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訃報 (ふほう)コミュの<金大中氏>死去 韓国元大統領

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<金大中氏>死去 韓国元大統領、心不全で 83歳
 朝鮮半島の緊張緩和や韓国民主化運動への貢献でノーベル平和賞を受賞し、滞在中の東京から拉致された、いわゆる「金大中事件」で日本との因縁も深い韓国の金大中(キム・デジュン)元大統領が18日午後1時43分(日本時間同)、ソウル市内の延世大付属セブランス病院で死去した。83歳だった。金氏は先月13日から肺炎のために入院していた。詳しい死因は発表されていないが、ロイター通信は心不全とみられると伝えた。
 韓国南西部・全羅南道の荷衣島(ハイド)生まれで、木浦商業を卒業した。日本の植民地支配が終わった後、商船会社などを経営しながら政治家を志し、国会議員に4度目の挑戦で61年に初当選した。直後に朴正熙(パク・チョンヒ)少将による軍事クーデターが起きた。
 後に民主化運動の同志でライバルとなる金泳三(キム・ヨンサム)氏を野党の党内予備選で破り、71年の大統領選に立候補した。現職の朴正熙氏に迫る予想外の善戦で政治家として名を上げた。しかし72年、朴大統領は戒厳令宣布で独裁的な「維新体制」の政治を始めた。このとき日本にいた金氏は日米を往復しながら反朴政権運動を展開。73年8月、韓国情報当局の手で東京のホテルから韓国に拉致され、自宅軟禁状態に置かれた。
 79年10月の朴大統領暗殺事件後に政治活動を再開したが、80年5月に逮捕された。この事態がデモ隊と軍部隊の衝突による「光州事件」の引き金となり、金大中氏は事件の「背後操縦者」として内乱陰謀罪に問われ死刑判決を受けた。その後、国際世論の支援で減刑・釈放され、82年に渡米した。85年に帰国し、再び自宅軟禁となったが、87年の民主化宣言で自由な政治活動が可能になった。
 同年の大統領選では金泳三氏との調整に失敗して2人とも立候補し、共倒れになった。92年には金泳三氏に敗れ、政界引退を宣言した。しかし95年には政界復帰し、97年、4回目の立候補で大統領に当選、韓国史上初の与野党間での政権交代が実現した。
 大統領就任前の97年末に韓国を襲ったアジア通貨危機に対しては積極的な外資導入と国際通貨基金(IMF)の融資導入で経済立て直しを実現、指導者としての力量を示した。さらに98年2月から5年間の在任中、対話と経済交流を優先する対北朝鮮包容(太陽)政策を実施。00年6月13〜15日、平壌を訪問して、北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記との南北首脳会談を実現した。同年12月、朝鮮半島の緊張緩和への貢献などによりノーベル平和賞を受賞した。
 しかし、首脳会談直前に財閥・現代グループによる巨額の対北朝鮮違法送金を認めた事実が発覚。02年には次男、三男が不正資金事件で逮捕されるなど、自身や家族、支持者の問題点が続出。さらに包容政策が北朝鮮のミサイル・核開発を結局、阻止できなかったと判断され、支持率は急落した。対日政策では、日本の大衆文化開放を段階的に進めるなど、日本側から評価を受けた。
 大統領退任後は政界の一線から身を引いたが、出身地の全羅道では強い支持を維持し、国政への影響力を行使していた。国内での研究活動の他、国内外でたびたび講演して、北朝鮮との対話の必要性を訴えていた。近年、腎臓を患い人工透析を受けるなど健康状態の悪化が伝えられていた。

コメント(1)

李承晩、朴正熙時代、そして拉致事件を同時代として知っている者にとって、あの金大中が大統領になるなんて、時代は変ったもんだという感慨を覚えたものでした。その彼もついに鬼籍に…。いきている間に統一を見られなかったのはさぞや残念でしょう。

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