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戦国時代の史跡巡りコミュの報いをまてや羽柴筑前

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ここは野間大坊
愛知県知多半島にある内海の野間は、面白い話があるグッド(上向き矢印)グッド(上向き矢印)

平治の乱に敗れて東海道を下ってきた源義朝(頼朝のお父さん)は、数人の家来と共に美濃から伊勢湾に出て知多半島沿岸から野間に落ちのびた。

家来の鎌田氏の義父である長田忠致(おさだただむね)を頼ったのだが、平氏からの恩賞を目当てにした忠致に殺されてしまう。

忠致は頼朝挙兵の折,父子共々頼朝に罪をわび,「抜群の軍功をあげたなら,罪を許し美濃・尾張を与える」という頼朝の言葉を信じその後の合戦では活躍したそうだが、頼朝はこの忠致・景致の恩賞として義朝の墓の前で磔にした。約束通り「美濃,尾張(身の終わり)」を与えたのだそうだ。これは後の世の物語だそうだが。

義朝の墓には、最期の言葉「せめて木刀一本でもあれば殺されず済むものを」にちなみ,多くの木刀が供えられている。また義朝の首を洗ったとされる「血の池」は、国に異変があると、赤く染まると言われている。


それから424年後
賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は秀吉に対し挙兵する。しかし兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して野間へと送られ(落ち延びたという説もある)無念の死を遂げる。
これもまた「美濃(岐阜城)尾張(内海は尾張)」
この時の辞世の句が
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

坂役叢話から。
大坂の役を題した軍記物で、信孝の自刃と豊臣氏滅亡が同じ5月だったことから、家康がこの辞世を引き合いに出して大坂征討をおこなったらしい。

山岡荘八の「伊達政宗」には信孝の死から20年後の信孝の命日に大阪城が落城したとあったが、どうやらそれは物語を面白くする為の・・・であるようだ。

やはり主を裏切るような不義理な行為は、子孫までの反映は無いのか?
細木和子も子孫につけが回るとかよく言ってるしね。






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