ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

米国、南NJ州クリスチャン教会コミュのゲッセマネで祈られたイエス

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
ゲッセマネで祈られたイエス。
マルコ14:32-42。

イエスと弟子たちは、オリーブ山の麓にあるゲッマネと言う所に来ました。ゲッマネとは「オリーブ油を絞る油絞り」という意味で、周囲には、オリーブの木が茂っていました。イエスは弟子たちをそこに残し、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れてさらに進み、そこで祈り始められました。

十字架の死を目の前にして、イエスは地にひれ伏して「できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるように」と祈りつずけられました。私たちも死を恐れています。しかし私たちの死に対する恐れや悲しみは、愛するものに別れなければならない悲しみや、肉体の苦痛に対する本能的な恐怖というようなものにすぎないのではないでしょうか。

そのような恐れならば、安楽死や、この世の未練をたち切るための修業や、より大きな目的のためにというような満足感などによって、のりこえることができるかもしれません。しかし神にそむき、罪の中に生きている私たちにとって、死は単なる肉体の生命の終わりではなく、神の怒りのもとにそのさばきに服することです。

「この杯」とは神のさばきによって定められた刑罰のことです。(イザヤ51:17)それがどんなに恐ろしいものであるかを、イエスの十字架はしめしています。私たちは自分の罪の深さを、それほど自覚していませんから、罪の結果としての死の本当の恐ろしさもそれほど深刻には感じないのです。

したがって、この世に希望がもてなくなると、自らの生命を断ったり、修養によって死の恐れは克服できるように安易に考えたりするのです。罪の恐ろしさを知っているものは、かるがしく死は恐れるにたりないなどとは言えないはずです。私たちの身代わりになって、罪に対する神の裁きを受けようとしておられるイエスは、死をまえにしてゲッセマネの園で、誰よりも深く死の本当の恐ろしさを味わいつくしておられるのです。

彼が恐れおののき、悲しみにうちひしがれて「この杯を私から取りのけてください」と、ご自分の苦しみをすなおにあらわして祈られたのは当然のことです。イエスの苦しみは、私たちが受けなければならぬ苦しみです。神をないがしろにして、自分中心に生きている私たちは、十字架をまえにしたイエスのお苦しみに心をむけることによって、私たち自身の罪の深さを示されるとともに、いいかげんな死生観をうちくだかれなければなりません。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

米国、南NJ州クリスチャン教会 更新情報

米国、南NJ州クリスチャン教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング