを協調裡に漸進的に実現する理念としての社会主義」(345頁)と「暴力をもって未来の形成に着手する共産主義としての社会主義」をどう区別しているのでしよう。

□彼は、本来の社会主義は、自由の実現のためのものだから、労働組織の規模の拡大にしても、経済の計画化にしてもそれを絶対化してはならないと強調します。自由の障害になったり、却って経済的な合理性を失ったりするようになれば、当然理性的に限界を認めるべきだというのです。これに反して「共産主義」は、次のような絶対化の誤まりを犯していると言います。

□「第一に、社会主義はみずからを個人主義と対立したものと考える。個別化すなわち個人の我意、私利、恣意に対して、この対立は一方的に絶対化されると、個人がその権利を全面的に否定されることを意味する。社会主義はあらゆる人に彼の人格の実現のチャンスを与えようとしたにもかかわらず、それは個人を水平化することにより人格の破壊者になる」(346頁)。

□マルクスやエンゲルスは、新しい共同社会のイメージを「自由人の連合体」としていました。ところが一党独裁下の社会主義はヤスパースの批判を説得力あるものにしています。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という原点に帰って、一人一人の人格と幸福と自由が大切にされる社会を築かないと、社会主義失格だと言えましよう。

 「第二に、社会主義社会は資本主義と際立った対照をなしている。社会主義は生産手段の私有に代わって、その共有を欲する。これが絶対化されると、次の結果が起こる。すなわち、機械技術の生産手段―大企業―の問題に代わって私有一般の廃止が要請される。個人の思い通りの使い馴れた品々 、住居、精神の作品―これらは個人や家族に生活の地盤を提供しており、ここに彼らは魂を込め、自分たちの本質をここに反映させているのであるが、―こういったものとしての環境が作られる手段である所有は廃止される。これはすなわち、人間が彼の個人的世界、彼の歴史的に発展する存在の生活条件を奪われることを意味する」(346頁)

□ヤスパースは、社会主義と将来の共産主義を混同しています。社会主義社会では生活手段の私有は認められています。

□労働者は生活手段を私有しており、それを手に入れるために労賃を得ようとし、企業に労働力を提供しているのです。

□共産主義社会になれば、労働の報酬としての賃金は廃止されます。同時に貨幣一般が廃止され、必要に応じた分配が可能になるのです。そんなことが果たして可能なのか、望ましいのかということは大いに議論がありますが、ともかく共産主義では私有一般の廃止が実現されることになっているのです。
 その上、マルクスの用語では私有と所有一般は区別されています。私有が廃止されても、個人生活に必要な生活物資や彼の個人的世界に属する生活条件は、彼自身の個性と不可分離的な関係にあります。

□私有の場合は譲渡できることが前提ですが、不可分離な関係なので譲渡し得ない、侵されないものとして捉えられていたのです。これをマルクスは『経済学批判要綱』の「先行する諸形態」では「本源的な所有」と名付けました。

□『資本論』ではこれを「不可分離的所有(das individuelle Eigentum)」として取り扱ったというのが、私のプライオリティな解釈です。この点は、マルクスがその意味で使っていたら納得がいくという程度しか言えません。マルクスによれば、ともかくたとえ共産主義が実現しても個人の個性的な生活が尊重されますし、生活手段の所有も「固有」という意味で尊重されると考えていたのです。

 第三は計画化に関してですから重複するので省きます。ともかくヤスパースは、社会主義を私利の抑制、生産手段の共有、計画化等、道理に叶った現実的な理念として支持し、共産主義をその一面的な絶対化による自由の破壊として批判しているのです。

□言い換えれば、社会主義はそのような要請を具体的な条件の中で、自由や公共の福祉と両立し、推進する限度内で実現しようと努力するのですが、共産主義は、私利の抑制、共有、計画化等を徹底し、全体化した理想社会が建設可能だとして人々の個性や自由や積極性を奪ってしまうというわけです。

□確かに、全体化が実際はソ連では、ソビエト民主主義の形骸化、一党独裁の固定化、上意下達の官僚主義の徹底、徹底した中央集権、指導者の個人崇拝によるカリスマ的支配の確立へと傾斜して行ったのですから、次のようなヤスパースの辛辣な表現もいちがいに否定できません。

□「彼は人間を石に化す怪物ゴルゴンを直視したくないものだと念じた、しかし彼はいよいよあますところなくゴルゴンの手に堕ちる羽目になったのである」(351頁)。

 「彼はテロと独裁の装置に堕してためらわないのであるから、彼は飛翔の可能性を失なう。―彼は人類の一見最高の理想主義から出発しながら、人間の生命を惜し気もなく消尽する非人間性への倒錯、あらゆる人をいまだかつて存在しなかった奴隷制へ移行させる倒錯をやってのける、―彼は人間を前進させる諸々の力を抹殺する、―彼は失敗すると絶望のあまり、いよいよ卑劣な暴力性へといきり立つ」(351〜352頁)

 ヤスパースのように社会主義国の共産党の偏向の原因を、マルクシズムが世界観を持った全体知であることに帰着させたのでは、世界観や全体知を放棄すべきだという結論になりかねません。

□それはマルクス主義者が自分で判断すればよいことです。それを言うなら、キリスト教徒はキリスト教のみが、もっと極端には自分の属する宗派のみが、正しい信仰を持つと考えています。そこで間違った信仰を抱いている人は、神を冒瀆しているから最後の裁きによって滅ぼされるとキリスト教徒の中には、考えている人も多いわけです。

□そこからキリスト教徒の独善性、人命軽視、残虐性、好戦性を指摘することもできます。だからといって、キリスト教徒が多数を占める国や、バイブルで宣誓儀式を行う国は必ず独裁化したり、民主主義が育たないと考えるのは正しいでしょうか。何故ソ連が官僚主義的な偏向に陥ったのかは、歴史過程の正確な「見直し」により判断されるべきです。


□マルクス主義の立場、科学的社会主義、共産主義の立場に立っても、近代民主主義の原則の上に立っ社会主義社会の形成を展望することはできたのです。

□特に選挙権の拡大が進んでいる国で社会主義革命を起こすには、議会政治の発展的継承が必要であるという見解は、エンゲルスはじめ西欧のマルクス主義者の中では有力な見解だったのです。

□実際、社会主義経済建設を成功させようとすれば、労働者自身が社会主義社会の主人公であるという主権者の自覚を持てなくては成功しません。ただ党中央の指令に無条件に従わされるだけの隷属的な立場では、積極的に社会主義建設に参加しようとはしません。社会主義建設の方向にしても自由に意見を闘わし支持する方向に一票)を投じる権利を保障しなければなりません。

□そのためには一党独裁は最悪の形態です。社会主義社会では階級的な利害対立がないので複数政党は要らないという見解がありましたが、実際には社会主義建設の方向を決めるのには、様々な難問に取り組まなければならず、すんなり一つの方向に話し合いがまとまるような簡単な問題ではないのです。

□一党制では方向決定に関して、党内で織烈な権力闘争が展開されることは避けられません。そして自己の方針が必ず貫徹されるようにと、党内の権力基盤を固めようとします。

□官僚主義が強化され、分派に対する仮借ない闘争が強調されることになります。その上で党の立場を確固としたものにしようと画策し、遂には党の国家に対する指導権を憲法上承認させるところにまで行き着くのです。

□党の指導に基づいて社会主義建設が順調な間は、その成果に対する尊敬や感謝まで期待できますが、経済的な困難が深刻化しますとすべて党の責任ということになり、党権力の打倒に民衆が立ち上がることになりかねません。もちろん党は国家と結合していますから、社会主義体制の崩壊に直結する危険性があります。

□複数政党制では、政党同士が権力闘争をくり広げ、人民の団結を乱して社会主義建設の活力を殺ぐのではないかとの心配もあります。

□それなら思い切って政党一般を廃止してしまえばよいのです。そして憲法や社会主義建設の基本方向、五カ年計画等の経済計画案は、国民投票で幾つかの案から決定すればよいと思われます。

□そして上級ソビエトの代議員は、候補者の個人的な政見によって選ばれるようにすればよいのです。でも実際は、政党的な活動を禁止するのは、政治活動の自由を大幅に制限することになりかねませんから、政党間の意見対立が解消されて、自然消滅するまでは政党は禁止できません。

□このように社会主義建設に労働者自身が責任を持つためには民主主義が不可欠なのです。科学的に社会主義を目指そうとするマルクス主義者であれば、このことに気付いて当然でしよう。

□ですからマルクス主義は全体知だから必ず独裁に結び付き、人々の自由を奪ってしまうと結論するのは論理の飛躍なのです。ただしロシア革命以降、コミンテルンやコミンフォルムが造られ、マルクス・レーニン主義の名においてス夕ーリンの権威を強調したり、ソ連の全体主義的な実態に全く無批判で無条件の賛美をする傾向が、資本主義国の共産党にも色濃く見られましたから、1949年の時点では、すべて同類と見なされたのも無理からぬことだったのです。
ーーーー第十二章 未来の問題ー世界帝国か世界秩序かーーーーー

□フクヤマは歴史を民族国家・連邦国家単位で捉えていますので、その内部の主と奴の闘争がなくなり、その国際版の東西対立がなくなると歴史が終わってしまい、その後の世界統合のステージへと歴史を展望することができません。その点ヤスパースは東西冷戦の最も厳しい時期に、すでに世界統合を視野に入れて論じていました。

□二つの世界戦争を経てヨーロッパの力は衰え、世界はアメリカ合衆国とソビエト連邦の二大国を核にそれぞれ再編され、統合されつつあるように見えました。また国際連合が形成され、恒久平和を求めて世界連邦への歩みが期待されました。そして米ソ両国は終戦後間もなく、厳しい冷戦になり、新たな世界戦争の危険も増大していました。そのような背景があって、ヤスパースは今後の世界統一の二つの方向を示しました。

□「現在の展開がさしずめ帰着するところが世界国家であるとすれば、この世界国家は、次の二つの形態のいずれかとして現われるであろう。すなわち、征服により獲得された(おそらく多くの国家の見掛けの主権を承認しながら、実際は一つの中央集権的支配の形式での)単一支配的帝国か、さもなければ、法秩序の支配に道を求めている人類の主権のために、各自の主権を放棄した連合諸国家の、協調と契約によって生じる世界政府かの、いずれかの形で現われるであろう」(357頁〜358頁)。

□先ず世界帝国ですが、これはファシズムあるいは「共産主義」型の全体主義国家が、征服とテロルで世界を併合していくのです。

□これは第二次世界大戦中のナチスのヨーロッパ支配、15の共和国の連邦の形式をとったソビエト連邦を雛形に、そのグローバルな展開を予想しているのでしょう。

□全体計画化と官僚制という手段を具えたテロルによる中央集権的な支配が、ひとたび達成され、確立してしまうと内部から再び廃止できないとヤスパースは指摘しています。

□何故なら独裁者は近代技術的手段を全く憚ることなく何にでも使うので、圧倒的な威力を発揮するからだとヤスパースは説明しています。人々は完全な情報操作とテロによる恐怖のため、

「自分が殺されることにならないために、人を殺すに至る」(376頁)

のです。

□ドイツ・イ夕リア・日本とも、内部からのあらゆる試みは失敗し、外部の力で解放されたのです。しかし全体主義が内部からは克服できない、というヤスパースの断定には、危険なものを感じます。

□全体主義は深刻な内部矛盾を強圧的に抑え込もうとするところに成立するのですから、基盤に脆弱な要素を抱えています。これを対外的な侵略で糊塗しようとしますから、対外的な失敗で崩壊し易い面をもっています。

□ヤスパースの論理では内的崩壊が見込まれないことになり、対外的圧力で全体主義と目される国家を崩壊させることが擁護されかねません。

□アメリカ合衆国は、自由の盟主を気取って、社会主義小国に対する転覆工作や武力侵略を行いましたが、果たしてキューバやべトナムの人民が自らの意思に反して、押し付けられた社会主義の圧政の下に苦しんでいたのかどうか大いに疑問です。民主主義や自由の度合は非歴史的に固定的な絶対的基準では測れないところがあるのです。外から一方的に決め付けることはできないのです。

□ヤスパースは、もしも全体主義の世界独裁が完成すれば、自由は根絶されてしまうと警告しています。画一的な世界観と全体計画化による人間存在の極端な水平化が予想していたりです。

「空しい勤勉に明け暮れする蟻のような生活、硬直し、干上がった精神、権力のヒエラルヒーのうちで精神を喪失してしまった権威による旧態墨守」(365頁)

とヤスパースは表現しています。いわゆる社会主義世界体制が直面している精神的危機を、ゴルバチョフもこのように捉え、体制の建て直し(ペレストロイカ)の必要を痛感していたのです。

 モスクワにマクドナルドの世界一の大店舗がオープンしてモスクワっ子の人気をさらいました。その際、値段が高くても人気があった秘密は、笑顔で店員が応対するところにあったのです。この事実はいかにソ連社会が末端まで官僚主義に毒され、機械的に仕事を処理しているかを映し出しています。

□またマクドナルドの現地採用の店員の感想で、最も印象的なのが、マクドナルドで働いて、人間が平等だというのを初めて実感できた、という言葉です。平等なはずの「社会主義」では上意下達のヒエラルヒーが幅をきかし、職場に民主主義が欠けているのに対して、資本主義企業であるマクドナルドの方が、店員の一人ひとりと管理者が親しくうちとけあう努力をしているのです。社会主義が社会主義の良さを発揮できずに、資本主義との経済競争に勝っことは到底できません。

 そこでヤスパースは、先程述べたことと矛盾しますが、世界帝国の内部からの崩壊についても予測しています。

「このような危険は、人間にあっては絶対的なものではあり得ない。帝国として統一された世界の内部では、さまざまな様式の新運動、独立化の可能性、革命、全体が新たに諸部分へと解離して、再び相互に争うことなどが起こるであろう」(365頁)。

□「社会主義」世界体制の実態は、世界帝国というほどの統一性はありませんでした。中ソ両大国の論争は深刻な国家対立にまで発展しました。ワルシャワ条約機構はソ連の東欧支配機構として作用しました。

□ハンガリーやチェコ・スロバキアへの侵略は、「社会主義」世界体制・ワルシャワ条約機構の維持のためには正当化されるという制限主権論がまかり通ったのです。その意味ではソ連は「ヤルタ体制」という言葉に象徴される覇権主義の考え方に固執していました。

□それで東欧に、ソ連を見習った共産党の独裁を前提にした政権を造らせ、ソ連型の「社会主義」建設を押し付けていたのです。もともと共産党の支持基盤が弱かったのに体制を押し付けてきたものですから、東欧の民衆は常に体制に対して批判的で、不満を抱いていました。

□それがチェコの民主化運動、ポーランドの「連帯」による労働運動等の形で盛り上がりました。ソ連がペレストロイカによって、東欧への体制押し付け政策を放棄しますと、1989年には、中国の天安門事件にも刺激され、いっきに共産党支配を打倒してしまったのです。


□もう一つの世界統一の方向に、ヤスパースは「世界秩序」を挙げています。これは北アメリカ諸州がそれぞれの主権を放棄して合衆国を形成した例をモデルにしています。力を背景にした統合ではなく、万人の共通利益に基づき、平和な世界秩序を形成するための連合です。

□それには強国が主権を自発的に放棄することが必要条件です。国際連合は安全保障理事会で、国際紛争の解決のための方策を協議し、必要とあれば国連軍の派遣を決定することになっています。

□ただし五大国一致原則があり、常任理事国である米・ソ・英・仏・中のうち一カ国でも反対すれば決議はあげられません。これを拒否権と言います。もしいずれかの大国が反対しているのに国連軍を出動させますと、その国を敵に回して大戦争になる可能性があるからです。

□拒否権を認めたままですと、それぞれの大国は自国の利益から拒否すべきかどうか判断することになり、主権の克服による世界秩序の形成は不可能です。しかしそれぞれの国の事情があり、それを無視して人類全体の福祉の観点を押し付けられては、世界秩序に参加する意欲が湧きません。ですからそれぞれの国の自治権は充分に保障される必要があります。それは世界帝国であってはならないのです。

□「法的に限られた地域の自治体たる諸国家の、討議と決議において不断に更新されていく秩序、すなわちひとつの包括的な連邦制であるだろう」(361頁)。

□二度の世界戦争は、民族の主権の絶対性よりも世界平和の方が優越すべきだということを人類に思い知らせました。全面核戦争にでもなれば人類の絶滅が確実に予測されるのです。

□戦争が絶対に回避されなければならないというのなら、国家主権の絶対性は成り立ちません。国家主権とは戦争をする権利に他ならないからです。

□不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)以降は、原則的に戦争は国際的に放棄されていますが、それでも自衛権という形で戦争する権利が国家にはあるのです。

□なぜなら、それがなければ主権の維持ができないので国家とは言えないからです。ですから自衛権のない国家は論理矛盾だということになります。伊達判決を含めて日本国憲法第九条をめぐる裁判でも、憲法第九条といえども国家の自衛権は否定していないことになっています。しかしこれらの解釈は肝腎な事を見落としています。

□「日本国憲法」の成立の前提に二度の世界大戦、二度の核被爆体験があったのです。世界理性が、民族主権の絶対性より世界平和の切実性を優越させる世界秩序の形成に向かおうとして「日本国憲法」を作成したのだという認識が大切だったのです。侵略を防ぎ、平和を維持する方法には二種類あります。

□一つは力の均衡策(バランス・オブ・パワー)です。軍備を整えて隣国による侵略に備えると共に、力が不足しているときには第三国と同盟を結んで対抗するのです。しかしこの方法では軍備拡大競争がエスカレートして、財政負担が堪えられなくなり、結局戦争に突入する恐れがあります。また世界的な規模で複数の軍事同盟が覇を競いあうことになり、いずれ世界大戦を引き起こす必然性を孕みます。
 もう一つは集団安全保障体制です。欧州全体、できれば世界全体の諸国が残らず一つの平和維持機構に加盟します。そして相互に戦争しないことを誓約するのです。もしもいずれかの国が戦争を引き起こしますと、他の総べての国が戦争を引き起こした国を協同でやっつけるのです。

□こうしておきますといかに大国でも戦争はできないだろうというのです。戦争が不可能になれば軍縮交渉も纏まりやすいわけで、平和維持機構では全般的な軍縮が話し合われることになっています。

 国際連盟もこの集団安全保障体制の具体化を目指したのですが、肝腎のアメリカ合衆国が不参加の上、各国が主権の絶対性に固執したため、全会一致原則による決定不能、軍事制裁ができないための侵略防止不能で目的を果たせませんでした。

□国際連合は国際連盟の失敗を踏まえて出発しました。まず普遍主義を徹底してほとんどの独立国の加盟を実現しました。安全保障理事会を設置し、その下に国連軍を置いて紛争の処理に当たることになりました。侵略に対しては軍事制裁が可能になったのです。ただし先程の五大国一致が必要です。

 国連総会も多数決主義が採用され、国連決議による国際的協力、国際問題の処理ができるようになったのです。もともとの国連軍構想は世界連邦に近いもので各国の軍隊の一部を国連軍として安全保障理事会の指揮統合下に置くことになっていました。その上で各国軍隊の軍縮を推進しようという構想だったのです。東西冷戦の深刻化でこの構想は砂上の楼閣になってしまいましたが、今後世界秩序の形成に向かう場合は再び検討されることになるでしょう。

「この一つの包括的主権は基本的な権力行使の問題―軍事、警察、法律制定―に限られうる。そしてこの主権には、選挙と協力により、全人類が参与し得るのである」(364頁)。

□ペレストロイカが叫ばれだして以降、社会主義経済も経済の行き詰まりを打破するためには、西側資本の導入を図り、世界市場に深く結び付かざるを得なくなりました。

□一つの世界市場が形成されつつある以上、世界経済の調和ある発展を支える国際機構の整備や、国際資本の活動がそれぞれの地域の経済活動との調和を実現するための国際的な経済法が必要になります。

□またグローバルな観点から地球の資源と環境を保護するための国際法の制定は緊急な課題であるといえるでしょう。

□現在では多国籍企業化した巨大資本が産み出す所得が、中小国の国民所得を凌ぐまでになってきています。大企業の場合は、次第に民族よりも企業に対するアイデンティティが強くなりつつあるのです。

□世界企業が生み出す同一の文化が、世界中で同じ欲望や感性を生み出す時代になってきたのです。その意味では世界秩序を求める環境が、ナショナリズムによる反撥を強めながらも、次第に成熟しつつあると言えるでしょう。

「大局を眺めれば、明らかに民族国家の時代は過ぎ去っている。今日の世界的強国は多くの民族を含んでいる。ヨーロッパの諸民族の意味での民族国家は、それだけで世界的強国たるには、小さすぎるのである」(367頁)。

□実際はアジア・アフリカ諸国の大部分は、この著作が発行された後で独立したのです。そしてこれらの新興独立諸国が非同盟中立の立場から、世界平和の推進と新植民地主義反対を掲げ積極的な役割を果たしてきたことは高く評価されるべきです。

□とはいえ、帝国主義、植民地主義に反対して民族独立を勝ち取る動きと世界秩序、世界連邦への動きは、必ずしも相反する面ばかり示すわけでもないのです。

□いったん独立した小民族も政治的な自立を護り、経済の発展を計るためには近隣の諸民族と協力を推進し、共同市場を形成しなければなりません。アフリカの諸民族は民族独立の後はアフリカ統一機構を形成し、遅々として進みませんが、アフリカ合衆国を目指しています。

 特に目覚しい国際統合の動きを示しているのが、西ヨーロッパのEU諸国です。1992年末には、単一欧州議定書に基づいて物・人・資本が一国内と同じように流通できるようになりました。今後EUと東欧諸国との結び付きが緊密化することが予想され、東欧まで含むヨーロッパ共同の家構想まで出てきているのです。



 ヤスパースの予想では、世界秩序は西側先進諸国の連邦制から出発して、他の諸国が納得して平和的に参加していく形で形成されるのです。この秩序が

「自由、繁栄、精神的創造、豊富多彩な人間存在の可能性を生み出す」(371頁)

としています。

□彼は西欧的な市民的自由がグローバルに拡大して、世界秩序が形成されると考えているのです。

□確かに基本的人権の尊重、自由選挙等の点で西欧近代民主政治の進歩的意義は普遍的な意義を持ちます。

□しかしそれは資本主義的な搾取と失業の自由、高度に管理された人権のない職場、平均化し、欲望まで消費のために創出される個性を喪失した大衆社会、総べての価値が貨幣に還元される私利追求社会、金権による支配の貫徹、このような問題点も世界秩序の形成は同時に世界中に普遍化してしまうのではないか、と危倶されます。

□ヤスパースは世界秩序を論じる際は、社会主義の役割を位置付けていません。社会主義世界体制の形成を世界帝国への動きとして警戒し、これに対抗的に、西側自由主義諸国のグローバル化として反共的に世界秩序が構想されているのです。

□今後、「社会主義」経済圏も含めた一つの世界市場が成長していきますと、それに相応しい企業形態が模索されていくことでしよう。その際、基準になる原理は、

?徹底した経済合理性、
?職場および企業経営における民主主義、
?自然環境との調和、
?消費者とのネットワークの整備、
?利益の地域還元、
?魅力ある企業文化の創造

などでしょう。

□企業によりどの要素が強いかが、その企業の特徴になるでしょうが、総べての要素をかなりの程度満たさなければ発展性はないような形に、政治的社会的な条件を整えることが必要です。

□中国、ベトナムなど「社会主義」経済圏内でも、資本主義的企業の活動が認められつつあります。それに刺激されて、またそれとの競争からやむを得ず「社会主義」企業も経済合理性を身に着けることになります。そのこともあって中国の国有企業は、株式を発行して資本を集めることを認められ、かなり資本主義企業化しています。

□「社会主義」企業の中からも、やがて国際的展開が可能になるエクセレント・カンパニーが出現することが望まれます。また資本主義企業の経営形態や所有形態等にも社会的民主的要素が強化されることも望まれます。

□そして資本主義社会の中でも消費者運動や環境保護運動、農民運動や労働運動等を通して、生産・流通・消費の各分野の協同組合企業などアソシエーションやコミュニティの成長も期待されます。

□これらの企業でも例えば世界的に農地を買収して、穀物生産を行うなどの国際展開も考えられます。

□このようなグローバルな経済活動の展開が世界秩序形成の基礎を築くことになります。

□当面国家規模での社会主義革命の可能性は遠のきました。政治権力を握ってその強制力で企業の所有、経営形態を上から変えてしまっても、労働者自身の自治的な経営能力が成熟していなければ、官僚主義的な経営になってしまい、労働者自身が所有し、運営する本来の社会主義にはならないというのが、ロシア革命以来の経験であったわけです。

□今後は、生産者、消費者、生活者、自然人、地球人のそれぞれの立場から、具体的な家庭、職場、地域、自治体、国家、世界のそれぞれにおける共同と連帯を図り、民主化を推し進めていくことが大切です。

□これが身近な所から社会主義を形する運動に繋がるのです。(付記―この方向でマルクスの可能性を再読したのが1994年、田畑稔著『マルクスとアソシエーション』新泉社刊)

□市場原理に対する共同体原理、私利追求に対する連帯志向、金銭還元主義に対する社会的役割遂行による自己実現主義、便利志向よりも自然との一体感重視等が今後の社会主義思想の質として捉えられ、たとえ「社会主義」経済体制が崩壊しても、運動としての社会主義は存続していくと思われます。

□つまり社会主義は、私利追求にのみ傾きがちで、社会の公正や自然のバランスを崩しがちな市民社会において、自省の原理として、誰もが心得なければならない普遍的なオリエンテーション(構え)として生き続けるのです。これも自由と民主主義を原理とし世界秩序の形成の基盤を生みます。

 世界秩序形成への動きで重要なのは戦略兵器削減交渉(START)など軍縮の動きです。米ソの軍縮交渉では、米国は「核の傘」の論理をもっており、核兵器で平和が護られていると考えていました。

□ですから核軍縮には消極的だったのです。これはソ連が通常兵力では西欧諸国を圧倒していると見られていたので、核兵器がなくなれば、ワルシャワ条約軍の西進を招くと危倶していたからです。

□これに対してソ連は全面完全軍縮などを唱えて盛んに平和攻勢をかけていましたが、いざ交渉となると国内の軍事基地を査察されることを非常に嫌ったのです。査察を許すとミサイル攻撃の標的を与えると考えたのでしようか。

□ともかく互いに相手が本気で、核兵器などの戦略兵器の全廃に向けて交渉する気持ちがあるとは思えなかったのです。それがソ連の核ミサイルにおける優位や、軍事偵察衛星の発達等もあり、軍縮促進の条件が整ってきたのです。

□それに何より両国とも軍事費の負担の増大で経済成長が阻害されることになり、本気の軍縮交渉になってきたのです。1985年、ジュネーブ首脳会談での戦略核ミサイル半減原則合意、1986年、レイキャビク首脳会談で戦略核ミサイル全廃潜在合意、1987年、INF全廃条的調印と事態は進展しました。そして1989年の東欧の共産党支配の終鴛と、マルタ会談での冷戦終結宣言で冷戦構造は崩壊しました。

 大国の帝国主義的野望を除いては、軍縮への基本的障害はなくなったかに思えましたが、戦略核ミサイル全廃条約まで進展するのは時間がかかりそうです。何故ならロシアに核軍縮を実行する技術や経済力がなくなっていますので、進展が難しいのです。三分の一縮小を決めたSTART?は1994年末にウクライナが核兵器拡散防止条約を受け入れて、やっと発効にこぎつけました。

 それに最近は冷戦終結後、地域的な覇権を固め、大国としての権威を取り戻そうとする動きもあります。ロシアはCISを自己の勢力圏として固めたいと考えていますし、中国は軍事大国化を目指して軍事技術の近代化に力を入れています。

□西欧諸国にもファシズム台頭の懸念があります。軍事的優位を背景に国際政治のへゲモニーを維持しようとする限り、大国間の交渉だけで軍縮がすんなり進むと考えるのは危険です。

□これを推進するためにも、WTO(ワルシャワ条約機構)だけでなくNATOや日米安全保障条約などの西側軍事同盟の解体も必要です。それにはやはり反核平和運動の昂揚が大切です。大国間の軍事対抗関係に終止符を打ち、世界秩序に接近させなければなりません。(付記―2001年9月11日の同時多発テロによって世界情勢は一変して、本書の分析は少々時代遅れになったようです。)

ーーーーーーー第十三章 未来の問題―信仰ーーーーーーーーーー

□社会主義、政治的自由、世界秩序はそれらの実現の途上において常に信仰に担われていなければならない、とヤスパースは語ります。

□彼によれば、信仰によらず、不信仰による社会主義は独善的で強圧的な「共産主義」に陥り、信仰の伴わない政治的自由は衆愚政治から独裁政治を招きます。世界統一の動きも信仰を失っていれば、世界帝国になるか常に揺り返しが起こって頓挫せざるを得ないのです。ヤスパースは信仰を

(1)神への信仰、(2)人間への信仰、(3)世界の中での諸々の可能性への信仰、

に分けその連関を考察しています。

□事物や人間が神によって造られたものでしかなく、従って、真の実在は事物の世界を超えて存在しているのなら、諸事象は真の実在を指し示すための象徴(シンボル)に過ぎません。そこでヤスパースはこう述べています。

「いつでもわれわれは、様々な象徴をもって生きている。それら象徴においてわれわれは、超在(=神)、すなわち真の現実を経験し、把握する。象徴を実在化して世界の中での現存在と考えても、象徴を審美化して感情のための勝手な手引きと見なしても、同じく現実の喪失が起こるのである」(401頁)。

□われわれは、現実の事象が神の与え給うたシンボルであると気付かずに、全体知が成立すると考えたり、あまつさえ人間がそれを全体計画化できると考えがちですが、それはヤスパースにすれば、とんでもない思い上がりなのです。

□われわれは、われわれの知の限界を自覚し、人間性や自由と抵触しない限りでの計画に満足すべきだというのです。人間は自由を見出し、自由を意欲することができます。この自由は人間だけに実存という形で神から与えられた贈り物なのです。ですから

「人間の自由への信仰は、自由に基づく人間のもろもろの可能性への信仰であって、人間を神化するあまりの、人間への信仰ではない。人間への信仰は、それによって人間が存在するところの神性への信仰を前提とする。神を信じることなくしては、人間への信仰は、人間の軽視、人間の尊敬の喪失に堕し、その結果はついに、他人の生命を冷淡に、消耗品として、破壊的に取り扱うに至るのである」(402頁)。

□人間の可能性へのあくなき追求は、そのために多くの人々に犠牲を強いることにもなりかねません。

□自己の自由の追求は、一人だけの身勝手なものであってはならないのです。その運命を共にする人々にとっても、主体的な自由の追求であるべきです。決して他人を単なる事物存在に貶めてはならないのです。そのためには交わりは実存的な愛しながらの闘いであるべきです。

□超越的な神への信仰がなければ、他人が自分と同様に実存であることを確信できなくなり、人間軽視に陥るとヤスパースは思ったのでしょう。

 世界をそれ自体で完結した全体と見なし、全体知が可能だとしますと、人間の可能性は汲み尽くされ限定されてしまいます。しかし世界は謎に充ち、この謎の中で自己を見出す他はないのです。世界の中での可能性は、従って決して汲み尽くせないものなのです。

「世界は諸々の課題の場であり、それ自体は超在に由来する。われわれが自己の本当の意欲をさとる時、図らずもわれわれを襲う言葉が聴こえてくるのは、実にこの世界の中においてなのである」(403頁)。

□信仰なくしては、悟性、機械的思考、非理性的なものそして破滅が残るだけだ、とヤスパースは警告しています。社会主義と世界統一に果たす信仰の役割についてヤスパースは次のように語ります。

(1)信仰に基づく力……「人間の動物的基本衝動を制御し、克服して、みずから高みへと飛期させる人間存在の動力に変えてしまう」(403頁)。

(2)寛容……ヤスパースによれば、人間は一つの起源から出発し、様々な歩みを行い、そして世界秩序への道を歩んでいます。そのことに対する信仰があればこそ、そのために無際限な交わり、語り合いが要求されているのです。

□「寛容は、胸襟を開き、自己の分限をわきまえ、信仰に関するいろいろな表象や思想を、ひとつの絶対的に普遍妥当的な分母に通分することなく、それらを相違性を保ったまま人間的に結び付けようと欲する」(404頁)。

□ただし寛容にも限界があります。それは絶対的非寛容に直面した場合です。ロックはローマ・カトリックと無神論には非寛容でした。

□戦後の西ドイツ社会はいわゆる「戦闘的民主主義」が幅をきかし、左右の全体主義と認定された政党を非合法化してきました。

□つまり民主主義に対して破壊的な立場には寛容することはできないというのです。この「絶対的非寛容」に対する非寛容が体制への異議申し立ての途を塞ぐ役割を果たしました。同質化した大政党の支配の下で、民主主義の形骸化が危倶されてきたのです。

(3)あらゆる行為に魂を吹き込むこと。……社会主義、計画化、世界秩序への途において、具体的に政策を決定し、実行するのは人間です。

□それは悟性を働かせて考え出すのですが、その際、当事者の考え方、信仰、性格が実現の様式と以後の成り行きを決定します。つまり悟性は自分でも思いも寄らないもの、本能、熱情、信仰衝動、理念等諸々の動機に導かれているのです。

□世界が単なる事物の機械的連関に過ぎないのなら、悟性にはこのような動機の存在は邪魔なだけです。信仰によって有限的な物事は制限的に扱われます。あくまで有限者は、無限者の器ないし言葉です。そこに無限者が現われ出る担い手なのです。

 ヤスパースは世界の統一が、信仰の統一なしには行われ得ないという見解には同意しません。

 「世界秩序という万人に拘束力をもつ普遍者は様々な信仰内容が、ひとつの客観的普遍妥当的信仰内容に統一されることなく、歴史的な交わりにあってあくまで自由である場合、他でもなくこの時こそ、初めて可能なのである」(416頁)。

 社会主義、政治的自由、世界秩序(恒久平和)が信仰によって担われなければならない、というヤスパースの発想に説得力があるでしょうか。

□彼の神は超在です。現実の諸事象はシンボルに過ぎず、真に存在するものは神でしかないのです。

□そのため現実の諸事象を総べて科学的に認識し、それに基づいて全体計画的に現実を処理しようとする傾向は、神を否定するニヒリズムを宿していることになります。

□またこれでは人間を神から切り離して、あたかも事物のように取り扱うことになるので、人間性と自由が失なわれることになるというわけです。

□ところが神の否定はニヒリズムと直接一致するわけではないのです。むしろ神を認めてしまうと、総べては神の必然であるから自由意志は無力だ、とルターは主張しました。

□サルトルはルターの土俵で、だから人間が自由であるためには神は否定されなければならない、と断言したのです。

□ですから神の創造を認めることが必ずしも人間の自由を保障するとは限らないのです。また神による創造を認めても、それが人間にとって全体知の不可能を意味するとも限りません。

□ベーコンは神による創造を人間のための行いと考えました。ですから神が隠し給うた物を人間が明らかにするのは、人間が神による創造を讃えることになるのです。つまり神は人間にとって原理的に不可知な物を創造されるはずがないのです。パースも事物の認識可能性を神による創造から説明したのです。

□互いに人格として尊重し合うというのも、決して超在との関わりを信じることから帰結するとは言い切れません。神意は人間には計り難いものです。人間にとってそれは不条理として現われざるを得ないのです。

□神に無条件に帰依することが人倫と矛盾するというテーマこそ、信仰の最大のジレンマでした。

□アブラハムは、神の試みにあわされ、自分の最愛の息子を殺して生贄に捧げようとしました。

□このアブラハムの信仰をイスラーム(絶対帰依)といいます。真の信仰はこうでなくてはならないといわれるのです。そこから信仰を護るための戦いが神聖化され、信仰のために生命を軽視して、殺し合う悲惨が、神の栄光を讃える究極の営みとして捉えられる倒錯を生むのです。

 人間同士が互いの人格を尊重し合い、助け合ったり、愛し合ったりするのは、社会生活を営む際の共同性から由来します。

□決して超在との関わりからではありません。人間は一回限りの有限な生を生きています。そこから自分の人生に対する無限のいとおしみ、執着が生じます。この自己愛は社会生活における対人関係で庇つけられます。自己愛に留まっている限り、自己は他人から単なる有限な事物として、手段として扱われることになるからです。

□自己を無限な人格として認めて欲しかったら、他人を無限な人格として最大限に尊重し、大切にすることが必要です。互いの人格的な交わりによって、人格性を保障し合えるのです。

□神信仰は、人格の無限性を社会生活の中で互いに保障し合えない現実に直面して、現実の彼岸に無限な存在者を仮想し、この無限者によって自己の人格的無限性を支えようとしたものに過ぎないのです。

□神によって自己の人格的無限性が保障されてしまえば、互いの社会関係の中での相互尊重の必然性が希薄になり、かえって社会的には人格を平気でスポイルし合う危険すらあると言えるでしょう。

□信仰によって支えられている人にとっては、信仰を伴わなければ、人間性を見失うと真剣に考えているでしょうが、信仰を持たなくても人間性を保って生きている人は多いのです。

 神という言葉で普遍妥当的価値や愛の存在を象徴する場合もあります。現代がニヒリズムの時代だということは、最早、価値観の一致を前提にすることはできないことを意味しています。

□とはいえ恒久平和の理念、思想としての民主主義や社会主義にはそれなりの普遍妥当性が認められています。これらの理念をよりいっそう社会システムの中に実現し、人類共同の信念として確立するための努力が求められているのです。内村鑑三の次の言葉の意味は、この文脈で解釈すべきです。

「I for Japan;Japan for the World ;The World for Christ;And all for God.」

残念ながらヤスパースの場合の信仰はそのような普遍性に欠けているようです。

【追記―信仰の問題としては、『歴史の危機』との関連では一神教の独善性からくる文明間闘争の問題や、一神教に代わって多神教の多様性の容認の原理が宗教の将来的な原理になりうるかという問題が論じられるべきである。「採録に寄せて」と梅原猛ーその哀しみとパトス』ミネルヴァ書房刊の「エピローグ」を参照願いたい。】

ーーーーー第十四章 歴史の意味ーーーーーー

□フクヤマの場合は歴史は終わったという議論ですので、今更、歴史の中で生きる意味を問い直すのは無意味ですね。

□それに対してヤスパースにおいては、歴史は実存的な存在のあり方にとって、きわめて重大な意味を持つのです。

□ヤスパースは、遺伝可能な生物学的実体と喪失可能な歴史的実体である伝統を区別し、この伝統によってようやく人間であるとしています。

□この伝統は、日常的な社会関係の中で培われた習慣や信仰に基づく生き方や考え方で、ほとんど無意識的となっているものです。ですから作り出したり、計画的に生み出したりできません。

□これは、ヤスパースに言わせれば、歴史の始まりにおいて先史時代から受け継いだ、いわば人間存在の資本なのです。資本ですから増殖されたり、消費されます。

□そのような営みを人間精神が行うことによって、初めて歴史的実体としての伝統が明確になり、自覚されるのです。伝統から離れて、何ものかを理性から生み出そうとする啓蒙は、自己倒錯に陥り、虚無に至るとヤスパースは語ります。

□しかしどうして、われわれ人間だけが、歴史を持つ理性的存在者になったのでしょうか。

□「無限の空間のうち、他ならぬこの場所で、宇宙の消えなんばかりの微塵に過ぎぬこの地球上で、何ゆえわれわれは生き、何ゆえ歴史を営んでいるのであろうか?無限の時間のうち、まさしくこの今に、何ゆえわれわれは存在するのか?何事が起こって歴史が始まったのか?これらは解答できぬがゆえに、ひとつの謎を意識させる問題である」(433頁)。

□私が存在するのは、私の両親の生殖活動の結果であり、社会の生産活動の結果でもあります。科学的な説明はいろいろ可能ですが、しかし、何故他ならぬ私が、今この時代に、この場所に存在するのか、という問いは残ります。

□この問いには原理的には解答不能です。この時代に関する認識を深め、自己の置かれている立場を振り返って、自己の使命を確認することで解答に代えるしかないでしょう。人類全体に対する問いに対しても、人類が直面している課題を真摯に捉え返すことが、解答の代わりを果たすのです。

□宇宙空間の中の他の天体に理性的存在者が果たして存在するだろうか、という問いに、ヤスパースは

「その可能性を否定もできぬし、その実在性を予想もできない」(436頁)

と答えて、しかし問いかつ知るという哲学する営みにおいて、人間が無限の時空の中の、このちっぽけな遊星の上で自覚に達したという事実こそ、驚嘆すべきだと語ります。

「この思惟的意識ならびに、この意識においての、かつそれを通じての人間存在という史上特異な現象は、全体としてみれば宇宙の中での微々たる事件に過ぎず、全く新しく、全く刹那的であり、たった今始まったばかりである、―しかしそれとして内から眺めれば、あたかも宇宙をも包み越えるがごとく、既にきわめて古いのである」(438頁)。

□この文章は、パスカルの『パンセ』の「人間は考える葦である」のさわりを下敷きにしていますが、何故「既にきわめて古い」と言えるのでしょうか。

□おそらくヤスパースは、宇宙自体は人間という自己認識に到達しなければ、何の意義も自己自身に与えられないのだから、人間の出現は宇宙の創造自体に既に折り込み済みであった、と言いたいのでしょう。

□神の宇宙創造を認めなかったエンゲルスは、『自然の弁証法』で物質の弁証法的発展の論理を展開しています。へーゲルやダーウィンに倣って無機的自然から有機的自然、下等生物から高等生物への進化の必然を説き、「猿から人になるにあたっての労働の役割」を説いて、やがて地熱の低下や太陽の衰え、宇宙の爆発で必然的に人類は滅亡するけれども、再び同じ必然性で理性的存在者が進化してくると説いています。

□歴史とは、単なる一般者ではなく、個体的な形をとり、一回限りのもの、かけ替えのないもの、唯一のものでなければならないと、歴史の一回性をヤスパースは強調します。彼はこれを人生の一回性と結び付けますから、人間ならびに人間の創造物にしか、一回性という実存的な存在様式を認めません。一回性の自覚は次のことに繋がります。

「歴史においてわれわれが出会うのは、自由としての、実存としての、精神としての、真剣な決意としての、全世界からの独立性としてのわれわれなのである。自然においてわれわれに語り掛けぬものが、歴史においてはわれわれに語り掛けている。すなわち自由における飛躍の秘密、人間の意識における存在の開示の秘密がそれである」(440頁)。

 われわれは歴史を見直して、様々な類型、一般法則を学び、そこから尽きない知恵を汲み取り、痛切な体験に基づく貴重な教訓を得ることができます。

□しかし歴史的なものは単なる一般者ではありませんから、決して単純に繰り返すわけではないのです。

□よく心得違いをして、故事に倣ってとんでもない茶番劇になってしまうことがあります。互いに一回限りの実存を生きる歴史的個体同士として「実存的な愛の交わり」によってのみ相目見えることができるのです。

「歴史的なものは、一般者の容器ないし一般者の代表としての個体ではなく、むしろそういった一般者を初めて賦活する現実性である。真に歴史的な個体とは、あらゆる存在者の根源に結ばれていて、この根拠においてある自己を、みずからの自己意識において確証している自己存在者なのである」(441頁)。

□われわれがある歴史的個体を愛することによって、例えばイエスを愛し、マルクスを愛することによって、愛されるイエスやマルクスの無限性を通して世界が開示されるのです。これはあらゆる歴史的存在者に対する愛へと拡張し、存在者の根源における存在そのものへの愛へと深まります。

「かくして愛のまなざしに対し、存在、すなわちこの唯一の巨大な個体が、世界の中で歴史的に存在しているありさまが明らかになる」(442頁)

とヤスパースは語ります。

□かくして歴史認識は、歴史的個体である対象の認識であるだけでなく、歴史的個体としての自己の認識であり、同時にそれらの根源である包括者の感得でもあるのです。あらゆる歴史性は、このようなひとつの包括的歴史性の根底に根差していると捉えています。そこから全体史への前進が可能なのです。


 過渡期においては、一回限りの唯一のものが決定的な役割を果たし、同一的反復はあまり起こらなくなります。その時にこそ深い根底から真理は現われ出ると言います。

□ヤスパースの例示によれば、ギリシア悲劇は神話から哲学への過渡期に立ち、エックハルトの神秘思想は教会信仰的であると同時に新たな自由な理性の始源でもあり、ドイツ観念論哲学は信仰から無神性への過渡期であったのです。

□過渡期はその時代に特有であって、他の過渡期と過渡期としての共通性はあるものの、決して置き換えられるものではないのです。常に一回限りの唯一性をもっています。だから反復も模倣もできないかけ替えのない姿で現われます。

□このかけ替えのなさにおいて時間を超えた輝きを示すのです。われわれはこれに燃え立たされ、心動かされますが、われわれは全く異なった時を生きているのですから、その真理と完全には同化することはできないのです。

「完結的真理と、存在自身の深みに由来する曇りなき実相を、われわれは歴史のどこかで見たいものだとは思う。しかしわれわれがそれを見たと信じる時、われわれは幻覚に陥ち込んでいるのだ」(445頁)。

□中国や日本には伝統的に復古思想があります。十八世紀ヨーロッパではロマンティークが過去への憧憬に身を焦がしました。しかし実証的にその時代の遺物を研究しても、そのような夢想の裏付けは得られないのです。

 ヤスパースは史的唯物論を意識して、原始共産制を幻想として退けようと、次のように述べています。

「原始時代は野蛮であり、人間はこの上なく孤立無援、寄るべなき存在であった。人間存在は精神となり、伝達可能となるものであって、その上で、初めてわれわれに理解し得るのである」(446頁)。

□確かに、群婚→世代婚→プナルア婚という形で原始共同体が単線的に発達したわけではないでしよう。これらは、現存する未開の共同体のプナルア婚と野蛮共同体の世代婚から類推して群婚を最も原始的な形と考えたに過ぎません。

□一口にプナルア婚と言いましても、兄弟姉妹婚が完全な形で行われていたのが一般的だったわけでもないでしよう。またこの段階の家族が母系制か父系制かは地域的な、慣習的なものでして、産業の形態にも影響されました。だから一概には言えないのです。

□とはいえ四大文明が始まる以前や文明から離れた地域で、人々が親縁関係か疑似親縁関係に基づく共同体を広範囲に形成し、そこでは原始的な共産制が根付いていたことは否定できないと思われます。

□よく人類学者などで、未開社会では私有財産は近代社会以上に堅固である、と報告する者もいますが、それは私有の意味を誤解しているので生じたとんでもない早合点なのです。

□へーゲルは『法の哲学』で、所有を〔占有→使用→譲渡〕の展開によって概念把握しています。所有主体と所有対象は他者関係にあり、他者性を止揚して占有するのですが、ただそれだけでは所有ではありません。

□所有したものは使用することによって自分のものであるという実を示さなければならないのです。しかし、この使用関係に所有主体がとらわれてしまえば、真の所有とは言えません。所有主体はあくまで所有対象から自立していることを示すために、所有対象を譲渡できなければならないのです。

□へーゲルの「所有」概念は、このように「私有」概念なのです。これに対して未開社会の所有の堅固さは自分の使用する対象を、まるで自分の身体の一部分のように見なして、決して人に譲渡しようとしないことを指して言われるのです。ですから、固有であって、私有ではありません。

□マルクスはこれを『経済学批判要綱(Grundrisse))で、「本源的な所有」と見なし、「不可分離的所有(das individuelle Eigentum)」と表現しているのです。

 マルクスは原始共産制を、単純に帰って行くべき理想郷と思っていたわけでは決してないのです。そこでは私有財産に伴う様々な矛盾は表面化していません。人々は互いに身内として強い一体感をもっていました。しかしその結果構成員の人格的自立はできず、共通観念に支配されて、トーテム信仰とタブーに囚われた停滞的な生活を送っていたのです。マルクスは、私有から解放された将来の共同体は、「自由な自立した諸個人の連合体(アソシエーション)」であるべきだとしています。

□われわれは確かに過去の真理を模倣してはなりません。現在の根源から生きることによってのみ過去の真理との交わりを保つことができるのです。

□「本来の真理のあらゆる現象は、根源においては、すなわち時間の中での持続ではなく、時間を撥無する永遠(zeittilgende Ewigkeit)たるかの恒存においては、同質なのである。この真理を私は、ただその都度現在において、その都度自己の過渡的移行において見出すのであって、知的理解でも模倣においてでもなく、過去の現象の同一的反復においてでもない」(447〜448頁)。

□かくして歴史とは根本的には過渡的移行そのものなのです。それはまたわれわれ自身の存在の根源に関わる実存的な在り方なのです。その意味では過去は過去であることを越えて、この個体的な実存の契機になっています。

 歴史の統一性は、人間が同じ種族だという生物学的な素質から理解することはできません。

□「人間を直接神性の手から生じさせるところの、高度の意味での根源において以外に、統一の根拠を持ち得ないのである」(445頁)。

□起源のこうした統一は歴史性そのものだとして、その根拠を次にあげています。

(l)歴史的存在者として人間は、自己の根源に基づき、そこからすべての人を結び付ける統一へと進むように要請されています。でないと互いに人間同士は隔絶されたまま、意志の疎通ができないので、人間同士が了解しあうことによって成り立つ歴史は不可能だったでしょうから。

(2)人間は歴史的個体として、それぞれ異なる根源から生きる他ありません。聖者でありつつ勇士であることはできないのです。しかしあらゆる人を結び付けるひとつの歴史的根拠を意識することによって、他の歴史的根源に向かい、こうして歴史の統一を志向するのです。

(3)歴史におけるかけ替えのない創造の歩みは、後世の人々の創造的な精神を形成します。これらの精神的な交わりがひとつの精神の動きになり統一へと向かうのです。

□ヤスパースは、人間を実存的な交わりとして捉えていますから、歴史の根源としての包括者は、人間を実存的な交わりを実現する存在として作り出したのだと考えます。従って、歴史は交わりの歴史として統一性をもっていることになります。

□しかし問題なのは人間の歴史的本質を交わりという形、意志を疎通させ合い、愛し合うという形だけで捉えてよいのかどうかです。

□この歴史的交わりは、人格的な交わりとしては市民社会の交換の発達に基礎付けられており、その関係は相互支配としての面をもっています。そのため私有財産を巡る平和的なあるいは血で血を洗う戦いが繰り返されてきたのです。

□戦いもまた交わりの形だとするのなら、交わりのアンビバレントな展開こそ歴史として捉え返すべきだったのです。

 人類は様々な文化や社会を色々な地域や時代に造りあげて来ました。それらの中には幾多の共通性や類似性が見出されます。しかし真の人類の統一性はこのような普遍的なものによって形作られるのではない、とヤスパースは断言します。

□「人類の統一は、歴史的特殊者同士の相互的な連関において初めて基礎を置き得るのである。歴史的特殊者とは、本質的には片寄りではなく、むしろ積極的に根源的内容であり、一般者を表示する実例ではなく、人類のひとつの総括的な歴史性を構成する分肢なのである」(458頁)。

□彼は歴史は固定し、停滞するものではなく、変化し移り行くものであり、過渡なんだと言いたいのでしょう。

□知識や技術的能力の面では進歩が行われ、世界史はその範囲での上昇線を描きます。しかしこの線は全体の中のただ一本の線に過ぎません。高度な文明は蛮族に滅ぼされ、最高級のタイプの人間が大衆の暴力によって物理的に否定されるのは、歴史の基本的現象でもある、とヤスパースは指摘しています。

□科学技術的な真理は、普遍的に伝授譲渡でき、もっぱら悟性に向けられます。このような真理の進歩は悟性の統一をもたらしますが、人類の統一はもたらしません。

「そもそも悟性は意識一般を結び付けるに過ぎず、人間を結び付けない。悟性は何等本当の心の交わりや連帯性を生み出さない」(461頁)。

□ということはヤスパースも人類の統一にとって科学技術の進歩が不必要だと考えているのではなくて、それは人類の統一に役立つこともあれば、人類の分裂や滅亡に役立つことさえある手段に過ぎないと主張しているのです。

 地球という閉ざされた時間と空間を共にしているので、交通の発展によって、物資の交流だけでなく、精神的な文化の交流も盛んになります。

「しかしこのような交流そのものがまだ決して統一ではなく、この交流において実現されるものを通じて、初めて統一は成立するのである」(463頁)。

□それは存在の根源に根ざす実存的交わりでなければならないのでしょう。

□この他にも諸々の文化圏、諸民族、世界宗教、諸国家等の形で統一性が認められます。しかしこれらには普遍性が欠如しています。複数の文化圏、民族、世界宗教、国家が並存し、平和的に交流したり、対立したり、対決したり、協調したり、あるいは戦争したりしています。

「一切は移り変り、究極的固定的なものは何も存在せず、区別がつかないほど混じり合う」(465頁)

のです。これでは真の歴史的統一とは言えません。

□統一性を暗示する多様な事実は、歴史の統一性を構成するのには充分ではありません。そこでヤスパースはこう述べます。

「歴史の統一は事実ではなく、目標なのである。歴史の統一はおそらく、一なるものの理念、一なる真理、精神の世界において、われわれが相互に理解し合えるという事実から生まれてくるのである。この世界においては一切が一切に意味深いかかわりをもち差し当たりはなお極めて相距たっていようとも、すべては互いにこの世界の一員なのである」(466頁)。

この歴史の統一の「意味」は、次のように表明されます。

(1)人間の文明と開化(Humanisierung)が目標とみなされます。恒久平和を保障する世界秩序が形成され、この共同生活の上に、人間の霊的精神的な創造活動が開花するとしています。

(2)自由ならびに自由の意識が目標と見なされます。世界秩序は政治的自由をもたらしますが、人間の生存の本当の自由は、その上に築かれるのです。

(3)優れた人間つまり天才と精神的創造、それに共同精神の反映としての文化の産出が目標なのです。人間存在の頂点による統一は、最も深遠な自覚、本質的な開示の輝ける瞬間にあるとします。絶頂を極めた人は存在の根源から発しているので、悟性には知ることができない統一に属しているのです。

「そもそも歴史はこの統一を目指し、それから発し、そのために存在するのである」(468頁)。

□精神的創造物、文学作品や芸術作品などに存在の根源を感じ取り、その感動の深さに生きる意義を見出せる感受性をヤスパースは読者に求めているのでしよう。もちろんこのような優れた感受性は、洗練された文化を創造できる人々にこそ属します。ですから大衆の文化水準の向上こそが目標とされるべきでしよう。大衆の水準が高ければ素晴らしい天才が多く輩出するでしょうから。

(4)「人間における存在の開示、人間の魂の深みにおける存在の覚知が目標と見なされる。これは神性の顕現にほかならない」(468頁)。

 この内どれを選んでも、それは他のすべてを包括していません。これらの目標は、一つだけ目指して到達できるようなものでもないのです。しかし人間は彼らのオピニオン・リーダーを通して、最も包括的だと思われる一つの目標を選びたくなります。ここに歴史の全体観が語られることになります。キリスト教的歴史哲学、へーゲル、マルクス、コントなどに見られる全体知による歴史の統一性の把握は、ヤスパースに言わせれば次のような理由で挫折しています。


(a)全体知の中では、個人は全体の部分に過ぎない、各個人の存在、各時代、各民族は全体に隷属するものとされている、とヤスパースは批判します。

□ヤスパースに言わせれば、個人は根源的には神性に関わっています。また個人は包括者としては無限性をもっており、あらゆる時に全体なのです。

□へーゲルやマルクスにあっても、個別は具体的普遍として捉えられていますから、ヤスパースの批判は問題です。ただヤスパースは、全体知では個人が

「超在に直接するのではなく、時間の中で場所に媒介されており、この場所が彼を制限し、部分たらしめている」(472頁)

と指摘しています。彼にすれば、限界状況の自覚を介して超在(=神)と直接する事による救済の可能性が大切なのでしょう。

(b)「全体知においては、人間の現実を構成している最大の実質すなわち諸々の民族、時代、文化がそっくりそのまま、どうでもよいものとして無視される。それらは偶然であり、付随的な自然生起以外の何ものでもなくなってしまう」(472頁)。

□この批判はおそらく、生産力と生産関係の矛盾的な関係によって構成されている生産様式が、歴史の機関室、土台の役割を果たしていることに注意を促した唯物史観を、念頭に置いているのでしよう。

□マルクス・エンゲルスは、経済的な土台をつい見落として頭でっかちな議論になりがちな傾向を戒めているだけで、民族、時代、文化を歴史を考えるに当たって無視してよいなどと夢にも考えていません。

(c)全体知にとっては、歴史は閉じられていで、初めと終わりが臆測的な啓示の形で補足されている、とヤスパースは語ります。彼は未来に対しても態度を保留し、未来から初めて完全に理解可能になる過去についても知れ切っているとは考えません。

「限られた視界の小丘から様々な方向をとる可能な道を知るのであるが、しかし社会の起源と目標の何たるかを知らないのである」(473頁)。

□マルクスの場合は、これまでの階級闘争の歴史を真の人間に至る前史と見なし、新しい共同体の建設によって階級闘争がなくなることで、真の人間の歴史が始まると考えていたのです。

□まだマルクスの考えたような新しい共同体は実現していません。またマルクスには、やむを得ないことながら、二十世紀で起こったような資本主義の質的変化や、社会主義体制の官僚主義的歪曲について予測できませんでした。

 ヤスパースは統一の理念の要請はなくてはならないとして次のように指摘しています。

(a)歴史の「概観」は残ります。そのためには全体史の適切で構成的な整理が、統一の理念のもとに行われる必要があります。

(b)地球は閉鎖的ですから、同じ時間で年代記がつくれます。そして人間は一つの種族であり、根元は単一性をもっていると言われます。

(c)人間は、まだ誰も見渡せませんが、すべての人を包み込んでいる、一つの包括的な精神を懐いて存在しています。この統一は一なる神に関わるのだとヤスパースは表明しています。

(d)総べての個別存在は、とらわれない眼から見れば、普遍的な可能性をもっているのがわかります。総べてのものはわれわれにとって大切で、一見遠い存在も実はわれわれに深く関わっているのです。またその時々の現在が、われわれにとって進路を決定する重大な岐れ路であることに気付くことがあります。その現在の充実の時に、これまで如何なる道を通ってきたか、これから如何なる方向を目指すかを見はるかす歴史の統一が、課題として捉えられるのです。

(e)全体の中ですべてがその重大性や本質性によって、それに相応しい場所を占める秩序立った全体としての歴史の理念は、あくまでも消えないとしています。

「歴史と現在はわれわれにとって不可分となる」(491頁)。

□歴史は、われわれが存在しなくても客観的な事実として存在しています。しかしわれわれが今を生きることによって、歴史の意味を見出さなければ、歴史は暗闇の中に忘却されてしまいます。

「普遍的歴史像と現在の状況意識は、相互に持ちつ持たれつの関係にある。私の過去全体の眺め方のいかんと、私の現在の物事の経験は相関する。私が過去の物事にいっそう深い根拠を獲得すればするほど、現在の事の成り行きへの私の参加はますます本質的となる」(493頁)。

□われわれは過去に人類の歴史を重ね、民族の幾千年の歩みを背負って今を生きているのです。その歴史の重みを忘れてその日その日を送っていたのでは、今は空虚化してしまい、浮ついた人生になってしまうのです。また歴史を今を生きる現前性から切り離し、単なる過去の物語的歴史にしてしまいますと、歴史を見ることによって、現在から逃避し、空想としての物語としての歴史に生きることになってしまいます。

「充実された今の謎は決して解決されはしないが、歴史的意識によって深められる。今の深みは、ただ過去と未来が一体となり、過去の回想と私が生きる目標とする理念とが一体となって、初めて明らかとなる。今の深みにおいて、歴史的形態を通じ、歴史的衣裳をまとった信仰を通じて、私は永遠の現在を確証するのである」(494頁)。

□「永遠の現在」とは、過去は過ぎ去って既になく、未来は未だ来らずなのに対して、現在は永遠に現在としてあり、しかも過去を体験の中に、また痕跡や記録の中に現在において含み、未来を可能性として現在の中に宿しています。

□「充実された今」「永遠の現在」とは、今この瞬間が、永遠の存在の根源の現前であることを意味するのです。しかしわれわれは完全には過去を知らず、未来の可能性も知ることができません。だから充実された今の謎は決して解決されないのです。

ーーーーーー第十五章 歴史の克服ーーーーーーーー

□ヤスバースは、最後の章で「歴史の克服」の方向を示しています。

(l)自然に心を向けることによって歴史を越える。

……美しい自然に心奪われて、時を忘れることがあります。その時、その行為は歴史を忘れるための逃避であり、結局は人間と自己自身からの逃避である場合も考えられます。

□超越神論の立場から見れば、自然は被造物であって、神自身ではありません。雨上がりの草のひと雫の輝きに生きる喜びが溢れてきた時、この雫を神の顕現と見なせば物神崇拝になりますが、神の示された言葉なきシンボル、神から与えられた暗示と解すれば、あくまで真実だと言うのです。

□ですから自然という神の暗号を通して、意識は自然を向いているのではなく、自然を越えて神に向かっているのです。

□汎神論、自然信仰の立場に立てば、自然自体がつまり森羅万象が神の御姿であり、神自体なのです。生きる喜びを与えたのは草の上の雫に他ならないのですから、雫が感動を与えた主体なのです。

(2)無時間的に妥当するもの、非歴史的な真理、自然科学的なあらゆる必然知、あらゆる変化を越えて恒存する普遍妥当的なものの全形式へと歴史を踏み越える。

……しかし、これはヤスパースによれば、悟性だけにやすらぎを与えますが、われわれ自身にはやすらぎを与えません。

□それは存在者に該当しますが、決して存在には該当しないからです。この場合、《存在者》とは具体的な存在する事物や身体を指します。それに対して《存在》とは、存在者の根源的な根拠、われわれがそれである包括者としての実存、真に存在するものとして存在者を創造する超在(=神)等を指します。

(3)歴史性の根拠へと歴史を越える、すなわち世界存在の全体としての歴史性に達する。

……自然の出来事もまるで共通の根から発しているかのように、歴史によっていわば魂を吹き込まれるものとしています。

(4)ヒストリー(書かれた歴史)を通じて歴史的な個人と実存的に交わるとき、共に歴史を背負って、永遠の現在を生きる歴史的な実存になります。《永遠の現在》こそ歴史を越えた歴史的な時と言えるでしょう。

(5)無意識的なものへと歴史を越える。

……無意識的なものとは先ず、意識の対象としてわれわれが世界の中に見出すあらゆるものがあげられます。ただし

「内奥の本質はそのものからわれわれに伝達されない」(498頁)

とヤスパースは語ります。彼は事物を神の被造物と受け止めていますから、創造の秘密は知り得ないと考えるのです。しかしながら、事物の本質は対象的関係でしかありませんから、内奥の本質という捉え方が、既に事物の本質はそれ自体の中にあると捉える形而上学的な誤謬に陥っているのです。

□彼は意識の下層に横たわる無意識を二通りの意味で捉えます。

□一つはそれ自体で存在し、かつ永遠に解明されぬ自然としての無意識、つまり身体を支える自然機構としての無意識的なものです。

□もう一つは開明への衝動を持つ精神の萌芽としての無意識です。後者は超在と実存を意味するのです。

□超在は、言語、詩、表現及び自己表示において、諸々のシンボルを駆り出しながら自己をあらわにするのです。あらわにされた状態は既に意識ですから、超在のシンボルに過ぎません。超在自身ではないのです。だからこそ超在は無意識なのです。実存は反省によって明らかになる無意識的なものなのです。

□悟性的な意識で事物的な存在に関わっているだけでは実存ではありません。事物的な世界での関わりや科学的認識ではどうすることもできない《死・争い・苦悩・罪責》等の限界状況に直面し、それを見据えて生き抜く時、限界状況の乗り越え不能な壁の向こうに、すべてを生み出した存在の根源である超在が感得され、超在に立ち向かう実存が意識されるのです。

□実存は本来的に人間が限界状況にある限り、人間の特性なのであり、それは意識する以前にそうなのです。その意味で実存も無意識的なものなのです。

 しかしわれわれは無意識な段階に留まってはならないのです。

「無意識的なものは、それが意識の中で形態を獲得し、それと同時に無意識的であるのをやめる限りにおいて、価値があるに過ぎない。意識とは現実的なもの、真実なものである。われわれの目標とするのは高められた意識であって、無意識的なものではない。われわれは歴史を無意識的なものへと克服するが、これはむしろ、この克服を通じて、高められた意識に至らんがためなのである」(500頁)。

(6)「歴史はそれ自体が超歴史的なものへの道になる。偉大なものを―創作―、行為、思想において―観照すると、歴史はまるで永遠の現在であるかのような光彩を発する。それはもはや好奇心を満足させるのではなく、高みへと飛翔させる力となる。歴史の偉大さは、畏敬の対象として、われわれをあらゆる歴史を越えた根拠に結びつける」(501頁)。

(7)歴史を統一的に把握することによって、歴史を越えることになります。何故なら、今度は歴史全体が歴史の統一の根拠を求めることになるからです。

□しかしこの根拠を歴史の外に出て外から探ることはできません。あくまで歴史の中での課題なのです。何故なら、超在は、この世界を越えていますから、歴史の外に出ても歴史の根源である超在は掴めないのです。

□ところで歴史の統一の根拠は、ヤスパースの言うように歴史を越えたところにあるでしょうか?彼は超在を前提にしているので、歴史を越えて歴史の根源を求めることにならざるを得なかったのです。

□マルクスは、歴史に内在する根本的な矛盾を歴史展開の動因として捉え、その解決によって歴史が統一的なまとまりの内に完結すると捉えました。しかし、それで歴史が終焉してしまうのではありません。そこから新しい人間の歴史が再出発するように、マルクスは構想していたのです。

(8)「永遠なるものは、時間の中での決意として出現する。実存の超越する意識にとって、歴史は永遠の現在において消滅しているのである」(503頁)。

ーーーー第十六章 ヤスパース歴史哲学の意義ーーーー

□ヤスバースの歴史を捉えるスケールの長大さに先ず息を飲みます。人類史を未来の枢軸時代まで含めて二つの呼吸で表現する見事さには脱帽のほかありません。

□1980年代には時代のトレンド(潮流)を先取りしようと近未来学が、ビジネスマンに馬鹿うけしましたが、せいぜい十年先位までしか見通そうとしません。それ以上先のことは、ビジネスの関係では不確定要素が強くて、よくわからないのです。わかって手を打てば、それによって未来予想が外れてしまうので、原理的に長期予想は不可能なのです。

□ところで最近の予想では、社会主義世界体制が解体してしまい、資本主義国においても、労働運動や社会主義運動等いわゆる左翼的な運動全般の凋落は、ますます深刻の度を加えるだろうとされましたが、それが的中して、ついに社会党まで革新色を一掃しました。

□それと表裏一体の形で、混合経済から自由主義への経済体制の逆行が進んで、行財政規模の縮小と民営化、民間活力依存が叫ばれています。高齢社会の到来に当たり、社会保障の切り下げが進行しており、所得税を累進性を緩和する方向で引き下げ、消費税率を引き上げて、自助精神が説かれています。

□またグローバルな規模での資本間競争の激化が見られ、アジア市場の急成長で大競争時代が現出し、価格破壊、賃金破壊が進行しています。これに対処するため生産性向上、シェア拡大等のしのぎを削る戦いが繰り広げられています。

□安定成長期に入ってから、末端労働者一人ひとりにまで企業家的精神を植え付け、利潤獲得競争に主体的に取り組むよう要請されるようになっています。

□労働者は自分で自分の首を締めるように主体性の発揮を求められているわけですが、そのことがかえって、これまでの夕テ型の会社組織から横型のネットワーク的会社組織へと変貌させる推進力になり、職場の疑似民主化傾向を生み出しつつあります。

□労働者に疑似的なコンサマトリー(自己実現)の機会として職場を捉えさせることが、生産性の向上に大いに繋がるのですから、資本の側としてもその傾向を追求せざるを得ないわけです。

□労働者の側としてはこれを労働強化や締め付けに使わせないようにしながら、他方でその内容を真の職場の民主化、真のコンサマトリーの機会として獲得する努力をしていくことが大切です。

□ともかく内容的には積極的に評価できる面をもちながらも、アンビバレント(両義的)ですから、表面的には新しい保守主義の時代を迎えているわけです。この傾向は、たとえ政治的に社会民主主義者が中心の政権が多くなったとしても、基底としては変わりません。



 この新しい保守主義の時代が当分続く中で、恒久平和、民主主義の徹底、人権の尊重を求めて戦う人々、そして環境の保護と社会連帯、労働における自己実現と新しい共同体を求める人々は、歴史的な未来に希望を失ないつつあるようにも見受けられます。

□市場経済を克服できない段階では、市場経済に最も適合しやすい企業形態である資本主義企業が、自由競争の中で強靭な生命力を保ち、高い生産性向上傾向を示します。

□極端な経済的破綻や戦争など民族的危機でもない限り、この段階で資本主義企業を国有企業に転換することはとても無理です。また国有企業になってもその運営は資本主義的に行われることになります。

□マルクスも強調していますが、資本主義がまだ経済的合理性を持ち、生産力を向上させる余地がある限り、社会主義に出番は来ないのです。ですから社会主義に代わるには、資本主義の矛盾が生産性の向上を妨げたり、余程の政治的・経済的危機に直面したり、環境破壊が深刻化して経済に対する統制を極端に強めなければならなくなったりするか、それとも社会主義的企業の方が生産性の伸びが良くなるかしなければなりません。

 とは言え、資本主義が未来永劫に続くと考えるのも説得力はないでしょう。既に株式会社という形態が、私企業の中で最も最大限利潤獲得に適しているだけでなく、最も社会化が進んだ形態でもあるのです。

□所有と経営の分離が進み、会社は、株主の意向よりも会社自身の自己保存と拡張をより強い原理として運用されつつあります。そして会社自身の存続のためには、人材を確保し、その能力を十二分に開発する必要があります。

□その為にも会社への従業員のアイデンティティを強めることが重要です。そこで企業を疑似的に共同体として意識させようとするのです。もちろん疑似的なものですから、企業環境の変化次第で、またもっと企業の考える経済合理性に適った方向が見出されれば、いつでも方向転換されるものでしかありません。

□現存の「社会主義」国の企業も市場経済の下で、独立採算性が強化されてきていますから、所有と経営の分離が進み、経営の原理も企業利潤の蓄積に置かれるようになりつつあります。

□そうしますと労働力賃金はコストとして扱われ、労使対立が深刻化することになります。こうして体制的な差異が解消に向かい、社会主義でも私企業が奨励されて混合経済化することになります。

□それでも遠い将来まで展望しますと、真の民主的な職場、真のコンサマトリーを求めて、社会全体の中での自分達の企業の置かれた責任ある役割を遂行するために、人々は自由に話し合い、自分達で決定できる共有の職場を求めるでしょう。

□それが実現するのは、もちろんそのような職場の方が、資本主義的な企業よりも経済合理性に優れ、創造性を発揮できて労働意欲が旺盛になり得た時です。それはまた労働者自身が、自治能力を備えるようになった場合ですが、そんな時が、未来永劫に来ないとは言えないでしょう。

 十年、五十年、百年の物差しで考えても実現しそうにないことでも、千年、二千年の将来まで考えれば決して実現不可能とは言えないはずです。

□今われわれが迎えようとしているのは、二十世紀末(追記―『歴史の危機』は1995年に刊行された)ですが、同時に一千年代末でもあるのです。次の千年間つまり二千年代に恒久平和の世界秩序を築き上げ、地球規模の混合経済を展開しつつ、やがては、自由人の連合体としての新しい共同体を建設するようになるのかもしれません。

□このような将来の遠大な構想を思い描きますと、今日のひとつひとつの自由と連帯の輪を広げる努力が、充実したものとして受け止められるのです。

□ヤスパースは二つの呼吸で人類史を表現したことで、彼が敵意を燃やしていたコミュニスト達に塩を贈ったことになるのかも知れません。もっとも彼が存命していたら、二千年代のコミュニスト達には、彼の存命の頃のような敵愾心を燃やすことはなくなっていたでしょうが。

□マルクス主義を批判するに当たって、ヤスパースは、マルクス主義は全体知の立場に立って、なんでもわかっているつもりになり、真理や正義を独占しようとするので、異なった意見に対しては真理や正義に敵対する者として排撃しようとする、だから互いに謙虚に話し合い、共に前進するように働きかけ合う誠実さに欠けていると考えているようです。実際、権威主義的だった当時のコミュニストの運動に対しては、ヤスパースの批判はかなり説得力を持ちます。

□しかし、当時のコミュニストが独善的で権威主義的であったことと、マルクス主義が全体知の立場に立つことの当否は別の問題です。精神的なものの基礎に物質的なものを捉え、物事の発展を弁証法的な論理で解明する世界観は、弁証法的唯物論と呼ばれます。

□この考え方自身はイデオロギーに陥るのを避けた合理的かつ常識的なもので、科学的認識を志す者がそのような世界観を抱くこと自身、別段怪しむに足りません。

□このような世界観に立てば、当然この立場から、歴史の発展法則を解明したり、社会の矛盾とその解決の筋道を分析したりすることになります。世界観である以上あらゆる分野に適用できるわけで、いわゆる全体知になります。

□しかしこれはあくまで人間の抱く科学的な認識ですから、神のごとき完全な知ではありません。認識した結果は、実験や実践によってその真理性を検証され、誤りを是正されなければなりません。あまりいつも間違うようでしたら、方法論やさらには世界観自体にも根本的な問い直しが求められます。

 世界観に基づく全体知を形成しようとすることは、当然の科学的な誠実さであり、良心に属することです。各科学分野でそれぞれ分析方法は異なるとしても、そこには世界観に基づく統一、思想の一貫性がなければ、その立場は趣旨が通らず、信用されなくなってしまいます。

□また世界観に基づく全体知だから排他的になるとは限りません。マルクス主義と実証主義との間では共通の土俵があります。両者とも、少なくとも論理展開の正しさだけでなく、実験・観察や実践による検証の必要性を認めていますから、真偽判断をめぐって対話が原理的に可能なのです。

□最も排他的な知は実験や実践によって検証を必要としない宗教的な知です。超越的な神による創造や救済は、原理的に証明不能ですから、逆に言えば原理的に否定することもできません。ですから信じてしまえば、信じていない人は根本的に誤まっていることになります。

□ヤスパースの場合、神に対する不信仰をニヒリズムの根源として、そこから傲慢な全体知が生じるとしています。全体知は神の創造や救済を前提していないのですから、神抜きに人間の本質や存在意義、歴史的実存を論じなければならなくなります。

□ヤスパースに言わせれば、それらは神によって造られ、神から与えられるものなのですから、社会的な事象や、存在者を幾らいじくり回してもわかるはずはないのです。だから人間は、それらが結局、神から来ることに気付き、神に向かい合う実存に到達すべきだということになるのです。これはソクラテスの「無知の知」の顰に倣っているようです。

□でも、究極的にはそのようになるかもしれないにしても、初めからそれがわかっているのではないのですから、われわれは神抜きでどれだけ展開できるかどうかやれるところまでやるべきでしよう。

□実際、超越的な神概念によって、人間存在の意義づけや価値を論じているのは、キリスト教やイスラム教の文化圏に限定されます。一般的には、人間存在の有限性の自覚と社会的責任の自覚から、人間存在の意義づけや価値づけがなされているのです。

□それに超越的な原理からの意義づけは現実の世界を貶めて、自然の調和や人倫に背くことも、神のためと称して敢えて行う虞れがあります。自分は信仰によって道徳的に支えられているつもりでいて、そこから信仰を持たない者はニヒリズムに陥り、道徳的に弱点を持つと決め付けるのは不当なのです。

□思想史的に観れば、ヤスパースの本書における最も重要な問題提起は、枢軸時代に関する考察でしよう。

□古代高度文化の解体と小国家の乱立と、その結果としての戦乱等を条件にして、人間が初めて自己自身に対する根源的な反省を行い、人間としての生き方を問い質したのです。

□それ以降の時代の思想も枢軸時代に戻り、枢軸時代の古典との真摯な対話とその批判的継承によってのみ、創造的で高い水準に達することができたのです。この指摘は今日ますます重要な意義を持っています。と言いますのは、近代的な知の主観主義的な限界が指摘され、いかに近代的な知の枠組みを確定し、批判し克服すべきかという問題が、近代社会の矛盾の深刻化及び人類的危機の深化によりクローズ・アップされてきているからです。

□この問題への取り組みは、枢軸時代の古典と近代知との本格的な格闘から始めるべきだと思われます。このことを忘れて近代知のパラダイムを恣意的にでっち上げ、その克服を打ち出しても、生産的ではありません。枢軸時代の古典の意義を再確認する上で、ヤスパースの貢献は大きいと思われます。

□ただし、新しい枢軸時代への展望には余り説得力がありません。彼は第二の呼吸という形にした、第一の呼吸に対応せざるを得なくなり、新しい枢軸時代を近代科学・技術時代の後に訪れる世界秩序を経て、その後に真の人間が生成する新しい第二の枢軸時代を構想しているのです。もちろんそれがどのように行われるのか思いもよらないと断わっていますが、

□「恐るべき苦悩と苦難を通じて身の毛もよだつような深淵を通り抜けて、真の人間の生成に辿り着くかどうか」(63頁)

としていますから、世界秩序の形成過程か、世界秩序の形成後に破滅的な事態の到来を予測しているように受け取れます。いわばハルマゲドン(最終戦争)が起こって、その後に生き残った少数の人々 が、人間に関する根源的な反省によって、真の人間に生まれ変わるという図式に近く、「最後の審判」を連想させます。

□あるいはそのような事態も大いにあり得ますが、世界秩序に行き着くためにも、深刻な人間に関する反省は必要ではないでしょうか。また世界秩序が解体の危機を乗り越えるために深刻な人間に関する反省が要請されることも考えられます。

□それに永遠の現在という歴史的実存に生きるならば、新たな枢軸時代はこの著作自身によって開始されているという自負があってしかるべきでしょう。

 「充実した今」「永遠の現在」を生きるためには、歴史的実存を忘却してはなりません。われわれは人類の歩みの中で、今を生きているのであって、その意味で過ぎ去った日々は今日に引き継がれているのです。

□様々な人々の苦悩や喜びが今日を生きるわれわれの糧となっており、過去の人々の叶えられなかった願いが、われわれに課題として重く課せられているのです。われわれがいかに今を生きるかによって過去の歴史的実存が活かされもすれば殺されもするのです。それはわれわれの歴史的な個体的実存と過去の人々の歴史的実存が、根源において一つに結び付いており、連なっていることを示しています。

□また今日をいかに生きるかが将来の人々の歴史的な個体的実存の条件を形成することになります。そのことによって将来の歴史的実存と根源的に一つに結ばれることができるのです。われわれの思いと将来の人々の思いが一つに重なり、今と未来が重なるのです。

□このような「充実した今」「永遠の現在」という発想に生きることによって、われわれは有限な生の限界に挑戦するのです。

□もちろんいかにあがいたところで生命の有限性は消去できません。永遠の生命への憧憬という宗教的な動機は、生命の有限性の切実な自覚から生じます。ですからその成就も生命の有限性から幻想的に逃避するのでは叶いません。かけ替えのない一回限りの生を、歴史的実存を媒介にして無限なる人類の生命とのアイデンティティを掴み取り、この個体的な実存において輝かせることによって為し遂げられるのです。

□ヤスパースの「われわれがそれであるところの包括者」の立場も、異次元からの救済を連想させる超在の発想を退けるならば、説得力を持ったと思われます。

-------エピローグ 歴史哲学と人間論の時代---------

-----------歴史が意識に浮上する時----------------

□歴史が意識に浮上するのは、時代の変化を告げる事件を通してです。ヤスパースは二度の世界大戦と冷戦の激化を体験して、世界が新世界秩序か世界帝国に統合される流れを感得しました。

□フクヤマは東西冷戦の終焉に歴史の終焉を見たのです。本書では東西冷戦の終焉が世界市場統合を進めており、ヤスパースの予言した世界統合へと向かいつつあることを指摘しました。今日の我々はこのヤスパースの指摘がある程度当たっていたことを、価格・賃金破壊に象徴される「大競争時代」の到来という事件を通して体感しているわけです。かなり経済的精神的ダメージを伴っての歴史体験ですが。

 川の流れのように過去から現在を通って未来へ流れる時代の流れを見定める事で、今、現在何をなすべきかが判断できます。その意味で歴史感覚には実用性があります。世界市場の統合が更に進展していくことは止めようがありません。ですからそこから必然的に伴ってくる事柄も課題として引き受けなければなりません。

□地域紛争や民族紛争が長引けば、その当該地域が深刻な経済的立ち遅れを招いてしまいますから、国連などの仲介で芽の内で収める必要があります。また地球環境対策がこれ以上遅れますと手遅れですから、グローバルな環境規制が可能な国際機関の設置と、その下での先進国から途上国への公害防除及び環境改善技術の移転を軌道にのせるべきなのです。

□それには国連の改組や強いリーダーシップをもった世界的なリーダーの登場が必要かもしれません。確かに世界市場統合が進みますと、外国人労働者が増加しますし、安い賃金を求めて途上国に生産拠点を移そうとして、先進諸国の国内産業の空洞化が懸念されます。それに伴って賃金破壊や失業増加が起るのです。途上国でも急速な工業化は地域格差や所得格差を拡大し、公害・環境破壊が深刻化します。そして経済摩擦や文化摩擦などの民族間の対立がエスカレートしていくのです。

 だからといって外国人労働者を排斥し、保護貿易主義をとり、世界市場統合に反対するのは間違いです。世界市場統合によって、環境技術の移転も可能になり、統合された世界市場を背景にグローバルな環境規制も可能になるのです。また世界市場統合で飛躍的に拡大した市場を前提に、先進諸国の経済発展も可能になるのですから。

□ですから世界市場統合を前提して、その下で世界の安全保障、環境保全、経済の安定的成長が可能になるような新世界秩序を形成しなければならないのです。それがグローバル・デモクラシーを理念にしたグローバル・ポリティカル・エコノミーの構築の課題です。

 その為には消極的な歴史観の克服が必要です。歴史終焉論や進歩史観批判の論調にも警戒が必要です。世界統合という次のステージへの歴史の前進を展望する歴史観が必要なのです。

□つまり歴史観は第三者的、評論家的で客観主義的な科学的予測に基づいて将来を展望するのではなく、歴史の趨勢からして、将来この方向に進んでいかなければ人類の未来はないと思われる方向を指し示す、実践的、主体的なものでなければならないのです。

□もちろん実践的、主体的な歴史観といっても、充分に実現可能な根拠を持ち、大多数の人々が共感可能な方向でなければ単なる個人の夢想に過ぎません。ただしその科学的或いは理性的根拠を強調し過ぎて、必然的にこうなると断定して、無理にその方向に人々を導こうとすると、真理の押しつけ、理性の独裁となり、自由の実現の名において自由を完全に抹殺するジャコバン党やソ連共産党型のテロル独裁政治になってしまうのです。

 望ましい未来の方向が見えても、それを実現するには国家や連邦や人類規模の協力が必要です。大多数の人々の合意と積極的協力を取りつけてはじめて実現するのですから、あくまでリべラル・デモクラシーのルールに則って、目的の実現を目指すべきなのです。

------歴史的事件と民族・人類の自覚--------

□歴史を感じる事件に遭遇しますと、人は自分が民族のあるいは人類の一員であることを納得させられます。

□戦前の日本では出征することになれば、否応なく自分が日本人であり、国家や天皇の為に身命を賭して戦わなければならないことを自覚させられたのです。

□また六十年安保闘争を体験した民衆の一人一人は、自分が平和と民主主義への人類全体の意志を体現した存在だと確信していました。

□アポロ宇宙船からアームストロング船長が月に第1歩を記した時、地球上からテレビを通してその画像を食い入るように眺めていた人類の一人一人は、遂に自分たちは月に着いたのだと思ったのです。

□人間は普段は個人的な意識で生活しています。歴史的な事件に関わったり、引きつけられたりしない限り、自分自身の中に民族や人類を見出すことは少ないのです。歴史的事件が自分たちを民族や人類へと連れ戻すのです。

□日常生活にも科学技術の日進月歩の進歩が反映して目ざましい変化が見られます。十年前は手書きで原稿を書いていましたが、今ではワープロ(付記―2005年現在では「ワープロ」はもう生産をやめています。)で書いています。

□台所や茶の間にも様々な変化が見られます。その変遷はまさしく歴史的だと言えましょう。でも個人的な日常生活を構成しているモノの進歩は、それ自体個人的な世界の出来事として捉えられますので、そこに民族や人類へと連れ戻すインパクトが感じられないわけです。

□しかしこのモノの変化がもたらす様々な問題が、極めて深刻な人類のサバイバルに関わる環境問題を引き起こしているのです。この「モノの疎外」が「歴史からの疎外」を人類にもたらしていると言えるでしょう。

 個人的な生活に埋没し、歴史を忘却することは、ある意味で気楽かもしれませんが、民族や人類へと自分を繋げるものがないのでかえって孤独になり、不安になるのです。

□と言いますのは個人はすぐに歳を取り、滅び去っていきます。自分のアイデンティティ(自我同一性)を歴史的事件を通して民族や人類に求めることで、滅びない自分を確保したいわけです。つまり特攻隊に志願したり、安保反対デモの渦に加わることで歴史的人間として民族や人類の歩みを体験できるわけです。

ーーーーーー歴史上の人物との一体感ーーーーーーーー

□歴史的事件との遭遇では、マス・メディアを介した情報と映像との遭遇に過ぎない場合でも、大きな精神的衝撃を受けることがあります。

□ベトナム戦争に関する報道は、アメリカの正義に大きな疑問符を与えました。天安門事件の報道は、人民解放軍が人民に銃を向けたので、中国政府の措置を支持した東欧諸国で革命の引き金になりました。

 歴史的事件はその渦中に生きた人々だけではなく、マス・メディアを媒介にして世界中の人々に歴史的体験を与えます。そしてそれが別の場所に歴史的事件を引き起こすきっかけを生むことになります。

□小銃でアメリカの戦闘機を撃ち落そうとしても、後ろからでは戦闘機は弾丸より早いから無理で、それで命を張って前から撃ち落としたというべトナム英雄の話は、世界中の民族解放運動や反戦平和運動にも強い気概を与えたのです。歴史的事件はこうしてその事件に関わった人々精神をも伝え、それを世界中の人々の心に植えつけて再生するのです。

□歴史的事件は同時代の世界中の人々に影響を与え、その精神を世界に再生するだけでなく、語り継がれ、書き継がれてゆくことによって、後世の人々の精神にも甦り、その民族や人類の歴史的伝統を形成すると言えるでしょう。

□特に歴史上の偉人達の人生は、象徴的に物語化されて感動的に再構成されています。後世の人々はそこから現代に通用するスタンダードな思想や生き方や気概を学び、今、この時にその人が生きていたら、どのように歴史的事件に関わったかを考え、現在において今を生きるナポレオンやレーニン、イエスや親鸞になるわけです。

□つまり我々が今、この時をいかに生きるかで過去の歴史上の偉人たちが輝いたり、輝かなかったりするのです。それはまた我々の今、この時の生きざまや歴史的事件との関わり次第で、将来の人々の生きざまを左右することになるということです。

□例えば二宮尊徳は人道を実現する方法を分度と推譲だと諭しました。

□「分度」とは合理的生活設計を立てて、勤労と倹約を行う事です。そうして家や事業を建て直す見本を彼は見事に示したのでした。

□そして勤労と倹約によって蓄えられた富は皆の為に社会の為に推譲(譲って活用)するべきだと教えたのです。つまり富が蓄えられたのは社会や自然が自分に協力し、支えてくれたからできたのです。あくまでその徳の御陰でよい仕事ができたのだから、その徳に報いるためには、富を私物化して私利私欲を満足させようと浪費すべきではないというのです。

□社会全体に還元するのが一番良いことになります。この思想に感銘して「推譲」を行う人が出る間は、二宮尊徳は今も生き、将来にも影響を与え続けるでしょうが、推譲を行う人がいなくなってしまえば、二宮尊徳も埋もれてしまうことになります。

 こうして我々が今、現在をどう生きるかが過去の人々、未来の人々を生かしたり殺したりするのであり、今、現在において過去・現在・未来の人々が出会っていると捉えられます。

□このように過去や未来を包摂した現在こそが、真に実存的な「永遠の今」なのです。ユダヤ教における「メシアの時」、法華経における「久遠実成の時」、西田幾多郎の「過去と未来の現在における絶対矛盾的自己同一」の発想にも、このような「永遠の今」への追求が窺えます。

---------------歴史法則の落とし穴----------------

□とはいえ人生は一度きり、やり直しはききません。過去の偉人の人生と自分自身の人生は、全く別の人生であり、他人に代わってもらったり、模倣したりできないものなのです。模倣は二度目は悲劇で、三度目は茶番だといわれます。自然科学的な法則性とは違い、歴史には同じ条件を造って、同じ結果を生み出す事は原理的に無理なのです。

 また発展段階も文化的諸条件も異なる様々な社会に、同じ歴史法則を画一的に適用してもうまく行く筈はありません。スターリンは、ロシア革命の経験を機械的に全世界に適用しようとしてプロレタリア独裁の理論とそれに基づく共産党独裁政治を東欧諸国に輸出しましたが、東欧諸国の国民に支持されたとは言えません。

 でも歴史法則を見出し、それに基づいて歴史的な出来事を科学的に認識し、実践的な方策を立てる際の参考にすることは必要です。経済的土台が政治的文化的制度的な上部構造を決定するという唯物史観の定式は、よく極端な土台還元論だと誤解されている向きもあります。しかし経済的諸条件によって基底的に規制されていることを無視して、政治やイデオロギーの変革を叫んでも、そう叫ぶこと自身が未熟な経済的土壌の反映でしかないという面を指摘しているだけなのです。決して上部構造の土台に対する影響力を一般的に否定しているわけではありません。

 また史的唯物論は〔原始共同体ー古代奴隷制ー中世封建制ー近代資本制ー自由人の共同体〕という歴史の発展段階論を歴史解釈の物差しに使用してきました。これも先天的な真理体系と受け止められますと、この公式に当てはめて無理やり歴史を解釈することになりかねません。当然この公式は西ヨーロッパの十九世紀の歴史認識に基づくものに過ぎません。

□しかもマルクスは古代専制国家の総体的奴隷制にも注目していて、それに触発されてアジア的生産様式論争が起こり、各国の地理的文化的民族的な特殊性に立脚した発展段階議論が活発になりました。今では東アジアの古代史像を考える場合に、支配的な生産様式として奴隷制が存在したことは疑問視されているようです。

□また必ず発展段階は順を追うもので、飛び越すことはできないものなのかが、経済的に資本主義が未発達な諸国での革命論争で戦略上の大きなテーマになりました。これは結論がでないままに「社会主義」経済体制が瓦解してしまったのです。

 「社会主義」経済体制といっても、国家資本による集産体制で中央集権的な計画経済に基づいて行うものでした。それなら資本主義経済の本源的蓄積の一つの型として位置づけられます。だから封建制から「社会主義」経済体制への移行は合理性があったのです。もちろんそこから自由人の共同体へと更に発展するのは、共産党の一党独裁体制では官僚主義的になり、人民の自由人としての主体性が認められない以上、とても望めません。

 歴史法則を当てはめようとする発想には大きな落とし穴があったのです。特に発展段階説は、現存「社会主義」体制を一応資本主義を克服した社会として、「社会主義」として安易に認知してしまう傾向を生んだのです。

□本当は共産党の一党独裁が、社会主義の定義である労働者による生産の自己管理を台無しにしていないかどうかを、きちんとチェックすべきだったのです。それができなかったのは社会主義者たちが階級闘争から発想するあまり、基本的人権の尊重を根幹にしたリペラル・デモクラシーの経済体制への貫徹こそが、社会主義の基本理念であることを見失っていたからだと思われます。

ーーーーーーーーーー人類統合の展望ーーーーーーーーーーー

□現存「社会主義」体制の崩壊は、世界市場の統合を加速し、それに基づく世界新秩序の形成の課題がクローズアップされつつあります。歴史は急速に動きだし、次の時代のステージを次第にライト・アップしつつあるのです。これはある意味で選択の余地がありません。別の道を選べば、とんでもないカタストロフイ(大崩壊)に見舞われるからです。

 日本文化のアイデンティティを守ることを世界統合と対立させて、排外主義にはしることは許されません。むしろ日本文化の質を世界に通用するハイ・クオリティで魅力的なものに高めることで、世界に拡げることが新しい時代における日本文化のあり方なのです。そのためには他の民族文化から素晴らしいものを謙虚に学びとり、異文化と融合を計ることも必要なのです。

 こうして世界は、一つの世界へと進まなければなりません。そのことは様々な困難や摩擦を生み、激しい痛みも伴うでしようが、人類のサバイバルを考えるとき、むしろ積極的に歓迎し、それに先頭に立って取り組む気概が必要なのです。

□ヤスパースはもともと一つであった人類が、別れて様々な道を歩んだ結果、再び出会って一つになると捉えています。これがヤスパースのいう「歴史の起源と目標」なのです。

□人類史を一つの全体の歩みにまとめあげて捉えるのは、非常に壮大で素晴らしいと感じます。でもそれも形而上学的な理念で歴史に型を嵌め、その通り無理やりさせようとして悲劇を招く発想だと言われるかもしれません。

□でも西暦二千年代を迎えるこの時期に、新世界秩序の構築が模索されているこの時期に、地球環境のグローバルな危機が叫ばれているこの時期に、人類の歴史を全体的に振り返り、人類統合の展望をしてみることは大変重要なことではないでしようか。

ーーーーーーー歴史哲学から人間論へーーーーーーー

□人類史の総括、人類の統合を考えるということは、取りも直さず、人間とは何かを考えることに他なりません。

□人間とは人類史の全体だとすれば、人間の歴史が即ち人間だということになります。個々の人間の人間性も歴史性において捉え返されることになります。

□ハイデガーは人間を時間存在として有限性において捉えました。「死の先駆的決意性」において今、この時代に歴史的課題を背負って生きることに実存的な生き方を見出したのです。

□確かにただ生きることに固執するだけでは、歴史存在とはいえません。死を前提に人類の歩みに繋がっている自己の自覚が、歴史的人間の本領なのです。

 死を覚悟した勇者が主になり、死を恐れた弱者が奴となって、歴史が開始されたというコジェーブのへーゲル解釈は、人間存在を主・奴闘争に還元し、均質社会の形成を歴史の終焉、人間の死と規定してしまったのです。

□そしてわずかに歴史の終焉した社会における人間性を、形式化された価値の追求に優越願望の充足を計る、日本的スノビズムに求めたのです。コジェーブやフクヤマは、高度に発達した資本制社会は、貧富の格差はあるものの人格的平等が実現し、欲望の充足がなされている均質社会であって、もはや主・奴の関係は止揚されていると言いたいのでしょう。

□それは必ずしも企業が経営者や資本家に奉仕するために労働者を搾取する体制とは言えないことを前提にしているのかもしれません。法人企業は法人の自己保存、自己発展の為に存在しているのであり、経営者も資本家もその為の駒か資金源に過ぎないからです。

 彼らの人間概念が個人レベルですから、法人企業や国家を人間として捉えることができないのです。その点、ホッブズは国家を人工機械人間としてリヴァイアサンのイメージで捉えています。法人企業も生きた意志を持つ全体であり、意志決定主体として行動するジャイアントなのです。

□法人資本主義は、企業自体が従業員を支配する専制的体制なのです。その意味で主・奴の闘争は継続しています。法人資本主義の意志決定機能に従業員全体が民主的に参加できるように改革していくことで、この一方的な関係が変革されるのです。

 人間は自然と断絶して、人間となり、更に人間がつくり出した機械や生産物によって、自然との関係を喪失し、その結果人間環境を破壊して人間自体のサバイバル危機を迎えているとよく言われます。

□そして物質文明・機械文明が人間に対立して深刻な人間疎外に陥っていると告発しているのです。人間でない筈の物や機械が人間を押しつぶし、支配していると嘆きます。物や機械や紙切れまでが人間の社会関係を取り結び、人間を商品化し機械の部品化して扱き使い翻弄すると言うのです。そしてこうした人工的で非人間的な物の為に自然との有機的なつながりが失われつつあると、物化・物象化・物神崇拝を批判します。

□しかし私に言わせれば、若きマルクスが『経済学・哲学手稿』で指摘したように、人間が生み出した社会的諸事物だって人間の非有機的な身体であり、人間的な自然なのです。

□人間を身体的な諸個人に限定して捉えているから、人間でない機械や生産物に人間が支配されているという不毛な議論に陥るのです。そして人間が物でないのに物化されるという現代ヒューマニズムの非人間化論になります。

□人間は確かに単なる物ではないけれど、物として自然に対象的に働き掛け、自然を獲得する主体なのです。だから物としての面を持ち、近代機械工業では、もはや主役は身体ではありません。諸個人の身体は機械を補完する役割をするにすぎないのです。

□それは人間が単なる身体的存在に止まらず、機械をも自己の一部とする生産体系の全体でもあるということを意味します。人間環境のサバイバル危機に当たって、このような人間自然関係の根底的な「人間観の転換」の必要があるのです。

 人間の起源を問うに当たっても、人間と自然が断絶し、社会的諸事物を自己の身体から区別して、動物的な生理的表象ではない、客観的事物として捉え返したきっかけを追求すべきです。フクヤマのように生死を賭けた闘争に求めたり、ヤスパースのように分からないことを前提にするべきではありません。社会的な自他の関係の発生を考察すれば、交換を契機にして客観的な事物認識が発生し、それを背景に主語・述語構造を持つ言語が発生したと捉えるべきだというのが、私の見解です。

 本書ではへーゲル、マルクス、ニーチェなどの歴史哲学の本格的な再検討も行いたかったのですが、それは宿題に残しました。それと共に歴史哲学を本格的に展開し直すためにも、「人間観の転換」の試みを古今東西の思想の中から再発掘するという前著『人間観の転換―マルクス物神性論批判―』で書き残した宿題を次著では果たしたいと思っています。

---------------------------あとがき---------------------------

本書は谷沢書房刊『月刊 状況と主体』1990年七月号・九月号・十月号に連載された「二千年代に向けてーヤスパースの歴史哲学―『歴史の起源と目標』―」、及び1993年十月号・十一月号・十二月号・1994年一月号に連載された「二千年代に向けて―歴史はクライマックスへ―フランシス・フクヤマ『 歴史の終わり』について―」をまとめ、その後の情勢の変化に即応して部分的に改稿したものである。またプロローグとエピローグは本書のために新たに記したものである。

 1985年以降の「社会主義」世界体制の大崩壊と、その後の世界市場の統合の進展、新世界秩序への胎動は目を見張るものがある。折しも西暦一千年代が終わろうとしている。この機会に人類のこれまでの歴史を総括し、次の千年間を展望しうるような歴史哲学が生まれてくるべきである。その意味でそのきっかけ造りを意図した拙稿「二千年代に向けて―ヤスパースの歴史哲学―『歴史の起源と目標』 」はタイムリーであり、好評を得たようだ。

 そうこうするうちフランシス・フクヤマ『 歴史の終わり』 が話題を集め、歴史終焉論争が盛んになってきた。しかしその内容はかなり後ろ向きの議論が多いようで、ヤスパースのような人類史を将来の真の統合まで見通して、二つの呼吸に総括するような気宇壮大な議論は見られない。そこで私がでしゃばって『月刊 状況と主体』にフクヤマの歴史終焉論批判を書かせていただいた。

 『月刊 状況と主体』 の岡田道枝編集長の存分に書かせる姿勢の御陰で伸び伸びと意欲的な仕事ができた事はまことに感謝に堪えない。更に広く世に問おうとしたが、現在の困難な出版事情の下では、なかなか機会に恵まれない。

□出版を勧めていただいた故廣松渉先生には、1993年末に入院中とも知らず、相談の手紙を書いた。退院後読まれた先生は心当たりを当たって下さったが、今は不況で時期が悪いとのご返事であった。

□その後、まさか五カ月後に訃報に接するとは、重病人に要らざる心配をかけた事が悔やまれてならない。それだけに本書の出版には廣松渉先生への思いが籠っていて、感慨ひとしおである。

 廣松哲学批判は私のライフワークの一つである。先生は私の最大の論敵であったし、これからもあり続ける。そんな私にも力を貸そうとされた先生のご厚情に報いる為に、いずれは本格的な廣松哲学批判の著作を発表したいと念願している。

 なお本書の出版の為には大東文化大学の森川展男氏にひとかたならぬご尽力をいただいた。私の仕事上の行き詰まりに関してもご夫婦で親身になってご助力いただき、実質的にも精神的にも強い支えになっていただいた。そして藤田友治氏の力強いサポートと励ましのお陰で本書の出版が実現した。心より感謝する次第である。

 最後に一言、前著を世に問うて既に九年が過ぎた。その間相変らず研究条件に恵まれない私の悪戦苦闘を温かく見守り、励ましてくれた友人たちやしわ寄せに耐えてくれた家族に感謝の意を表しておきたい。また三一書房の林順治編集部長には、厳しい出版事情にもかかわらず、温かい良心的なご配慮をいただいた。ここに深く感謝する次第である。 

歴史の危機

1995 年8 月31 日 第1 版第1 刷発行  Printed in Japan

著者 やすいゆたか 

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