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江利チエミコミュの続 江利チエミのマイ・フェア・レディ (日本ミュージカル創世記)

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江利チエミ・雪村いづみ・・・どちらがイライザに?という話にも...これにも諸説ありますが、イロイロ調べてみて「商業演劇としてどっちが集客できるか」という部分でチエミさんに軍配が上がったと見るのが一番強い線のように思えます。
ショウ・マン・シップの塊のような「江利チエミ」に東宝が集客を託したといえると思います。
なにしろ当時の日本は「ミュージカル」がまだまだ不毛の地。
団体客というマーケットにこの「ミュージカル」の切符は売れなかった。
当時の東宝劇場の営業マンで後の演劇企画室長、渡辺邦夫氏は当時を振り返って、「団体客なしといういうのは、東宝の演劇営業面では画期的なことだった。一枚一枚切符をうるのがどんなにたいへんか、よくわかった。」と述懐しています。(朝日新聞社刊/戦後芸能史物語より引用)

伝統ある歌舞伎を有する「松竹」に対して、東宝は「劣等感を強くいだいていた」節が当時はあったそうです。
東宝には、歌舞伎の松竹に対してオーケストラを使った音楽劇の伝統があった。
宝塚歌劇、エノケン・ロッパ劇、そして菊田一夫が演劇担当重役になってから東宝ミュージカルの名で作り出された音楽入り喜劇。
しかし、ブロードウェイ・ミュージカルの素晴らしさが伝わってきだすと、本格的なミュージカルへの欲求が、俳優からも観客からも高まっていった・・・
アメリカ事情に通じていた当時の東宝副社長/森岩雄氏が菊田氏を昭和37年、アメリカに渡らせて「王様と私」など3本の上映権を買ってきた。
ホンモノへの挑戦がはじまったのです。
そして、その中から「マイ・フェア・レディ」はトップを切って上演されることになった・・・という流れがあったそうです。

そして、ヒギンズ教授には森繁久弥さん、フレディには高島忠夫さんが決まり、宣伝用の写真の準備もできた。
しかし、その段となって「森繁さんは持病の痛風が悪化して突如降板」をすることになります。そこで、高島さんがヒギンズ、フレディには急遽「藤木孝さん」が抜擢されることに・・・
稽古初日、その配役変更を知らされていなかったチエミさんは怒って「私は出演するかどうかわからない」とスタッフとの間でひと悶着もあったそうです。

この「森繁降板」には、どうも「海のものとも山のものともわからない危ない橋は渡れない」という森繁さんの逃げであったのでは?というのが有力です。(のちに森繁さんは屋根の上のヴァイオリン弾きをライフ・ワークとします。)

しかし、この出航前から沈没寸前のような「マイ・フェア・レディ号」は、処女航海(昭和38年9月)から大ヒットとなり、初日のアンコールは5〜6回も続いた・・・と云われるほどの大成功を収め、初演の公演期間中に4ケ月後の再演も決まります。
切符は団体客をひとつもとらずに完売したのです。

再演の幕があいたばかりの39年1月4日午前1時過ぎ、イライザの父/ドゥリットル役の八波むと志さんが交通事故を起こし重体に、そして9日の朝に亡くなってしまいます。
4日未明、事故の知らせをうけた佐藤勉プロデューサーは菊田氏と相談し、代役に小鹿番(当時の小鹿敦)氏を抜擢。小鹿さんの稽古は朝5時から始まってその日の舞台に間に合わせたのだそうです。



森繁さんのライフワークにもなった「屋根の上のヴァイオリン弾き」はブロード・ウェイでは昭和39年に初演されました。
その3年後、昭和42年9/3---10/27に森繁久弥、越路吹雪、浜木綿子、松本幸四郎(当時の市川染五郎)、黒柳徹子、益田喜頓という豪華キャストで初演されました。
すでに「マイ・フェア・レディ」「アニーよ銃をとれ」の江利チエミ主演ミュージカルで機は熟したか?に思われていた時期です。
しかし、この興行も「赤字」で集客ができなかったのです。
朝日新聞刊「戦後芸能史物語」でも、
>帝劇の舞台そのものが、当時はミュージカルを上演する場所としてなじみが薄く、劇場の使い方にもなれていなかった・・・ 機が熟していなかった...と評されています。 この舞台が成功に繋がるのは、2度目の上演... 8年後の昭和50年2月からです。アメリカから演出家サミー・ベイスを招き、抜本的な改革がなされてからです。

江利チエミ主演「キスミー・ケイト」はこの1年前の41年2月に上演されました。
新宿コマ「江利チエミ特別公演/コマ・ミュージカル」として上演された「アニーよ銃をとれ(39年)」や、これはオリジナル音楽劇=日本版ミュージカルの「芸者春駒(40年)」は成功しましたが、この「キス・ミー・ケイト」の興行も残念ながら失敗に終わり、すぐ後の名古屋公演では主演が草笛光子さんに代わりますが、これもヒットはしませんでした。
コール・ポーターはまだまだ「早すぎた」のでしょう・・・
江利チエミにこのまま主演を勤めさせるわけにはいかない・・・という配慮もあっての降板だったようです。

マイフェアレディが好評裡に終了した後、色々批判も出た訳ですが、一番はチエミさんがキーを下げて歌ったこと。クラシックの人に「我々クラシックの人間にはあり得ない」と権威ある方々に言われたのです。
(※当たり前です!クラシックの歌手がテネシー・ワルツをあのように日本人に判りやすく、そして「民謡」をジャズのりで歌い、そしてなにより「美しい日本語」で歌うことは逆にできない!そして、チエミさんのアルトだから大衆に受け入れられたんだ・・・と私は思します。)
このことがキスミーケイトでキーを原曲に忠実に、下げても半音まで、と言う呪縛に執り憑かれ、チエミさんにとって取り返しのつかない結果・・・ポリープになってしまった最大の要因です。
ハスキーなアルトがメゾ・ソプラノキィで歌うということ自体・・・これは無謀です。
江利チエミが江利チエミのままに演じてよかったのだと思います。
この舞台が今でも永年のファンが一番悔やまれる公演・・・ではないでしょうか?

東宝ミュージカルを「ホンモノにしたい!」・・・この「ホンモノ」という呪縛。
いったいこの「ホンモノ」とは何だったのか?
大昔「付け鼻」をして「赤毛もの」を演じた時と、なんら替わらぬ「モノマネ」を目指したのではないだろうか???
これがこの時期、さまざまな失敗をした、いわば菊田一夫氏の「失策」でもあったのではないでしょうか?
後年の森繁ミュージカルは「森繁節」をそのままに、♪陽はのぼり また沈み 時移る〜 喜び悲しみを・・・と、日本人の心に訴える森繁節で堂々と歌った・・・これが「森繁のテビエ成功」の要因だったのでは?と思います。
当初、森繁さんに白羽の矢が立ったのは、アメリカで主演した俳優「ゼロ・モステロ」に似ていたから・・・という理由だったからだそうです。
観客は「モノマネ」を観にいくのではない...と思うのです。
森繁さんという人自身も丸裸の状態で満州から引き上げたいう憂き目にもあった経験を持っています。そんな彼が演じる「テビエ」を観客は観にいったのでは...と。
江利チエミのイライザに、アニーに...観客は「共感」と「感動」を覚えたればこそ「成功」に繋がったのだ...と思うのです。
歌劇団のお芝居を観にいくんじゃない。「ミュージカルというカテゴリーにくくられる云々は、多くの観客には二の次」なのではないだろうか?
39年、芸術座で「ノー・ストリングス」(雪村いづみ・高島忠夫)が上演されますが、ここは箱が小さくまずまずの入りで成功と報じられましたが、人種差別という難しいテーマが元のストーリーでもあり、「マイ・フェア・レディ」の方が面白かった!」という観客の声が多く、また「アメリカを意識しすぎて演技がオーバー!」など、非常に一般の評価は良くなかった作品です。

「権威に囚われて、大事なものを見失ってしまった」ような気がしてなりません。
  お客様が楽しんでいただけるかどうか・・・ということを...


※次に紹介するのは当時を知るファンの方からの情報です・・・

>ミュージカル「マイフェアレディ」の幕があく前に、チエミさんは色々なメディアに出て今で言うキャンペーンをした訳ですが、その中のひとつに雑誌で永六輔さんと対談したものがとても印象的でした。
雑誌はマドモアゼル(現在は発刊されてない)ではなかったかと思いますが・・・
内容はA・ヘップパーンと対面した話で、永さんが「ヘップパーンのイライザ(或いはヘップパーンそのもの?)は腋の下に白い羽根が生えているようなイメージだな」と仰って、すぐさまチエミさんが切り替えして「どうせ私は黒い羽根でしょう!」と笑いながら睨んで・・・
腋の下の白い羽根、と言う発想が如何にも永さんらしい発想ですが、ノースリーブのドレスのヘップパーンの腋から白い羽根、同じくノースリーブのチエミさんから黒い羽根のイラスト(漫画)がこの会話の部分に入っていておかしかった。
そして永さんが言い出したのか、チエミさんが自分で言いだしたのか記憶は判然としないが「どうせ私はマイ・ほんわか・レディよ」と言う件があって、しかし彼女の人柄を充分伝える喩えで、今でも時々この「ほんわか」なる言葉を思い出します・・・
  (中略)
そんな中、永さんが一番に上げたのが「なぜ訳詩家を若谷和子にしたのか?我々は素晴らしい作詞家(訳詩家)、岩谷時子を持っているのに」と言うものだった。音の韻と言葉の韻があってない、言葉の発想に新鮮な驚きがないと書いてあった。
若谷和子さんは菊田一夫の奥さん方の親戚の人らしいが、この後余り活躍することなく消えた。
現在のマイフェアも訳詩は若谷の詞を滝弘太郎が補綴して使っている。


※画像は昭和40年和製ミュージカル「芸者春駒」


LP「芸者音頭 チエミと歌えば」より...名唱「木場の娘」




コメント(6)

江利チエミのマイ・フェア・レディの続編...
文章長くてすいません!!

画像は「アニーよ銃をとれ」パンフ...
この作品にチエミさんから口説かれてしぶしぶ出演したのは「宝田明」さん。のちに日本を代表するミュージカル俳優となります。
口説かれて出演した「宝田明」さんだそうですが、適役でしたネ!
文化庁主催の、日本全国公演「マイフェアレディ」も、イライザの
雪村いづみ、ヒギンズの宝田明そして益田キートンのコンビも各地
満員でしたネ!
この記事を不愉快と感じた方があるかと存じます。30年代後半の複数の記述を元にあくまで江利さんのコミュニティなので彼女中心に文章を作っておりますのでご容赦願います。
どうも文章が長いだけで... 真意が伝わらない駄文になってしまっているようです。
次の次のトピック「江利チエミを晩年まで支えた...」を読んでいただければ私の言いたかったことが伝わるかと... と書き込みましたが、これがまた長い...
よかったら読んでやってください。
数年前にオークションでマイ・フェア・レディのパンフレットを手に入れましたら、そこには森繁さんのヒギンズ教授がにこやかに写ってました。
高島さんはフレディ役。
 
高島さんのフレディでよかったのだと思います。
爆笑ミュージカル!...とうたって広告したり...
ほんとうに「マイフェアレディ号」は沈没寸前状態で出航したようです。
しかし...チエミさんはじめいろいろ叩かれたスタートでしたが「興業的に当てた」...良し悪しはともかくこれが日本のブロードウェーミュージカルの船出ができた!貴重な出来事...だったと思います。

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