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米国、南NJ州クリスチャン教会コミュの預言者エゼキエル

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預言者エゼキエル。
「エゼキエル」とは「神が強めて下さる」の意味であり、イスラエルの民の捕囚という困難な時代に、神のことばの預言者として立つ者の名前としては実に適切であると言われています。彼は預言者として立つように神に召される以前には、彼自身祭司であったか、あるいは、祭司ブジの子でした。<バビロンのケバル川の近くにおいて、主はブジの子で祭司であるエゼキエルにはっきりと語られ、主の御霊が私の上にあって、特別に働いておられた。>(1:3)。

したがって、民の側に立って、民の代表者として神の前に奉仕する祭司職がどのようであるかを、彼はよく知っていました。彼が用いる表現などに、そのような祭司色が明瞭に表れていました。その彼が神の側に立って、神の代言者として預言者となることを求められたのは、亡国と捕囚という侮辱のただ中においてでした。

すなわち、聖都エルサレムがバビロンのネブカデネザル王によって攻撃され、その町は荒らされ、ユダは降伏し、国の指導者および技術者たち多くの市民は、当時の王エホヤキンと共に遠く異国の地バビロンに捕囚民として移されました(前597年)。エゼギエルはそのバビロンの地で預言者として召され(1:23)その地で神に背くユダの都エルサレムの崩壊を神の審判として預言しました。

しかし、エルサレムでは、かつてイザヤが預言したことの内容を我田引水的に誤解誤用して、聖都エルサレムの不可侵性を主張し、誤った楽観主義に陥っていた人々は、BC 597年の捕囚によって自分たちの指導者たちが連れ去られ、国が滅亡の一歩手前にあるにもかかわらず、捕囚として連れ去られた者たちは神の審判を受けている悪い民であり、自分たちこそ神に守られている正しい民であると考え、エゼキエルの預言を受け入れなかったのです。

他面、バビロンに連れ去られた捕囚の民は生活面では自由が与えられていたが、彼らにとって生活の中心であった神殿を離れ、異教文明に住む非惨な現実に直面して、自分たちは神に見捨てられたのか、と絶望的に自問し、懐疑的になっていました。そのような彼らに真理を曲げた偽りの安価な希望を語り、すぐに捕囚は終わるのだと告げる偽預言者たちがおり、人々は惑わされた。
バビロンで預言者として働いたエゼキエルと本質的に同じメッセージを、エレミヤは預言者としてその頃エルサレムで語っていました。また彼はバビロンの捕囚の民に手紙を書いて、捕囚に関する神の啓示を告げました。(エレ27-29章)

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