ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

舞踏−吉本大輔・天空揺籃コミュの感想文  高橋理通子舞踏公演  「 百 年 時 計 」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 高橋理通子舞踏公演  「 百 年 時 計 」によせられた感想文です。
    
        共犯者:石川 慶、吉本大輔

今回の公演について感想文書き込んでください。

次回天空揺籃公演
10月1,2日  石川 慶舞踏公演(共犯者: 高橋理通子、吉本大輔)
12月1,2,3,4,5,6,7,日
    吉本大輔舞踏公演「百合懐胎す」共犯者: 高橋理通子、石川 慶


・・・・・・・・・・感  想  文・・・・・・・・・・・・・・・・・


眞一さんの日記より

『次の公演のタイトルは・・・『百年時計』」その瞬間、絶対見ようと念じていた。高橋理通子さんは、公演にさきだつ『花狂ひ』で、エロスの巨塊をそびやかす桜を妖艶にねじふせる舞踏で、俺の神経を束ごとふきとばし、うごかない柱時計を両腕に抱きしめていたのだ。
柱時計に、吸いこまれてあのなかにはいりたい、なかにもぐりこんで、うごかないはずのじかんの、無垢なまでの淫蕩さをとけいごとうごかしてやりたいと猛念をかきたてた。

開演すると"Bercear d'space(天空揺籃)城 "、東生田の館は、漆黒に凍りついた時間の波でおおいつくされ、入りこんだものを惑わす心地にみちた、時計のなかだった。
俺は今、オルフェよりもスフィンクスよりも会うことを願い続けた時計のなかにいる、いるんだ! 深淵な緊張にもみほぐされてとまらない。

舞踏空間が、漆黒ごと鳴動する。ひびきわたる時限針のおとは、舞踏の呼吸として反響するのだ。今回俺はこの呼吸に、身を浸し過ぎて舞踏に囚われた。何度となく、りょうあしが立ち上がって一緒に踊りだそうとするのを両腕でとめてみせた。トンマな姿としか言いようがない! まるで、放射能の微量におびえるあまり軍隊用の防毒面を何重にもかぶった愚か者が、熟れた時間の城に充ちた毒の花を、失神手前まで近寄って、肉厚な襞の一枚いちまいに恍惚となっているようだった。
舞踏は流麗なすがたなど一片もない、きれいにつくりすぎる卑しさをかたっぱしから砕く、さながら巌・・・岩の塊まりが館の天井を喰いやぶって、ステージに落ちてくるのをみるようではないか。音楽はレコードの針の音にしかきこえない位ほどで、からだじゅう、心臓の下にひろがるはらわた、両腕の中のはらわた、両眼、両鼻、両ひざ、両キンタマ、両手両足の総ての爪の底のすべてのはらわたに、何百倍の大きさの岩石が、見る者を死に至らしめるほど美しい女像をレリーフ(脳の皺がすさまじい浮き彫りを踊る)をうかべて、時計の針だけが冷厳に轟く、タナトス・・・石の表面が宇宙の匂いに覆われた荘厳な石墓地を、死都の城塞、陶酔のピラミッドをつみあげた。


そして今回の公演において、もうひとつ大事な事を書いておく。宣伝美術:高淳嘉さんがデザインした公演のチラシのイラストとともに公演の当日を指折り数え、当日はイラストにも身を浸しながら、舞踏と一体になることができたのだ。


舞踏空間の最中だが、「幽霊時計」と、つぶやく声がきこえた。客席のだれかが云ったのか、俺の体内のはらわたのいずれかから昇ってきた声なのか。
ステージの中心にむかって織りあげた舞像は
館が建って、百年たつとすみつくという幽霊なのだろうか。
館の少女は、
時計造りで爵財を成した家庭に育ち時計を知り尽くした絵師の手で、
時計じかけ人形のかおをえがく面相筆の滴りに吸いとられる。
あざわらうような、悦ぶような喚声。
時計の泡たまごでできた額縁に嵌められた肉体と、
キャンバスに乱舞する絵筆との交錯するにらみあい、からみあい。
肉体じゅうの神経と、
筆の毛ひとすじひとすじの先端に、
脂粉の甘き縹渺が灯る、
時限爆発の火薬のかがやきとともに。


「今度こそ本当に死ぬと思いました」公演が終わり、俺の言葉にみんな、呆れて笑っている。

ラストでステージ(客席と同じ高さの地面で水平につながっている)、
ステージの奥で鎖につながれた
まるで荘厳な時計の畸形獣であるような自転車を、
ステージまんなかに連れてきて、
ストッパーをかけると騎り、すごい目で・・・・
百年後の爆発をセットした時限爆弾のメーターを顔面にふたつ輝かせて、漕ぎはじめた!
十年、二十年、三十、六十、八十・・・百年目がけて疾走するふたつの車輪が
分針と秒針を猛回転し、
からくりの鐘の王女ごと総てをのみつくす不吉な円周をひろげ、
自転車の目の前の客席には、俺が座っていた!!!
いちばん危険そうな場所を独り占めしたら、
ほんとうに一番の危険が待っていた!
ストッパーが吹き飛んだら、お客がみんな逃げるあいだに
(お客さんの中に、岡本太郎美術館の館長さんがいた)
俺は時間を永久停止していたはずだ。 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真っ暗闇の中で始まった

余りの暗闇に気が遠のきそうになるのをこらえていると、すこしずつ彼女の姿が明るみに出る。

いや彼女ではなく彼女の脚部がといったほうがいいかもしれない。

口を閉ざしながらもその口だけで微笑を浮かべて男を幻惑する幻女(まぼろしおんな)のように観客を誘惑する。

彼女の妖艶さを思い知るには二本の脚だけで十分であった。

以前天空揺籃の稽古現場に居合わせた時、吉本大輔さんが『太ももで踊れ』と言っているのを聞いたことがあった。

太ももで踊る。その時はわかったようなわからないような、そんな気分であった。

しかし今日まざまざと見せ付けられたのだ。

太ももの色目使いというやつを。

高橋理通子というひとは男を誘惑するすべをいくつか心得ていてその一つが太ももで踊るということなのかもしれない。

しかし、幕間から袖に消える瞬間ふっと最後に一瞬残った右手の美しかったこと。

夢の残り香とは高橋理通子の右手にこそふさわしい。



〜赤い傘の思い出〜

赤い傘はいつもかならず捨てられているという記憶がある

捨てられている傘には赤い血液がしっとりとながれている

赤い傘布はもちろん膣を連想させる

そこにはりついた骨は男のものか女のものか

しかし赤を愛撫する

そのつややかなる愛撫

時に膣の中にみずから潜り込む

これ以上美しい自慰行為は世界的にみても稀である。

そして時には傘の骨を自身の肉にそして赤い襞にぶつけていく

傘の骨は現代では堕胎の道具を象徴してしまうが、だとしたら赤い傘は赤い雨でなおよりいっそう赤く染まることになる。

堕胎という行為に愛撫があるというのは逆説的にもあってはならないことだが、高橋理通子の恍惚とした姿を見ているとそんな社会道義的なことはすっかりと頭からこぼれおちてしまった。



そしてフォンテーヌ 『ラジオのように』が流れる

正直な話、私は2度ほど気を失いそうになった。いや正確にはほんの短い時間の気絶があった。しかし断絶はしていない。

2度目の気絶のとき『ラジオのように』が流れてきた。

気絶した私にとっては目の前で行われている衝撃は、やはりラジオのように流れてきたのだ。





百年時計、このタイトルの謎がすべて解決したわけではない。いやむしろ何も解決できなかった。

赤い傘の骨がぐちゃぐちゃになってそれぞれがアッチの方向を向いていればすべての磁場が共犯者となりすべての時計は狂ってしまうだろう。

そして、狂ったままとはいえ、彼女がこぎ続けた自転車のあの勢いをもってすればあと百年時計の針は止まることがないのではないだろうか。

しかしメトロノーム同様こぎ手を失った車輪というのはいつか止まる日がくるのも事実である。メトロノームは赤い雨音と同期しきれないかもしれない。

それでも、100年を超えても語り継がれるであろう舞踏を体験することができたこと、吉本大輔さん、石川慶さん、その他関わったスタッフの方々、そしてもちろん高橋理通子という若くしてすでに成熟した一人の舞踏家に感謝したい。

ありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

K−ONEさんの日記から


向ヶ丘遊園に戻り、東生田会館に。少し時間があるので枡形山に登る。ホトトギスがないている。受付でイゲちゃんさんとばったり。高橋理通子さんの舞踏公演だ。冒頭の足をクローズアップした動き、まるで苦行。見る側からすると、こんなに足の筋肉の動きを凝視することはないだろうと思う。音楽がほとんどなく息遣いが聞こえそう。突然、「ラジオのように」が流れる。おお、ここでラジオのようにかあ・・・。アルバムには「短歌」も入っていたなあ。20代のなかば、「サウンドブレイク」という音楽番組で「ラジオのように」を使って羽田空港の光の映像とあわせたビデオを制作したのを思い出した。ブリジット・フォンテーヌもサラバーレーベルだった。そのピエール・バルーも今は東京在住だ。ラジオのようにが終わる頃から苦行からの脱皮。のびやかにそして時に走る。イメージフルな舞台だった。いつもと違うセンサーを刺激された気がした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

199年の夏休みさんからのmixiメッセージより


「赤い魔物」

東生田会館は、梅雨が見せる柔らかい緑に囲まれた場所にひっそりと
大げさではない様子で建っていた。

舞踏関係ではよくあるつっけんどんな雰囲気、
排他的な感じが私は結構好きだ。

中に入ると、舞台中央にメトロノームがカチカチと
可愛らしく客入れ芝居をしている。

時間を知らせる時計はもう始まっていた。

時間になると真っ暗な中、
うっすらと人影があり
マネキンのような足が奇妙な立ち方で立っていた。

舞台後方に自転車が一台置いてあるだけの
シンプルな演出。

赤い照明が足元だけに当たり、
ここから時間で言うと30分くらいだろうか。
筋肉の動きだけがクローズアップされた状態で
ゆっくりとその動きを見せる。
これは相当な勇気がいると思うのだが。

一旦、下がってこちらを振り向いた時、
壊れた赤い傘とピエロの前掛けと
マントのような奇妙な衣装に包まれた人になり
子供なのか大人なのか醜悪なのか淫美なのか
考えさせられる顔つきがあった。

段々と女郎蜘蛛のような動きに変化していく。
いつぞや観たオディロン.ルドンの蜘蛛の絵を
思い出す。

さっきまでの明快な音楽から一転、
ピアノの複雑な雨音のような音と彼女の息遣いだけが部屋を満たす。

そして無音の中、様々な形態へと姿を変え
舞踏家としてのこの部屋の女主人となり、
あらゆる動きで観客を魅了していく。

とにかく彼女の特筆すべき点は女性とは
思えぬ体力と筋肉のつき方。

普段はほっそりとした美しい女性だけど
怪物のように太ももを太らせる。
これが全て筋肉によって行われている。

音楽の使い方も素晴らしい。

決して飽きることなくこちらも集中した。

赤いロープを床から手繰って
天井へと手を伸ばす瞬間に、
当たった光に照らされた彼女の顔の美しさに息を飲む。
これさえ見られれば、本当に満足と言えるほど美しい。


動きについてあれこれ書いても
見ないと想像つかないだろうから
略するけれど、ラストに近づいて
突然後方に置いてあった自転車に倒れ
リズムよくそれを担いで、舞台へと持って行く。

これには驚いた。

そしてそれに跨ってゆっくり漕ぎ始める。
それから全速力で漕いで、
暗くなって主人がいなくなってもなお自転車のペダルは動き続ける。
時間が早く経過してそして戻ってくるように
段々と動きが遅くなり止まった瞬間に、ダウンライト。
緩やかに再び地明かりがついて自転車のクローズアップ。

この発想は素晴らしい。

最後のアンコールで
ヴィクトルエリセのエルスールの中の
アコーディオンの曲が使われていて、そのセンスにも脱帽。

花束を受け取って、それを身にまとって
ダンスをする姿で段々と時間が日常に戻る気がした。

最後は自転車に乗って颯爽と舞台を走って
そしていなくなった。


今までも壊れたランドセルとか、
赤い着ものとか普段使われてる小物は、
郷愁を誘いそして汚される。
今度は私の中の赤い傘に自転車が壊された。
いつか私の赤いアコーディオンも壊されてみたい。

高橋理通子の舞踏の模索はこれからも続く。
今度は私の何を壊してくれるのか楽しみである。
これからも見続けたい。

ちなみに、私の初舞台の時
30分の客入れの時に、舞台袖から中央にある天球に、
30分かけてお客にわからないようにゆっくりと進んで中央に立って、
天球の穴を開けて星座を天井に映す、
というのをやったことがある。(コメットイケヤ)

あの時の楽しさは未だに忘れられないです。

きっと、彼女の仮面の中は
苦行なんかではなく、楽しさでいっぱいだっただろうな、
と無責任に感想を述べてみました。


一番の感想は、構成にも動きにも無駄がないように感じたし、
何よりどこを切り取っても「絵」になるので写真家さんにしたら、
こんなに楽しい被写体はいないのではないだろうか、
と思えるほど美しい魔物でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

星野 光さんmixiメッセージより

産道は始めの脚しか見えない時間。
少女期1は赤い傘の時間。傘は少女を守ってくれるもの。
少女期2は傘を捨ててからの時間。守ってくれるものから脱皮した少女の時代。
そして最後の自転車は、自転車に乗ることを処女喪失と受け止めました。それは即ち少女としての死。

少女の性の目覚めはどの段階からだったのだろう。少女期2は間違いなく性の覚醒。では少女期1? それとも産道ですでに?
人間は生まれた時から不完全に死んでいて、一生かかって完全に死ぬ、というのは「さらば箱舟」の中のセリフでしたでしょうか。
産道ですでに性に目覚めていたのであれば、(エロス=タナトスであるゆえ、)まさに舞台全編を通して完全な死に向かっていく様の表現だったのですね。

産道は生を受ける前段階であるゆえ身体は部品でしかなく、死によってまた身体は単なる部品に還る。
それでは生ある人間にとって身体とは何なのか。
高橋さんの舞踏は、この命題に対する答えをずっと探求しているもののように感じました。

踊りの中で、異形のように、人形のように、見える身体。身体とは結局パーツでしかないのか。踊りによって身体に魂がこめられ、エロティシズムが溢れるほど、それは死のイメージにつながり、一層異形や人形のパーツとしての身体に陥ってしまう。

身体に加えて、強い力を放っていたものが二つあります。
一つは眼です。なぜ眼にそこまでの表現力があるのか。眼の怖さ。バタイユの眼球譚。合田佐和子の目玉のハーレム。神聖であるゆえ不可侵であるべき眼球。レーシックに対する人々の拒否的な反応。
そしてもう一つは汗。汗にあのような魅力があるとは。産道から抜け出て、初めて高橋さんの顔が露わになった時のその顔に流れる汗。少女期2で背中を露出した時、その背中をぬめるように光らせていた汗。高橋さんのせいで汗フェチになってしまったかもしれません。(笑)

ブリジット・フォンテーヌの音楽、その狂気を孕んだ音楽も、舞台にとてもマッチしていました。

バタイユの「イギリス人」に「黒いエロス」という言葉がありましたが、この意味での黒い芸術、黒い音楽、を私はこよなく愛します。そして黒い舞踏。
今回の舞踏のテーマ色は赤でしたね。黒い赤。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

凛吾@靉靆2011年06月19日 14:25 より

いろいろなイメージが頭をよぎりました。


・夏目漱石
この世のすべては喜劇
生か死かそれだけが悲劇

・天井桟敷の人々
悲しいラストシーンに謝肉祭の浮かれた音楽

・一青窈
「百年続きますように」

・哀愁の男の背中というのはよくあるが、女の背中にあれほど哀愁を感じたことはない

・ラストの自転車全力疾走、あれほどの名シーンはどんな有名な演出家にも決して描けない

・赤い糸

・黒澤明の酔いどれ天使の中で笠置シヅ子が唄う
「わたしは女豹だ」

・人の人生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし
(水戸光圀)

・欲を言えばメトロノームがもっと活躍してほしかった気もしますが。

一週間経った今も印象は色褪せていません。素晴らしかったと思います。

断片的ですみません。
お疲れ様でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

えいいちさんの日記から

演舞中ずーっと考えてた。
頭つかったわあ。

真っ暗になって、しらんまに登場しとる。
客席から舞台後方へむかってゆっくり足を動かして移動、足だけ赤の照明でライトアップ。

筋肉の凹凸がすごい綺麗、
人間の足の指ってあんな方向に曲がるのか…あたしは曲がらないぞ!
足の裏の筋肉ね!初めて見たような気がする!!!

音が全くない状態でゆっくりゆっくり動くの

開いた傘からちょっと出たり隠れたり。
跨いで出したり引いたり
動く自分の足を掴んだりひっかいたり
赤い線に沿ったり、あと背中むけたり

なんか掴んだり、自転車にぶつかったり、自転車担いで置いてこいだりしてました。



あたしの知ってる「ダンス」って、音楽に合わせてリズムがあって、1〜8拍があって、始まり(1)から終わり(8)までの流れがあるやつなのね。

今日観た「舞踏」は、どこが始まりでどこが終わりかわからなくて、不規則で予想がつかなかった。
0〜1の間に0.1〜0.9、或いはもっと小さな数字があるような感覚ね。


とすると、昨日と全く同じ動きをしてんのかなー?出来ないよなあって思うじゃんね。

終演後に話してた聞こえてきた会話によると、大まかな流れはあるけど毎日のお客さんの反応とか自分の思ったこととかふまえて変えてるらしい!
なるほどー。


で、演舞中は「同じ動きしとるわけじゃないだろうな〜」って考えたのよ。

それから、「いつ息してんのかなー」って思ったのw
あたしの息使いとか咳とか座り直す動きも、全部彼女の舞に影響するんじゃねwwwwwって考え始めたら息できんくなった\(^0^)/
そしたらむせた。ごめんなさいm(__)m


あと「人」っぽくないなーって思った。
木葉が落ちるときに、ちょっとした空気の流れで全然違う動きするじゃん?
なんかそゆイメージ!

人を有機物っていうなら、演舞中の彼女は無機物だった!
有機物と無機物の使い方合ってるかわからんけど(^ω^)

お芝居とか、ダンスは有機物で、舞踏は無機物という分け方を今後すると思います(?

最後のお花拾って舞うとこが1番わかりやすかった。
謎の感動を覚えて泣いた\(^0^)/
なんでかはわからん。
すごく綺麗だなーって思った
あ、でもそんときは「この人人間だ」って思ったわ!


終演後、順番待ちして(笑)少しお話させていただいた。
近くで見るとめちゃくちゃ可愛い、知ってたけど。
私のような凡人が話して良い人種じゃねえ。
しかも何言っても無知とばれる気がして気が気じゃなかった。


そうそう。びっくりしたの。
終わってほっとしてるとおもいきや、進化させることを考えててね。

なんと言っていたか忘れたんだが…(感想が私をパワーアップさせるの、みたいな表現)
あたしはこの公演を発表の場だと思っていたけど彼女にとっては中継地点に過ぎず、自分の納得する形を模索していくんだろうなー。


あたしの感想?wが何らかの形で納得する手助けが出来たらいいな。


本当はね、舞台に立つ人と終演後話すのって苦手なんだわ。
素の人間的なの見ると、やっぱり人間でしたってなっちゃうから。
でも今日は色んな話聞けたし、よかったと思った!!

さとしさんありがとう!
あと貴方の顔の広さを再確認!みんな知り合いかよ!w


もうすぐ名古屋つきます。




コメント(9)


中村恵一さんより

「百年時計」ときいて「百年経ったら戻っておいで。百年たったらその意味わかる」という言葉を思い浮かべていました。冒頭の足をクローズアップした動き、静寂と力、そして歳月の経過のようなものを感じながら見ていました。変な言い方ですが、足の筋肉の動きをこれほど凝視した経験はありません。不思議な感覚を持ちました。二本の足が時計の針に見えたり、傘が文字盤にみえたりもしました。

  売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

傘が時計だとするならば、時計に支配されていたところから脱皮してゆく姿がそこにありましたが、「ラジオのように」に寓意があるのかはわかりませんでした。ただ、ブリジット・フォンテーヌはまさに1980年の札幌でいつも聞いていたお気に入りの歌手なので、ここでフォンテーヌがかかって驚きました。時間と言う抑制から解放された後は見る側も緊張から解放されたような気がしました。自転車を担いでこられました。自転車も時計の寓意だったんでしょうか。動かない時計としての傘と動かせる時間の自転車。

  見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし
  死の日よりさかさに時をきざみつつつひに今には到らぬ時計

もう一つ、ロートレアモンの「手術台の上でミシンと蝙蝠傘が出合ったように美しい」を感じました。舞台の上で蝙蝠傘と自転車が出合ったように美しい。よかったです。



さよならのパッセレッラ。8 1/2の終盤で、数人の演奏部隊が縦に並んで消えてゆく場面が閃きました。それが舞台上の遠くの自転車へ向かおうとする足にすり替わる、と同時に、震えました。身震いではなく、足ががたがたとおののくような震えでした。得体の知れないものが、見てくれ、といわんばかりの強烈な情念みたいなものを放っていたのでしょうか。一方的ではなくて、空間として共有するもの。ゆっくりとした足の動きとメトロノームの間隔に集中させながら静かに自分を舞台へとゆだねていきました。
そこに、踊り手のどんな思いがあったのか、わかりません。けれど、「私の身体と同化するほど大切だったもの(自転車)が、壊れて今は無い、そのことと、けれど私の中で認められず、私は独り相撲したり、強烈に繋がる瞬間があったりしてやはりなくなってはいないと、その狭間に立ってもがく、だが結局そんなやり方ではない、かつて私はなにを感じたのだろうか、悲しく苦しいことを奥底にしまっておくのではなく、対峙する」、…こう言うのは簡単、単純でしょうか。
自分の中にある出来事や、記憶に対する思いが具体的に表されたのは、足が足でなくなる、何かを追いかけるところだろうか、そこでわかりやすく観る自分の中に落ちてきました。それまでの睨み合うような舞踏のエネルギーが別の方向を向いたように思いました。だから、もっとやれ、と思う箇所もありましたが、細く鋭い「寂しさ」がそのたびに不意に踊り手の脇を顔を出すようで、危うく舞台上と距離をとられるところでもありました。が、果てに背負う、機能不全の自転車、日々重さを増してゆくここに、悲しさというけ空虚が周りを取り囲んでいたことに、二回目に観て思いました。跨がって漕ぎ出すのは痛々しくみえました。自分は再び空間に取り込まれました。確かに漕ぎ出さなければならなかったように思います。真剣に漕ぐほど悲しさが置き去りになり、それは単に受け止めなければならないことなのだと思ってしまう。
実際どんな思いがあったのだろうと気にならないわけではありませんが、それは別問題です。空間(こう言ってしまうのも嫌ですが)な感覚へたどり着くまでのエネルギーのすさまじさと、美しさが後に残っています。あと、8 1/2のなかにあるハーレムの場面で、二階へ上がることを認めたときの踊り子の感じに似たもの。
こう書いていると、もう一度観たくなります。
ありがとうございました。
さて、先週末は待ちに待った高橋理通子さんの公演に・・・
土曜日は最終的に満席となったようで、予約しておいてホントに良かった。

期待8割不安2割。
不安というのも、今まではいつも何かしらのイベントや屋外での公演で
きちんとした舞台での天空揺籠は見た事がなかった。

もしかしたらそれは、ひどく退屈な物に思えてしまうのではないか?

それだけが気がかりだった。

そして、舞踏が始まる。

闇。呼吸すら憚られる無音。張り詰める空気。足。自転車。傘。紐。音楽。背筋。自転車。。。

気付けば終わっていた。
ほんの一呼吸の間に、1時間強という時間がたっていた。
拍手を送り続けていた。

公演後、その場で小宴会があり参加させていただいた。
少しでも余韻に浸っていたかった。

色々な人の人生を盗み聞きしつつ、幸運なことに知り合いを作る事も出来た。

しかし、まだ足りなかった。

結局翌日にまた来る事を決める。


土曜日は、一番後ろの席から。
日曜日は、一番前の席から。

土曜日に、その足の動きをしっかりと見る事が出来なかったのが心残りだったので図々しく一番前に陣取った。

場所に加え、ある程度動きを把握していたので、全く違う視点で見る事が出来た。

ふぇいさんの日記から

土曜日よりも自転車が重くなっていた。



二日間公演を見て、2度朝を迎えたが頭の中に回り続ける。
毒に侵されているようだ。

決して仕事に集中できない事の言い訳ではない。
それはいつもの事だから。
エマニエルストレートサンの日記より
名前 入れるの失敗いたしました。ゴメンナサイ

真っ暗闇の中で始まった

余りの暗闇に気が遠のきそうになるのをこらえていると、すこしずつ彼女の姿が明るみに出る。

いや彼女ではなく彼女の脚部がといったほうがいいかもしれない。

口を閉ざしながらもその口だけで微笑を浮かべて男を幻惑する幻女(まぼろしおんな)のように観客を誘惑する。

彼女の妖艶さを思い知るには二本の脚だけで十分であった。

以前天空揺籃の稽古現場に居合わせた時、吉本大輔さんが『太ももで踊れ』と言っているのを聞いたことがあった。

太ももで踊る。その時はわかったようなわからないような、そんな気分であった。

しかし今日まざまざと見せ付けられたのだ。

太ももの色目使いというやつを。

高橋理通子というひとは男を誘惑するすべをいくつか心得ていてその一つが太ももで踊るということなのかもしれない。

しかし、幕間から袖に消える瞬間ふっと最後に一瞬残った右手の美しかったこと。

夢の残り香とは高橋理通子の右手にこそふさわしい。



〜赤い傘の思い出〜

赤い傘はいつもかならず捨てられているという記憶がある

捨てられている傘には赤い血液がしっとりとながれている

赤い傘布はもちろん膣を連想させる

そこにはりついた骨は男のものか女のものか

しかし赤を愛撫する

そのつややかなる愛撫

時に膣の中にみずから潜り込む

これ以上美しい自慰行為は世界的にみても稀である。

そして時には傘の骨を自身の肉にそして赤い襞にぶつけていく

傘の骨は現代では堕胎の道具を象徴してしまうが、だとしたら赤い傘は赤い雨でなおよりいっそう赤く染まることになる。

堕胎という行為に愛撫があるというのは逆説的にもあってはならないことだが、高橋理通子の恍惚とした姿を見ているとそんな社会道義的なことはすっかりと頭からこぼれおちてしまった。



そしてフォンテーヌ 『ラジオのように』が流れる

正直な話、私は2度ほど気を失いそうになった。いや正確にはほんの短い時間の気絶があった。しかし断絶はしていない。

2度目の気絶のとき『ラジオのように』が流れてきた。

気絶した私にとっては目の前で行われている衝撃は、やはりラジオのように流れてきたのだ。





百年時計、このタイトルの謎がすべて解決したわけではない。いやむしろ何も解決できなかった。

赤い傘の骨がぐちゃぐちゃになってそれぞれがアッチの方向を向いていればすべての磁場が共犯者となりすべての時計は狂ってしまうだろう。

そして、狂ったままとはいえ、彼女がこぎ続けた自転車のあの勢いをもってすればあと百年時計の針は止まることがないのではないだろうか。

しかしメトロノーム同様こぎ手を失った車輪というのはいつか止まる日がくるのも事実である。メトロノームは赤い雨音と同期しきれないかもしれない。

それでも、100年を超えても語り継がれるであろう舞踏を体験することができたこと、吉本大輔さん、石川慶さん、その他関わったスタッフの方々、そしてもちろん高橋理通子という若くしてすでに成熟した一人の舞踏家に感謝したい。

ありがとうございます。
ふぇいさんの日記から
(名前書き忘れました。ごめんなさい)

さて、先週末は待ちに待った高橋理通子さんの公演に・・・
土曜日は最終的に満席となったようで、予約しておいてホントに良かった。

・・・・・・・・・・・・
結崎剛さんから寄せられた文章です。
まずは前編。

空転の揺籃  ――高橋理通子の舞踏「百年時計」を見て


存在するということは、ほかでもない荒れ狂うということなのだ。それだからわれわれは、ほとんどいつも、何も知ることなしに自分自身からおずおずと遠ざかる――ちょうど仕掛けられた地雷から遠ざかるように――ことを好むのである。しかしまたそれだから、われわれは自分以外の荒れ狂う様を見ても感動するのだ。そして自分の荒れ狂う様もああいうものになるにちがいないと知るのである。 

(ジョルジュ・バタイユ「人間と動物の友愛」酒井健訳『純然たる幸福』所収、p.63)



 舞踏に魅せられている。

二〇〇八年十月、舞踏集団「天空揺籃」の主催する、石川慶の処女舞踏公演「蒼天のしずく」を観ていらい、同年十一月彼女の姉弟子・高橋理通子の初独舞、そして彼女たちの師である吉本大輔の舞踏と、吸い込まれるようにその世界にいざなわれ、以降出来うるかぎりかれら天空揺籃の舞踏を追い続けている。その間、他にもいくつかの舞踏を観る機会があったけれど、かれらとともに味わう以上の感動はない。むしろこの稀なるめぐりあわせに感謝するべきだろう。

 舞踏というものは何やら難解で妖しい不健康なものだと考えがちだけれど、どうもそうではないらしいのが、近ごろよくわかるのである。

佯狂者や意志薄弱者が、わずらわしい人間間の交流から逃れようとする時にするような、安易な狂気には決してながされず、絶えず人と人との境界にもぐりこんでくる、舞踏者たちの勇気に、ぼくはつねに魅了され、かれらのなかにある根源的な生き方、文字通りというよりもむしろ精神的な、裸一貫の生き様に惚れているのである。そして、すぐれた芸術作品がつねにそうであるような、万人にひらかれた世界がそこにはあるのであり、ぼくはいつも、かれらの舞踏に見にゆく日が近づくと、楽しみで仕方がなくなってしまうのだ。


 真っ暗な舞台、観客席には人がひしめきあっている。音楽が鳴り、スポットライトが当たるが、人の姿はない。暗黒。次の瞬間、観客席前列ぎりぎりに浮かび上がるのは、照明を当てられ、まるで燠火のように耀く、真っ赤な《何か》。それが恐らくは黒衣をまとって半身を闇にかくしながら立つ、舞踏者の脚であるのは知れてくる。光明に接近しすぎたふくらはぎの、筋肉の微妙なふるえや躍動、よく動くアキレス腱からまろやかなくるぶしにかけての肉体の些細な部分部分が、そこへ当てられた強すぎる光によって、拡大され、あるいは削除され、脚は脚ではない、まったく別のものとなってぼくらの前で踊る。ゆらめく燈明、熱せられた鋼鉄、流れに逆らう二匹の鯉、数瞬のなかに別世界がひらめいては消えてゆく。くねらせ、ねじらせ、交叉する両脚は、光によって、肉体としての輪郭をうしない、その交錯点で混じり合う。二本の脚は、二本であることも脚であることも止め、のびのびとしている。――暗黒に落とされたとき人は、いかなる姿に変貌するか。それは、ある瀬戸際の情況に陥った人間を目の当たりにするとき、だれの胸にも去来する苦々しい問いかけだが、その苦さの根は、室内いっぱいの闇のなかで、絞られた明かりにさしぬかれながら立つ舞踏者の姿にというよりも、いつの間にかその後景に置かれていた、自転車の存在に気づいたときに露呈する。闇に浮かび上がり、様々にその姿を変えてゆく脚は、次第に舞台奥の自転車のほうへとにじり寄ってゆく。「脚」と「自転車」という対比は、自転車にまたがるとき、この脚は、現在の脚ではない舞踏する《何か》の状態を止め、またいつものように、われわれがよく知る日常的な脚の姿へと戻るであろうという予感を、じりじりと喚起させる。そしてまた、自転車に近づくために、照明から遠ざかることによって、脚はその姿をますます顕わにし、くきやかに闇のなかに立つことにもなるのである……。

     × × 

 この文章は、舞踏開始のほんの一景を、記憶とノートにより再現し直したものに過ぎず、じっさいの光景、あるいは舞踏者の演出意図とは異なっているであろうことは、むしろ当然だろうと思う。

何かと出逢うとき人は、与えられたイメージを、限られた時間のなかで自由に思考することに喜びを感ずる。ありとあらゆる事物は、そのようにして楽しんでよく、そして知識や思い出、現在の社会および個人的情況が、その楽しみをますます深くしてくれることだろう。そのような意味で、舞踏は単純に楽しいのであり、どうしても時間的拘束力をもちづらい絵画作品やあきらかに緊張感のとぼしい映像作品とはまったく違う感覚で、自身の感性と想像力とを自在に遊ばせることが出来ることを、ときに危険なことだと思いながらも、人は舞踏を楽しむのである。 

     × × ×

結崎剛さんから寄せられた
空転の揺籃  ――高橋理通子の舞踏「百年時計」を見て
中編です。


(極度にエロティックで、それゆえに非凡さをそなえることのむずかしいいくつかの場面については省略し、最後の光景を描写したい。)


惨憺・燦爛たる光景をつくりおおせ、高橋理通子は、いよいよ舞台中央に自転車をすえ、跨り、こぎ始める。むごたらしい最後。繰り広げられていた壮麗な場景にしばし忘れていたが、当初危ぶんでいたことが起きてしまった。もはや舞踏者の肉体は、自転車をこぐ日常的な肉体へと転落し、舞踏者は舞踏を止め、車輪からはずされたペダルを、いたずらに回すのみ。音楽。そして徐々に照明は落とされ……暗くなり、明転するころには、観客はたがいの顔を見合わせながら、いつもと変わらぬこの肉体をひっさげて、日常へと帰ってゆくのか――。その瞬間、力いっぱいにペダルをこぎながら暗転のさなかに消えかけてゆく高橋理通子のしろい身体が、極端にちいさく見え、黒く塗られた自転車もペダルもとうに闇に溶け、銀色のハンドルの半円が鈍くきらめくと――、完全な暗黒になるまえの一刹那、一生懸命歩行器につかまって歩いているあかんぼうの姿が、まるで宙に浮かんでいるかのように、見えた!

――今度こそほんとうの闇。そして明転。あかんぼうの姿も高橋理通子の姿もそこにはなく、ただただ空転しつづける自転車がそこには残されており、まるで舞踏者は、幼児から未生以前の闇へと、還っていったかのようだった。あるいは、あの束の間のあかんぼうを……。

カーテンコールのさなか、地面を蹴り自転車で舞台上をめぐるきれいな理通子さんを見ながら、ぼくはこの舞踏空間の最後のごく一瞬に賭けられた、歩行器の中の赤子のイメージに慄然としていた。自由に思考する、といったけれど、その場合の自由は、舞台鑑賞をそっちのけに、勝手に幻想を繰り広げ、気ままに見たい夢をみるということではない。舞台上に明示された事物を可能な限りすべて知覚することにより、それらが織りなすありとあらゆる相関関係だけを頼りに、想像力をつうじて、稲妻のように時おりその姿をあらわす《何か》に憑かれるのをただ待つ。そのイメージに憑かれたときも、そのイメージがぼくの空想などではなく、他のものから、その一瞬を構成していたすべてから生まれたものであることを確認しておかなければならない。舞踏者の白く塗られた肉体が照明の調整とともに矮小化され、異形化するのはしばしば見てきた。赤子のように見えたのは、照明の効果というよりもむしろそのちいさくなった肉体が、歩行器の中にあるように見えたからに他ならない。黒く塗られた自転車は、とっくに闇にとけてその姿かたちを消していたが、弓形に曲がった銀色のハンドルだけが、必死にペダルをこぎながら消えてゆく小児の姿をかこんできらめくと、完全な暗転の一瞬間まえに、歩行器中のあかんぼうのイメージを形成するのは――、……絶対にぼくのせいではない。もしここにこのイメージを形成させないという意図があるなら、自転車全体を銀あるいは黒色に塗ればよいし、ハンドルもあのかたちのものを選ばなければよいはずだ。なんという見事な演出。すぐさまの明転の間に、その姿を舞台そでにかくしたのだろう舞踏者のいない舞台上に、空転するのみの自転車。突如姿を現わした、さっきまでいたはずの赤子は、まるで受精卵か霊魂に逆転生でもしたかのように、もはやそこにはいない。


結崎剛さんから寄せられた
空転の揺籃  ――高橋理通子の舞踏「百年時計」を見て
後編です。




公演を終え、光栄なことに、舞踏を終えたばかりの理通子さんとすこし話すことができた。右のような確信にみちていたぼくは、ためらいながら、けれどうっかり、最後一瞬間にかいま見えた歩行器のイメージを口走った。一時間以上もの独舞を終えたばかりの人に変なことを言って話をながびかせてはいけないので、ほんのみじかいことばで伝えたのだけれど、理通子さんの反応は「そんなふうに見えるんだね」というような、簡単なものであった。その返答は、ぼくには申し分ないくらい、満足のゆくものであった。

そう、舞踏者の至高の一瞬と、鑑賞者のそれとは、終には一致しないものなのかもしれない。しかしながら人間が、人間を人間たらしめる思考能力を有しながらも、ひとたび他人の視線にさらされるや、物のごとき存在として、自分自身思いもよらぬ姿かたちで認識されることは仕方がない。そしてその見られる存在としての人間は、いかにその人がその人であろうとしたところをはるかに超えたものしてと認識されていようとも、究極的にはあずかり知らないことであり、それが見る者にとっての幸不幸であるのは、見る者だけの問題である。高橋理通子が舞踏作品「百年時計」に込めたであろうものを、どれほどぼくが認識できたのかは知らないが、しかしぼくがみずからの意図をはるかに超えたところでこの作品に見た《何か》は、そういった見る者としての恐怖と愉悦に他ならないのである。

高橋理通子さんの舞踏は六月十日、十一日、十二日の三日間三公演つづけられ、いずれも満員の大盛況であったと聞く。十月には石川慶さんの舞踏公演。十二月には吉本大輔さんの、なんと一週間にわたる連続公演があるという。一つの舞踏集団のなかで、三人舞踏家がいて、吉本大輔さん石川慶さんそして理通子さん、三人とも、好きで好きでたまらないそれぞれ卓越した舞踏者。ぼくが出会えた、集団というものの、最も理想的なうつくしい姿として「天空揺籃」はある。


 きょう、理通子さんから公演が無事終了されたと挨拶のメールがあった。



「改めてご来場ありがとうございました。私の最古の記憶はまだ立てない自分が歩行器を使って歩いている記憶なのだけど、終演後、剛君の見えたイメージの話を聞いてあのシーンがまた膨らみました」


 舞踏家の最古の記憶が、「自分が歩行器を使って歩いている記憶」であったとは――。



 そしてぼくはいま、理通子さんはきっと、「歩行器を使って歩いている」自分を、まるで他人のように何処かから眺めているというような、不可思議な記憶を、持っているにちがいないと、勝手に空想しているのである。


(「空転の揺籃――高橋理通子の舞踏「百年時計」を見て」http://goo.gl/S7Nyvより全文掲載しました。)
須合さんより寄せられた詩です。


赤が紐解くのは
時の残酷
振り子の音が
静かに鳴り響けば
始まりの時

この体から伸びる
手が 足が
自分のものだと気付いたのは
何時からだったのだろうか?

当たり前のように
意思に従う それも

制御出来ないものだった筈
当たり前のように感じていた心が
いつしか壊れて
突然狂いだす

紅を滲ませた母と
黒を保った父

この世に産まれ落ち

視界に映っているものは何だったのだろうか

何故と問うことは
くだらない事

切り離せやしない

捨てる事さえも叶いやしない

ならば 受け入れていくのみ

手を
足を
心を
暗闇の中
抱え込んでいくのは不確定な自分の影

諦めにも
覚悟にも似た
ため息一つ

自分を知れれば それだけでよかったのに

自分を手に入れれば
周りが見えてくる
手にしたレンズで世界を見渡せば
目を奪う一筋の光

灰暗い闇の中で

心を誘う

自分とは違う何かを手に入れようと
掴めないものを必死に手繰り寄せる

少しずつ知った光が

いつしか視界を照らした

歓喜を手に入れて
世界が踊りだす

艶やかに 恍惚の笑みを湛えて

世界は少しだけ
くだらない


錯覚は
どこまでも甘い罠

それでも止まらない

自分が眠りを貪っていても
哀しみに飲み込まれても
喜びに包まれていても

静かに
進んでいくもの

操っていたと思っていたんだ

共に進み

やわらかな

優しい景色を見ていられた
進む

進む

進む

進む

止まらない
だんだんと加速していく

時の回転からは
降りられないのよ

この世に生まれ落ちた時から

倒れるまで

始まりがあり

終わりがある

時間だけは永遠に続いていく

あたしが

この世から消えても

ただ穏やかに
容赦なく

時は、

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

舞踏−吉本大輔・天空揺籃 更新情報

舞踏−吉本大輔・天空揺籃のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング