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三代目 桂春団治コミュの三代目死去

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<桂春団治さん死去>「間」絶妙 芸に色気
                               毎日新聞00:59

◇厳選ネタ練り上げ

 「寄席でやらせてもらえるのは本当にありがたい」「漫才や色物の間に出てしゃべるのが好きでんねん」−−。上方落語の神髄を求めて、ひたすら“しゃべくり”に磨きをかけてきた落語家の桂春団治さんが亡くなった。髪を七三に分け、いつもきれいなクシ目を通して、清潔な装いの中、色気のある落語を見せてきた春団治さん。その一生は落語と死闘を繰り広げた厳しい日々の連続だった。

 会社勤めを辞めた後、父・先代春団治の巡業の手伝いで地方を回り、九州で倒れた前座の代わりに穴埋めで出演したことが、落語家を目指すきっかけになったという。

 持ちネタは他の落語家に比べて多くはなかった。だが、どのネタも磨き込まれ練り上げられ、本人も「持ってるネタは(誰にも)負けない」と自負していた。周囲の落語家がテレビ、ラジオなどで活躍するのを尻目に、常にマイペースで芸を磨いてきた。そうして極められた芸は端正で洗練され、艶のある話しぶりは多くのファンをうならせた。

 「皿屋敷」のお菊や「親子茶屋」の若だんなが新町にくり込む場面など、あでやかさがひときわ目立つ演技ぶりで右に出る人はいないと評された。「代書」に出てくる代書屋のおやじが、要領を得ない客にあきれ果て、最後に「ええよろしい。あとは適当に書いときまっさ」というくだりの“間のよさ”は、絶妙といわれた。

 また“羽織脱ぐ手つきも舞の春団治”と川柳に詠まれるほど、高座で羽織の両袖を引き落とす様は鮮やか。舞踊の山村流、藤間流の名手で、芸に色気や仕草のやわらかさを出すのに役立っていた。

 初代同様、酒豪として知られた。型破りな生きざまが芝居や歌にもなった初代とは芸風や人柄は違うが、端正な顔立ちから私生活の面でも華やかだった。

 期待していた弟子の春蝶を病で亡くしたり、自身も幾度も病に倒れたりするなど苦労も重ねた。しかし、高座ではそうしたそぶりは見せず、磨き抜いた芸で観客を楽しませた。

 ◇米朝ら3人と後進育成

 戦前から漫才人気に押され、衰退の道をたどっていた上方落語。後に四天王と言われた六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、五代目桂文枝(いずれも故人)、そして桂春団治さんが入門したのは、そんな上方落語のどん底期で、当時は落語家も10人程度しかいなかった。さらに彼らの入門から程なくして、五代目松鶴らベテランが相次いで死去。残された若い4人は力を合わせ、復興に奔走することになった。

 若手の頃は「さえずり会」を結成するなど勉強会を地道に開催し、落語人気復活への下地を作った。また、4人が力を注ぎ続けたのが後進の育成。それぞれの一門からは孫弟子やひ孫弟子も誕生し、現在、上方落語界では約270人が活動するまでになった。

 春団治さんは1994年に、自身の弟子で早世した二代目春蝶の長男、春菜(現三代目春蝶)さんを最後の弟子とするまで多くを育て、孫弟子も、昨年、蝶六さんが70年ぶりの名跡復活として花団治を襲名するなど活躍。また、自身が極めた芸について、一門の枠を超えて後進に伝えていくことにも尽力した。【山田夢留】

画像1 喜寿の会見後に記念撮影する桂春団治さん
     =大阪市中央区のワッハ上方で2008年1月24日、森田剛史撮影


「上方落語四天王」桂春團治さん死去、米朝さん通夜が最後の公の場
                                          サンスポ05:09



 上方落語の重鎮、三代目桂春團治(かつら・はるだんじ、本名・河合一=かわい・はじめ)さんが死去していたことが13日、分かった。85歳だった。春團治さんは2013年5月ごろから体調を崩し、同年夏に療養をかねて入院。病院で転倒して肋骨にひびが入るけがを負って以降、高座からは遠ざかっていた。

 上方落語界では昨年3月に三代目桂米朝さん(享年89)が亡くなったばかり。米朝さんに続き、上方落語の大看板がこの世を去った。

 2013年に体調を崩し入院していた春團治さんは、昨年10月に大阪・堺市内で行われた一門会で約2年ぶりに舞台復帰する予定だったが、「体調が優れない」として出演をキャンセルしていた。

 春團治さんは高校卒業後、サラリーマンを経て1947年、父の二代目桂春團治さんに入門し、桂小春を名乗った。その後、桂福團治を経て、59年に三代目桂春團治を襲名した。

 戦後にベテランが相次いで亡くなり、滅亡の危機にあった上方落語を、六代目笑福亭松鶴さん(86年死去)、五代目桂文枝さん(05年死去)、そして米朝さんとともに復興させ、「上方落語の四天王」と称された。

 米朝さんが亡くなった際は、「残された四天王も僕ひとりになり、寂しい思いでいっぱいです」とコメント。米朝さんの通夜に参列したのが最後の公の場となってしまった。

 上方の言葉をていねいに扱って、ネタ数はあまり増やさず、しぐさなどを計算し尽くして徹底して練り上げた。中でも「いかけや」「お玉牛」「高尾」「親子茶屋」などは絶品。舞踊山村流の名手でもあった。ほぼ落語一筋の芸能生活だったが、06年公開の「そうかもしれない」で映画初主演を果たした。

 映画や舞台でも描かれた初代は破天荒で爆笑王、父の二代目はうまさが光る大看板だったが、春團治さんは繊細で華麗でつややかな芸風で人気を博した。本題に入る直前にシュッと羽織を脱ぐ仕草も美しいと言われた高座は、もう見られない。

桂春團治(かつら・はるだんじ)

 1930(昭和5)年3月25日生まれ、大阪市出身。二代目春團治の長男として生まれた。高校時代は野球の名門、浪華商業(現大体大浪商)で野球部員だった。高校卒業後、一時はサラリーマンをしていたが退職し、47年に父に入門して小春を名乗り、50年に二代目福團治を襲名。53年に父が死去したため、59年に三代目春團治を襲名した。77年から上方落語協会の会長を7年間務め、78年には「上方お笑い大賞」を受賞。紫綬褒章、旭日小綬章などを受章した。

画像2 死去していたことが分かった上方落語界の重鎮、桂春團治さん=2013年5月撮影

桂春団治さん死去 四天王最後の1人 高座復帰に強い意欲も…
                                           スポニチ05:32

「上方落語四天王」最後の1人で落語家の3代目桂春団治(かつら・はるだんじ、本名河合一=かわい・はじめ)さんが心不全のため亡くなったことが13日、分かった。85歳だった。大阪市出身。

 春団治さんは11年4月に腸閉塞(へいそく)のため入院。13年5月から体調不良のため自宅療養を続けていた。同9月頃には入院先の病院で転倒し、肋骨を骨折。昨年10月、生誕85周年記念の一門会へ出席の意欲を見せたものの、体調不良のため当日の朝に連絡を入れて欠席した。

 滑稽噺(ばなし)を演じ、爆笑王として人気を博した父親の2代目桂春団治に47年に入門し、桂小春を名乗る。50年に2代目福団治、59年に3代目春団治を襲名した。父親とは正反対の繊細で華麗、淡々としながらもつややかな語り口で観客を魅了。「いかけや」「お玉牛」「代書」「野崎詣り」などを持ちネタとした。

 戦後衰退していた上方落語の復興に尽力し、四天王の1人として3代目桂米朝さん、6代目笑福亭松鶴さん、5代目桂文枝さん(いずれも故人)とともに腕を競った。若手の育成にも力を入れ、福団治や故2代目春蝶さん、小春団治らを育てた。

 最近では昨年3月に米朝さんの通夜祭を弔問。同6月21日には大阪市内で行われた3代目桂花団治の襲名披露公演にサプライズで登場。「正座ができなくなったため、2年ほど休養しているがまた落語をやりたい」と高座復帰への強い意欲を示していた。

 ◆桂 春団治(かつら・はるだんじ、本名河合一=かわい・はじめ)さん 1930年(昭5)3月25日生まれ。大阪市出身。浪商(現・大体大浪商)卒業後、自動車部品販売会社で働いていたが、47年に父親の2代目桂春団治に入門し、桂小春を名乗る。59年に3代目を襲名。77年に上方落語協会会長に就任。98年に紫綬褒章、04年に旭日小綬章を受章。06年には映画「そうかもしれない」に初出演した。

画像3 心不全で亡くなった3代目・桂春団治さん(2008年10月撮影)

コメント(8)

吉弥さんがスマタンに出てます
ご存じなかったそうです
10日に春蝶さんと仕事をしたが何も言わなかったとか
いちばん好きだった落語家さん(T . T)
御冥福をお祈りいたします。
合掌(-人-)
上方落語の会 桂春團治さんをしのんで
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●総合 17日(日) 前7:45〜8:24 関西地域向け

出演:桂春團治、小佐田定雄


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桂春團治さんをしのぶ
日本の話芸・選
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●Eテレ 17日(日) 後2:00〜2:30 全国放送
●Eテレ 18日(月) 後3:00〜3:30 全国放送(再)
●総合 23日(土) 前4:30〜5:00 全国放送(再)

出演:桂春團治
演目:「皿屋敷」(Eテレ 平成18年12月16日)
管理人です。
ひえもんさん、ありがとうございます。

初めて聴いてから30年間、いつも一番好きな落語家さんでした。
リハビリ中だと伺っていたので、
回復されて、また舞台を拝見できる日を心待ちにしていましたが、残念です。
これからは、DVDと音源だけでしか聴けなくなるのは寂しいですが、
生のお姿を想い出しつつ、残された作品を楽しんでいきます。
ありがとうございます、録画します。
差し出がましいトピたて今しばらくご容赦を


中日春秋 

2016/1/15 紙面から

 初代は伝説の爆笑王、二代目はその死をもって「上方落語は滅んだ」と評された名人。それほど重い「春団治」の看板を二十代で継いだのが、三代目桂春団治さんだ

▼そのころ、酒席で桂米朝さんと口論になったという。大名跡を背負っていくには持ちネタが少なすぎないかと米朝さんに言われ、春団治さんは腹を立てた。だが翌朝、目覚めた米朝さんの前には、正座し頭を下げる春団治さんの姿があった

▼年齢は米朝さんより下だが、噺(はなし)家としては先輩。普段は「米朝くん」と呼ぶ友に礼を尽くし教えを請う姿に胸を打たれた米朝さんは十八番の「代書屋」を伝授し、自ら演じることを封印したという(戸田学著『上方落語の戦後史』)

▼名人二人の稽古に居合わせたことがある桂福団治さんが、その様子を活写している。
<天下の三代目春団治が、扇子を前に置いて、「よろしくお願いいたします」と、
きっちり挨拶(あいさつ)してからお稽古が始まるんです。
で、終わったらまたいつもの三代目と米朝師匠の関係に戻りますねん。
見ていてほれぼれしましたな>(『青春の上方落語』)

▼二代目が逝去したころには滅亡の危機にあった上方落語は、三代目春団治、米朝、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝の「四天王」が互いに磨き合い、弟子を育てることで息を吹き返した

▼ほれぼれとさせる芸の余韻を残し、三代目の人生の幕が下りた。

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