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江利チエミコミュの江利チエミさんを晩年まで支えたアレンジャー(再び、マイ・フェア・レディ/キス・ミー・ケイトのことなど)

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筒井先生の著「青春の志は作曲家(1989/10/21 世界文化社)」。
その著書は江利チエミさんへの愛情溢れるエピソードが満載されています。その中から興味深い部分を抜粋、引用しご紹介します。

筒井広志先生...
1935年東京生まれ。慶応大学卒業。
作曲を広瀬健次郎氏に師事。舞台(宝塚・新宿コマ・日劇など)テレビ、CMで活躍する人気作曲家・・・

◆『本物の歌手』の章より・・・
チエミさんと筒井先生とのはじめての出会いは、筒井さんが学生バンドのメンバーだった際に、東映のパーティで江利チエミさんの伴奏をするタイミングに巡り合ったときだったと。
このときが高倉健さんとチエミさんの初デートの日だったそうです。
その後、広瀬さんの鞄持ちとなった筒井さんは何度か顔はあわせたのだとか。
しかし江利チエミさんの記憶にとどめるようなかかわりはなかった。
その後、アニーよ銃をとれ(39年)筒井氏は音楽を担当するも「話し合う」ほどの距離にはいたらなかった。
しかし、それから3月後、運命的な本当の出逢いを果たすのです。
TBS「チエミ大いに歌う」のアレンジを、師匠の広瀬氏から「内緒で代打としてやってくれ」と頼まれたことによります。

録音の当日、指揮も「お前がヤレ」と・・・
楽曲は、「ブルースカイ」「恋人よ我に帰れ」などのスタンダードだったとか。
しかし・・・
一度通し練習をしても江利チエミは黙って聴くだけで歌わない。
周囲は神経を尖らせる・・・
二度目・・・やはり江利チエミは歌わない。
そしてスタッフに江利チエミさんは、「広瀬健次郎の音じゃない。」と。。。
スタッフは筒井さんに詰問します。
しかし筒井さんは師匠を裏切れない・・・
そこへチエミさんが「いいわ!録音始めましょう」と。
(当時歌番組は録音は別録で本番はクチパクでした。アセテート盤などのデモ盤にあわせるというケースもあったですが、チエミ大いに・・・はオーケストラがスタンバイしてその番組用に録音をしたそうです。)

翌日、チエミさんは広瀬さんに電話を・・・
広瀬氏は「弟子に代役をさせたこと」を白状します。
するとすぐに江利チエミのマネージャーですという男性からチエミがアナタに逢いたいといっている・・・と電話がかかります。
2日後の正午過ぎ、待ち合わせの青山の喫茶店にタクシーでたったひとり、江利チエミさんが現れます。
すぐにチエミさんは「迷惑じゃなければあなたの家に行くワ。作曲家さんだからピアノぐらいあるでしょ?」と・・・
書斎で一服したあと、江利チエミは急に音楽家の顔に・・・
「まずわたしのフィーリングで歌ってみるから聴いて頂戴」と沖縄民謡の「西武門節(にしんじょうぶし...著作は西門武と誤表記)」を眼を閉じ、呼吸を整えてから歌いだします。
無伴奏。ただひざの上においた手の指先でリズムをとり、ゆったりと自然に・・・
そしてそこに筒井さんがピアノを合わせていきます。何度も何度も・・・
話し合い、歌いなおし、弾きなおし・・・四つに組んでの真剣勝負。

>このとき、ぼくは初めて本物の歌手に巡り逢えたのだとさえ感じた。
これがぼくと江利チエミちゃんとの長い付き合いの始りになる。

翌週から『チエミ大いに歌う』は、筒井広志さんの仕事となるのです。
※この番組は昭和40年4月から11月までのTBSテレビのレギュラー番組でした。

※西武門節
沖縄の古い沖縄民謡。
歌詞は辻遊郭の娼妓と首里のサムレー(侍)との情歌。
 男 イチュンドヤー(もう行くよ)カナシ(哀し:愛しい人という意)
 女 マチミソーリー(お待ちください)サトゥメー(里前:恋人の二人称、注1)
   ニシンジョウ(西武門)ヌ(までの)エーダーヤ(間は)
   ウトゥムサビラ(お供しましょう)
以上が一番の歌詞。7番まで続き、ひたすら別れを惜しむ。
>西武門、ウチナーグチ(沖縄口)の発音でいうニシンジョウは、現在も、物理的には残っていないが、人々の意識の中にはあり、西武門交差点とか西武門交番として名が残されている。『沖縄大百科事典』による西武門の記述。「久米村(注1)を東西に二分する久米村大通りの北口付近をいう。南口は現在の泉崎橋陸橋付近にあたり、久米村大門(ウフジョー)と称された。南北にのびる久米村大通りは竜身にたとえられ、竜頭は大門、竜尾は北口の北門とされた。西武門は北門(ニシジョー)の意。現行の那覇市久米2丁目にあたる。」とある。その西武門は、辻遊郭の入口であった。
>女は辻遊郭のジュリ。ジュリは尾類と書き、遊女、娼妓を指す沖縄の言葉。『沖縄大百科事典』による記述では「ジュリは紹介者のいない振りの客(注2)や、嫌な客は断ることができ、一夜に一人の相手をして手作りの料理でもてなすなど、他の遊郭には見られない雰囲気を持っていた。」とある。
一夜だけでも互いに心を通わせていたのだ。だから、客も身元のしっかりした人でなければならず、女も心を通わすことができないような嫌な客は断ることができた。一度引き受けた客ならば自分の大切な人と思い、一夜をもてなしたのだ。

注1、男の恋人をサトゥ(里)と呼ぶ。サトゥメー(里前)と前が付くとさらに丁寧な言い方になる。文語、主に琉歌の中で使われる言葉。詳細はいずれ別項で。
注2、振りの客:紹介者のいない初めての客。京都などでよく聞く「一見さん」と同じような意味。広辞苑によると、振りは「(通りすがりで)なじみでないこと。」とあり、一見は「初対面。もと、遊里で、その遊女に初めてあうこと」とある。

辻遊郭の歴史を『沖縄大百科事典』から抜粋。
>薩摩進入(1609年)後、貢租の取立てが厳しくなって、農村の貧困家庭の娘が身売りをする例が多くなり、私娼が増えたため、1672年、摂政、羽地朝秀によって、辻・仲島の遊郭がつくられた。昭和10年代まで、辻は沖縄の社交の中心であり、政財界の要人、教育界の指導者、商工業、農漁村にいたるあらゆる階層の男たちの出入する場所であり、料理屋、宿泊所として栄えた売春と遊興の地だった。
明治30年代の新聞には遊女の数は約900人とある。1908年、仲島、渡地が辻に合併。以後、辻は唯一の遊郭となったが、44年10.10空襲で消失。270年の歴史を閉じた。

西武門は、今、沖縄唯一のモノレール「旭橋」の近くです。
そこから東シナ海方向に歩いて・・・辻は住所表示にも残っています。

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◆ある若手作曲家と筒井さんは一緒に江利チエミさんのコンサートの仕事をしたことがあったそうです。
その人は6曲、筒井さんが10曲。
リハの時「わるいけど、私と話し合ったイメージをひとつも理解してくれてないじゃないの」と、その総てをボツに・・・
結局筒井さんが6曲を書き直すことに。
チエミさんとの仕事は・・・
>常に緊張の解けることがなかったのも事実だった。 と記述されています。

◆筒井さんはある新人歌手のために、生涯一度「歌謡曲みたいな曲を作曲してキングレコードに連れて行った」そうです。
その娘さんは結局オーディションに落選します。
しかし、そのときの曲をチエミさんは耳にし、大変気に入ります。
あとにも先にも1曲だけ、筒井さんが書いた歌謡曲・・・それが「この雨に濡れて」だったそうです。 
筒井先生の楽曲は「それほど江利チエミと相性がよい」と言えるのかも知れません。

◆『災難続きだった天才歌手』 より

>ミュージカル・キスミーケイトの直後彼女は突然喉をいためて声が出なくなった。
・・・手術、そして辛抱強いリハビリの後、やっと声を取り戻したチエミちゃんだったが、やはり以前に比べて彼女の歌からパワーが減少してしまったことは否定できない。
>「ねえ ヒロシ。どうしても喉をかばってしまうのよね。思い切って声を出すのが怖くって、小手先の小細工で歌を誤魔化そうとする自分が情けなくて」・・・
(チエミさんはこう語ったのだそうです。筒井さんの著作はこう続きます。)
>自分で判っているのだ。でもどうすることもできない。少し歌うだけで喉に痛みを覚えるといっては、辛そうに嗽(うがい)をする。そんな彼女に、ぼくだって慰めようがない。

※「‘夜のヒットスタジオ’でこの雨に濡れてをいづみさんに国際電話しながら歌ったときに、チエミさんが涙を流した」というエピソードをマイミクtwigさんから教えていただきました。
いづみさんは原田ターボーさんと再婚し昭和41〜45年はずっとアメリカに暮らしています。
ゆえに「歌手/江利チエミの受難」を傍では見ていなかった。
チエミさん---いづみさんは、親友であるけれどライバルでもある。
この雨に濡れては、昭和44年の作品。ポリープの手術の翌年です。
江利チエミさんの胸中は「複雑」であった...と思います。



筒井先生とチエミさんの仕事はチエミさんの亡くなるまで続きました。
それは亡くなる直前(3〜4ケ月前)のこと、筒井さんチエミさんとは北海道への演奏旅行にでます。
「ヒロシの棒で歌いたい。一度ぐらい棒ふったっていいじゃない!」...このリクエストに筒井先生は応えます。
江利チエミコンサートでタクトを初めて筒井さんは振ったのです。
地元のクロ服のおアニイさんに丁重に出迎えられて警護もされた...といったエピソードも描かれています。

そして年はあけ、2月13日がやってきます...
とるものもとりあえず筒井先生は奥様とチエミさんの泉岳寺のマンションに向かいます。
そしてチエミさんのご家族とずっと仮通夜、本通夜、仮告別式を一緒に過ごします。
あわただしい3日間を過ごしたあと、奥さんを自宅に戻してひとり筒井先生は新宿に飲みにでかけます。
バーにはいり、少しキザかなと躊躇しつつチエミさんの分と2杯の水割りを注文。チエミさんに「ま、ともかく一杯いこうよ」と心の中でつぶやくと、これまで一滴の涙もこぼさなかったものが堰を切ったように溢れ出します。
トイレに駆け込み嗚咽が表に漏れるのではと心配なほどに号泣したのだそうです。

先生の著書「青春の志は音楽家」はこのくだりで締めくくられています。
57年3月3日、増上寺「江利チエミ・音楽葬」の場面です。

>家族の胸に抱かれたチエミちゃんの位牌、遺影、遺骨が本堂をでた。
シャープス・アンド・フラッツの演奏する曲名は「There is no business like show business」。あのミュージカル・ナンバー「ショウほど素敵な商売はない」です。
そうですよ!
チエミちゃんには「葬送行進曲」なんか似合わない。最後までハッピーに、にぎやかに、「ショウほど素敵な商売はないもんね!」と歌い上げてもらわなくちゃ。
その時、沿道を埋め尽くしたファンのなかから声がとんだ。
  「チエミ!」
    「日本一!」
       「大統領!」
父親が歩みを止め、そして、その声がとんだ方に向けて静かに一礼した。
チエミちゃんの遺影が、そのとき、にっこりして「ありがとね!」と、言ったように思えた。
 いや、確かに言った。
 確かにぼくはその声を聴いた。
 戦後の日本を代表する天才的なスターの、これが最後のカーテンコールだった。

                           -完-

合唱団TERRAさんHPより...
再び、筒井広志先生のことを引用します。
>慶応義塾大学卒業後、作曲家広瀬健次郎に師事。翌年より旧日劇、東宝歌舞伎、宝塚劇場、松竹劇場等の作曲担当。その後、テレビ・ラジオ・映画音楽・CMソング等の作曲で幅広く活躍。
1970年アメリカ・ロスアラモス芸術院主催の国際作曲コンクールにて第2位受賞。これと平行して故江利チエミの専属音楽監督として活躍。1981年小説家としても、処女作「我等が宇宙永遠に平和なれ」を始め、「オレの好きなワタシ(新潮社)」等多くの小説を出版。1985年TVドラマ「例えばこんなメロドラマ」の原作・シナリオ・作曲で放送ギャラクシー賞受賞。
1989年音楽座ミュージカル「シャボン玉とんだ宇宙までとんだ」の原作・作曲・編曲により、文化庁の優秀舞台芸術賞、移動芸術賞等を受賞。1990年同じく音楽座ミュージカル「とってもゴースト」の原作、総監督により、文化庁芸術祭舞台部門芸術賞受賞。最近作は、劇団「目覚まし時計」のミュージカル「ファーブルの昆虫記」など。
(中略)
多才な才能を持ちながら、64才の若さで亡くなられた 筒井広志さんの死を悼み、ご冥福を祈りたい。

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江利チエミに終生付き添った音楽家、最高のパートナーは親友・戦友でもあった筒井先生であったといえるのではないでしょうか。
出逢った時期がもう少し早かったら...
 もっと早くにスター・江利チエミと筒井先生との距離感がなくなっていたなら...
真剣勝負、四つに組んだ間柄なら喉の故障も引き起こさなかったのでは...

「ミュージカル」で無理をしなくて済んだのでは...
マイフェアレディ...東宝は爆笑ミュージカル!とサブタイトルをつけて宣伝をしました。切符を売るのに必死だったのです。
当時歌手としてこれもパイオニアであった連続ホーム・ドラマにも主演していたジャズ出身だけど民謡も歌うファン層の広い庶民派スター「江利チエミ」の人気を利用し「敷居の低いものだよ!」と世間にまず知らしめる...チエミさんは利用された部分があったと思います。
 チエミさんのサービス精神、芸人気質が... 結果として喉を壊してしまう...といった最悪のシナリオへと進んでいってしまったことが悔やまれてならないのです。劇中歌としてチエミさんらしい楽曲を歌う音楽劇ではいかんなく力量を発揮できても、チエミさんの声質は決して「いわゆるクラッシック要素の強いミュージカル」向き...ではなかった。

チエミさんと筒井先生がもっと前に出会えていたら、歌手/江利チエミの人生はまったく違ったものになっていたように思えます。

今となっては、チエミさん、筒井先生よ安らかに!...と祈ることしかできません。

※トップ画像はキス・ミー・ケイト



コメント(1)

筒井先生の師匠、広瀬健次郎先生...
この人は雪村いづみさんが歌手になるきっかけとなったダンスホールでバンドマンをしたいたという経歴もある名アレンジャーで、どうもビクターと契約していた時期に「牧次郎」「J牧」の名でキングのチエミさんのレコードのアレンジをされていたようです。

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