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榎本喜八コミュの奇行で?トレードされた“安打製造機”榎本喜八 やはり噂は…

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スポニチアネックス日めくりプロ野球08年12月
【12月8日】1971年(昭46) 奇行で?トレードされた“安打製造機”榎本喜八 やはり噂は…
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08december/KFullNormal20081201179.html

プロ17年生、通算2276本のヒットを重ねた初代“安打製造機”は、新人選手の入団会見のように硬くなっていた。「個人の成績は二の次にしてチームのために頑張りたい。監督の指示に従い、ただベストのプレーをいるだけです」。

 バッティングに対して、人一倍こだわりを持ち続けてきた榎本喜八一塁手。これがロッテから西鉄(現西武)移籍時の会見での言葉だった。「エノさん、どうしちゃったの?ルーキーが話しているみたいだな」。隣で聞いていた稲尾和久監督が目を見張った。その一方で懸念していた“不安”が和らいでいく、正直なところ監督はそんな安心感を抱いた。

 球界を揺るがせた八百長事件、いわゆる“黒い霧”に巻き込まれて以来、戦力ダウンが著しかった西鉄。ロッテから村上公康捕手とのトレード話が持ち込まれた時、現役時代に榎本を打ち取るためだけにフォークボールを投げた稲尾監督は飛びついた。

 全盛期を過ぎたたとはいえ、球界では3人目の2000本安打達成者。その野球に取り組む姿勢、そして卓越した技術を1軍半並の選手ばかりになってしまったライオンズナインに生きた手本としてどうしても見せたかった。

 それだけに話がまとまった時は大喜び。「4番を任せたい」という稲尾監督が榎本に与えた背番号は「3」。オリオンズ時代の榎本の背番号でもあったが、“野武士軍団”といわれた西鉄黄金期に大下弘一塁手が付けていた“ライオンズの4番”を示す背番号でもあった。

 稲尾監督が唯一気にしていた“不安”、それはあちらこちらから聞こえてくる榎本の“奇行”の噂だった。練習もせずにベンチで座禅を組み、試合開始まで動かない、たとえヒットを打っても納得した当たりでなければ、ベンチ裏でコーラのビンを叩き割った挙句、バットをヘシ折る…。「あのエノさんが…」。稲尾監督の耳に入る話はどれもにわかに信じがたいものばかりだった。

 早稲田実業の先輩で王貞治の師匠として知られる、荒川博の影響で打撃に合気道を取り入れた榎本。体全体の力を抜き、ヘソを中心に腕、足、腰に気力を充実させて球を呼び込んで最小限の力で打ち返す。榎本は理想としていたバッティング理論にいつもこだわっていた。少しでも沿わないと、家でもガラス窓をバットで割るなどして暴れた。

 自分の気力、体力が理想に追いつかなくなった現役時代後半になると、若手を自分の打撃の継承者に育てようと、けがでファーム落ちした時に自分の練習は一切せず、打撃コーチそっちのけで教え込んだこともあった。しかし、独特の“榎本節”で展開する抽象的なバッティング理論は、1軍選手でさえついていけず、若手は困惑するばかり。榎本の気持ちが満たされることはなかった。

 66年(昭41)、2度目の首位打者を獲得したあたりから行動に変化がみられ、71年のシーズンは顕著だった。71年7月途中までロッテの指揮を執った濃人渉監督はうまく榎本を使っていたが、シーズン途中に2軍監督から1軍監督に昇格した大沢啓二監督とは、はっきり言ってウマが全く合わなかった。

 右太もも痛でファームで調整となった8月以降、故障が癒えても榎本は上に呼ばれなかった。大沢監督はオリオンズの代名詞だったミサイル打線を完全に解体し、若手中心による機動力、ディフェンス重視のチーム作りを目標に掲げていた。真っ先にトレード要員に挙がったのが走れず、打つだけが取り得のミサイル打線のかつての顔、榎本だった。

 西鉄入団会見時は稲尾監督の不安も解消されたかに見えたが、榎本はこの時、精神的に疲弊していた。ある時榎本はこんなことを漏らしている。

 「僕はもう36歳だ。峠は越えているよ。“15番打者”(9番打者よりもずっと劣るという意味)だな」「野球をやれてあとせいぜい2年。もう疲れた。でも僕には家族がいるし、野球しかできないから、九州へも1人できた。オリオンズの榎本はもう死んだんだ」。

 “奇行”はライオンズでも見られた。72年8月11日、東京スタジアムでの対ロッテ戦の試合前、ナインが外野でアップをしていると、バットを持った榎本が突然フェンスによじ登り、「それぇー頑張れぇー」と大声を張り上げた。たまらず稲尾監督が「喜八ちゃん困るよ」と注意すると、「ああそうですか」と言ったきり、後ろも振り返らず、そのまま球場を後にして自宅へユニホーム姿のまま帰ってしまったこともあった。

 期待された背番号3は結局61試合で38安打しか打てず1年で引退。通算打率は2割9分8厘。「あと18本ヒットが多ければ3割ジャストだった」が引退後の口癖だった。

 酒もタバコもやらず、若い時に先輩に連れて行かれたキャバレーでは5分も立たないうちに「こんな不潔な場所にはいられない」と帰ってしまったほど生真面目な性格。頭の中はいつも野球。とりわけ打撃については、武道と同じように“打撃道”として確立することを一つの理想として思い描いていた。

 榎本にしてみれば、毎日野球と真剣に向き合い、葛藤した結果、どう悩みを表現していいか分からずとった行動が周囲から見れば“奇行”として映ってしまったのである。

 現役引退後、野球界とは一切縁がない。実は引退直後、大洋監督に就任した、青田昇から非公式に打撃コーチの話があったが、それも立ち消えになってしまった。「本当は打撃コーチをやりたいんです。でも誰も声をかけてくれない。僕は社交ベタだし。そういう人間には話が来ない」と榎本。“復活の日”を目指し、自宅から40キロ近く離れた旧東京スタジアムまでランニングをしていた話は有名である。

 還暦を過ぎても球界復帰の希望はあったというが、08年12月5日で72歳に。現在は都内で貸家と駐車場を持ち生計を立てている。

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