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久し振りの投稿です。
最近感動した話に掲載しようとしましたが、字数が2000字までのため
新規にトピックを立てさせて頂きます。

今から5年ほど前に発売された『チソン愛しているよ』という本があります。
韓国のイ・チソンさんの素晴らしい生き方を紹介したいと思います。



2000年7月30日女子大生のイ・チソンさんは、この日大学に遅い時間まで残っていました。仲の良いお兄さんが車で学校まで迎えに来てくれることになり、兄の運転する車で、ソウルの郊外にある安養市(アニヤン)に向かったのです。途中、交差点で信号待ちをしていた時のことです。


泥酔状態で暴走する車が猛烈なスピードで追突してきました。彼女はその衝撃で車の外に放り出され、と同時に車は火の海と化し、彼女自身も上半身が炎に包まれてしまいました。お兄さんが必死に車の間からチソンさんを引きずり出し、自分のT-シャツを脱いその火を消そうとしました。すぐに救急車も駆けつけ、彼女は救急病院へと搬送されましたが、医者は呼吸も脈も確認出来ない真っ黒に焼けただれたチソンさんを見て、助かる見込みもないし、この病院では対応出来ないとして治療を行おうとしませんでした。むしろ腕に火傷を負った兄の治療を優先したほどでした。彼女は全身の55%の重度の火傷を負っています。そぐに他の病院に移送されることになりました。


しばらくすると兄弟の両親が病院に駆けつけてきました。
お父さんは彼女を見るなり、『お父さんが来たからチソンもう大丈夫だよ。』
すると意識不明のはずの彼女が微かにうなずいたように見えました。
『チソンは生きています。先生なんとか助けてください。お願いします。』とお父さんは半ば諦めかけていた医者を説得し、なんとか応急処置を施してもらうよう必死で叫びました。しかしそれからの1週間は生死の境を彷徨う一進一退の状態を繰り返しました。


それでも1週間後、彼女は奇跡的に意識を取り戻したのです。
次第に自分の置かれている状況を理解し始めた彼女は、思わず『私を殺して』と叫びました。それを聞いていた兄も『あの時、僕が助けなければ良かったんだ。』と後悔したほどです。焼けただれた顔は皮膚がすべて焼け、皮膚の無い顔に消毒液を塗り、ガーゼで覆う。そんな治療がしばらく続きました。それでも、火傷を負っていない下半身の皮膚を顔に移植すれば、2ヶ月後位には退院出来るかも知れないという目途も立ってきたのです。ところが、ここでまた不運が彼女を襲います。それは当時韓国で始まっていた医療ストが本格的に実施され、結果として移植施術も本格的な治療もなされないまま、数か月も放置されてしまったのです。


それでも数か月後にはストも収まり、移植手術が始まりました。
手術自体も大変つらいものですが、手術後には皮膚の拒否反応から、移植した皮膚がすぐに黒ずみ、そして引きつり耐えがたい痛みに襲ってくるのです。4回、5回とつらい手術は続き、それでもようやく移植した皮膚が顔に定着するようになってきました。
入院からなんと7ヶ月でようやく退院が許されました。
久し振りに家に戻ったものの、皮膚の引きつりと猛烈なかゆみで体が曲がり、腕もあがらない状態です。親指を除く他の8本の指先は切断され、右手は使えません。
トイレも食事も日常のすべてを一人で行うことができないのです。家族の献身的な支えが無ければとても生きていくことが出来ませんでした。お母さんがスプーンで食べ物を口元まで運んでくれますが、そのまま下に落としてしまうことも度々でした。


平凡な家庭に育ち、どこにでもいる明るい女子大生の生活から、180度異なる彼女の人生が展開し始めたのです。
この間家族の献身的な支えのお陰と、彼女の並々ならぬ努力により、次第に日常生活も自分で出来ることが多くなっていきました。
そして彼女は決心するのです。日本に行って血管も皮下組織も一緒に移植する組織移植の手術を受けようと。こうして福島県にある病院に単身で入院することになりました。
慣れない環境で、しかも一人での入院生活。先生との信頼関係に包まれた太い絆。そして韓国での皮膚移植以上につらい、大手術。それでも彼女はひとつずつ、それを乗り越えていきました。そして組織移植の手術も期待通りの結果となりました。


彼女は言っています。『韓国では障害者が暮らすのはとても大変なんです。体が不自由というのは第二の問題であり、人々の視線に耐えて生きていくのがとても厳しいのです』
『あらまあどうしてこんなになってしまったんでしょうね』という好奇に満ちた視線で全身を嘗め回すというのです。『その点、日本人はひとのいやがることをしない国民で、障害を持った自分に関心を示そうせず、礼儀の教育がきちんと出来ているので、普通に生きて行くことが出来るんです』と。
 更に彼女は言っています。
『障害は不便なだけで不幸ではないんです。幸福と不幸の境界は障害があるかないかではないんです。今の社会は価値の基準を目に見える所に置くけれど、目に見えない心を基準にすると世界は全く違ってきます。障害者は決して劣った存在ではないんです。むしろ優越感を持ってもいいような祝福された人間だと思っています。神様の限りない関心と細心配慮、そして果てることのない愛を経験することができた神様のVIPなんですから。』
その後彼女は一旦韓国に戻り、さらにアメリカでの治療を受けるべく渡米しました。
その後帰国。事故の大きさからは想像もしていなかったような彼女の回復振りは目を見張るものがあります。


この間キリスト教徒である彼女は、いつかきっと目に見える形で私にも奇跡が起こるに違いないと願っていました。ところが日本に渡っても、アメリカに渡っても目に見える形での奇跡は起こらなかったのです。


いえ、奇跡は起こっていました。
事故後誰もが生きるとは思っていなかった人生。それが今元気に生きています。何よりも大きな奇跡は彼女自身の心の中で起こっていました。
『自分でも理解できないほどの心の希望と感謝の中にある平安。肉体の不自由とは比べ物にならない、戦場の中にあっても神がいつもそばにいるという信頼とそれによる魂の平安が訪れていました。』
『元に戻らない顔、指の切断を聞いても動揺しなかったのはこの平安のお陰なのです。
喜びと感謝と幸せを感じられる心でいられることこそ奇跡です。こんな素晴らしい心の世界を自分の意思で実現することは到底不可能でした。肉体は傷つき、痛みに耐え、不便になりましたが、誰にも侵すことの出来ない愛と恩恵を受け取れたのです。苦難は誰にでもあります。私のような苦難はめったにないでしょうが、苦難は誰にも起こりうることです。この苦難をどう乗り越えるのか。苦難こそ大きな祝福です。苦難を通してしか学べないことがたくさんあります。』と彼女は言っています。さらに、『これまでと全く違ってしまった人生。この人生を与えてくれた神に感謝しています。
家族に、兄にも母にも父にも感謝。もし事故の前の姿に戻してあげると言われても、私は決して戻りたくありません。今の人生でこんなに多くのことを学べたことに感謝しています。人間の本質は表面的なことではなく、心の内の輝きなんですから。今の人生に感謝しています。そして今とても幸せです』


その後チソンさんは、障害に苦しむ人たちに、障害を乗り越えて前向きに生きるお手伝いをしたいという夢と、火傷を負った多くの人の目に見える希望になりたい、障害により心にまで傷を負ってしまった多くの人に光をあてる仕事したいと、アメリカの大学院に行って、リハビリテーションコンサルティングの勉強しようと決意しました。
『神様が私にこのおまけの人生をお許しにならなかったら、あのとき死んでいたかも知れません。さらにおまけに、チソンが天国の心を持つようにしてくれました。多くの人の愛を受け、その祈りに力づけられました。私は本当に幸せです。あんなになってしまって幸せかという人もいるかもしれません。しかし事故にあう前より私はずっと楽しく生きています。おまけの人生は少し不便だけど、心配や悩み、憂鬱とは無縁なのです。』


イ・チソンさんは自らの心の中をキラキラ輝かせ、その輝きを周囲の人に放ってくれています。彼女の個性の輝きは私たち多くの人の心に希望の灯を与えてくれています。
そして決して揺るぐことのない平安の中にある愛と感謝と幸せで優しく包んでくれています。人生で苦難を感じた時、彼女の輝きを思い出せばどんなことでも必ず超えて行くことが出来ると思います。こんなに素晴らしい生き方をしているイ・チソンさんに心から感謝したいと思います。

イ・チソンさんのホームページはこちらから:http://www.ezsun.net/main.htm
但し韓国語で書かれているため、私は読むことが出来ません。どなたか最近の彼女の情報を訳して教えて頂ければ幸いです。

(内容は“チソン愛しているよ”から私の言葉に直して掲載させて頂きました)

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