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ニール・ヤングコミュのニール・ヤングのトロント時代

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ニール・ヤングのトロント時代のグループ、マイナ・バードに関して、saoriさんがを先日日記で紹介されました( http://mixi.jp/view_diary.pl?id=290488157&owner_id=2156487 )。

トロント・スター紙のジョン・ゴダード記者が昨年11月12日、ニールの誕生日に書いたニール・ヤングのトロント時代記事に特に興味が沸きました。 40年前にニールが住んでいたトロントと今のトロントとは違った世界です。

ニールがさまよったヨークビル通りにはその頃のコーヒーハウス、フォークカフェはもうありません。 今では高級ホテル、フォーシーズンズとブランド品のブティックが同じ場所に並んでいます。 

ゴダード記者の記事を参考に当時と今のニールに関わりのあるトロントの場所を綴ってみました。


1. エグリントン・アベニュとマウント・プレザント・ロード付近
ニールの父、スコット氏は自伝の「ニールと私」の中でニールは1945年2月4日、トロントの大吹雪の夜に「受胎」したと書いています。 スコット氏は海軍に任務していましたがたまたま当時3歳だった長男、ラシー夫人と共にトロントの友人に食事に誘われました。

しかしその夜大吹雪になり帰ることができず、彼の家に泊めてもらうことになりました。 スコット夫婦は20代半ば、その日まで一年間殆ど会っていませんでした。 

「とにかくなるべく静かにと努力しました」とその夜のことをスコット氏は書いています。(スコットの父親、スコット・ヤング氏は後にトロントで発行しているカナダ全国紙「The Globe And Mail]紙の著名なコラムニストになりました。特に当時のトロントのアイス・ホッケーチーム、メープル・リーフスに関するコラム、そしてCBCテレビ中継の「ホッケー・ナイト・イン・カナダ」の試合解説などでも活躍しました)。

この地域は今でも静かな住宅地域です。


2. トロント・ジェネラル総合病院 (585 ユニヴァーシティ・アベニュー)
ニールは1945年11月12日にジェネラル病院で生まれました。 「黒い髪が一杯」はスコット氏の最初の印象でした

ニールの生まれた病院棟はもう存在しませんがトロントジェネラル病院は市内最大の病院で今も同じ場所にあります。


3. 315(前335)ブルック・アベニュー
ニールが幼い頃にトロントで過ごした家は一階建て、3ベッドルームの小さな家でした。 「彼の部屋にはレコードプレイヤーかラジオがあり、まだ自分で立てない頃からディキシーランド・ジャズの音楽に合わせてよく踊っていたよ。体がリズムに乗って動くようでした」(スコット氏)

この場所には今大きな家が建ちその頃の家はもうありません。


4.トロント小児科病院 (555 ユニヴァーシティ・アベニュー)
1951年にはヤング一家はトロントから100キロ離れた当時人口750人の小さな村オメミーに住んでいました。 ある晩スコット氏は突然ニールのベッドルームからの苦痛の叫び声で目を覚ましました。 「どうしたんだ?」とスコット氏が聞いたところ、ニールが「背中が痛い」とだけ答えました。 

次の日は雷、大雨となりましたが家族でトロントまで車で行き医者に診てもらったところ、小児麻痺の診断がでました。 

次の2,3日間は苦しみの連続でしたが、ニールは命だけはとりとめました。 しかしこの病気はニールに一生つきまとうこととなります。

「After the Gold Rush(1970)とHarvest(1972)の2年間、ずっと病院に入ったり出たりしていたよ」(ローリングストーン誌インタビュー)
「僕の体の片面は弱かったんだ。 ヘルニアになってしまう。ギターは持てない。補強ブレースを着ても、一日4時間立っていられるのがやっとだった。 医者は車イスの話をするし、結局手術をして椎間板を取り出してもらったんだ」。

カナダ最大の小児科病院、トロント小児科病院は今もこの場所にあります。 ちなみにこの付近はトロントの病院地域で大きな病院が並んでいます。 病院と病院の間は地下のプロムネードで行き来ができ、トロントの冬には便利です


5. 133 ロス・パーク・ドライブ (トロント)
ニールが8歳のとき、1954年の夏、ヤング家族はトロントの閑静としたムーア・パーク地域に引っ越しました。 ニールと兄は近くのウィトニー小学校に通いました。 オメニーの町からトロントへの引越しは家族にとっての新しいスタートとなるはずでした。 

スコット氏は外出が多く、実は浮気もしていました。 離婚も考えましたが、家族のことを思い断念したのです。 この頃スコット氏は初の小説「洪水」を書いています。 この物語は洪水に遭った男が自分の子供ではなく、人妻に愛を求めるという筋でした。


6. 49 オールド・オーチャード・グローヴ(トロント)
ヤング一家は1955年から58年にトロント近郊ピッカリング(トロントの東40キロ)に移り、その後ニールが13歳のときにトロントに戻りました。 ニールは近くのジョン・ワンレス中学校の1年生に入学しました。 

この頃ニールは音楽に興味を持ち始めトロントのポップラジオ局CHUM(1050AM)とか受信状態が良いときにはアメリカ南部のラジオ局を聞き始めました。

「何が流行っているのか分かり始めたんだ。 どんな曲を弾きたいとか好きだとかが分かってきたんだ。 シャンテルズのメイビー、ショート・ファット・ファニー、エルビス・プレスリー、ラリー・ウィリアムス、チャック・ベリーが最初に聞いた音楽だった。 ラジオを聞きながら、よくそのまま寝てしまったよ。 本当に楽しかったな。」(ロック・ジャーナリストのキャメロン・クロー氏とのインタビュー)。

ニールが弾き始めた楽器はプラスティク製のウクレレでした。
「最初に基本の3コードを覚えた。 ブルースの基本的なアイデアだよ。 Gで初めて、Cに進むそしてDで終える。はじめはもちろん自学。それから他の人から色々覚えていったんだ」(イギリスのロックジャーナリスト、ニック・ケント氏とのインタビュー)

トロントのAM放送局1050khz、CHUM局は当時カナダで最も人気の高い放送局でした。 今でも60年、70年代音楽専門ですが低迷しています。
  

7. レストラン 「チコーネズ・ダイニング・ルーム」 (601 キング・ストリート・ウェスト)
ヤング一家はこのレストランでよく食事をしたそうです。1959年の9月、ニールの兄ボブが17歳、ニールは未だ13歳の時にスコット氏はこのレストランで家族に家を出ること伝えたのでした。 仕事中にカナダ西部で報道関係のある女性と出会い家族を捨て新しい人生を始める決断をしました。

ニールの子供の頃の思いでは、彼の曲にも表れています。 「Helpless, helpless, helpless」とニールは自分の無力さをクロスビー、スティルス・アンド・ナッシュの曲で唄っています。

「彼の音楽には何とも言えないわびしさ、孤独感が秘められているんです」と母親のラシーさんは語っています。「よく思ったんですけど、自分の作曲した曲を弾き始めるときに彼の顔が急に喜びのように明るくなるんです。 でも曲自身は本当に悲
しくて私には涙がでます。」

このレストランはありませんが、高級イタリアンレストラン「スールスール」が今この場所にあります。


8. ザ・ナイト・オウル (102 アベニュー・ロード)
スコット氏が家を去ってから一年後、ニールはトロントのローレンス・パーク・カレジェイト高校の1年生のとき、母親ラシーさんと共にマニトバ州ウイニペッグ市に移りました。 彼はウィニペッグでは学校のバンドでギターの演奏をしたりしました。 

その後オンタリオ州北部のフォート・ウィリアム市、サンダーベイ市などを経て1965年の6月にロック・ミュージシャンとしての夢を叶えるために再びトロントに戻って来るのです。

無一文、ギターだけを抱えながらトロントの当時のヒッピー地域ヨークビル通りのアパートをホームレスのように淡々と歩き回る日が続きました。 ミュージシャンとしての出世どころか、生きていくのが精一杯の毎日だったのです。

1974年のアルバム「オン・ザ・ビーチ」の「アンビュレンス・ブルース」で彼はこう唄っています。
「Well, I'm up in T.O. keeping jive alive and out on the corner it's half past five」 (トロントで弾きつづけて、振り向いたら5時半になっていた)

「この頃が俺の内向きな音楽の始まりといえるかもしれないな。 ギター片手に一人でさまよっていた時代だよ」(ニック・ケント氏とのインタビュー)

このザ・ナイト・オウルのコヒーハウスではロック歴史に残る小さな出会いがありました。 ニールは2階のアパートをフォークシンガー、ビッキー・テイラーさんから借りたのです。 彼女はここでジョン・ケーと住んでいましたが、彼が出て行ってしまったので貸すことにしたのです。 

ジョン・ケーはその後、ステップンウォルフのリード歌手として有名になりました。 「俺が残り物を取りに、1週間後アパートに戻ったらウィニペッグから来た歌手のニール・ヤングがいたんだ。 彼のギターを弾いて、音楽の話をしたのを覚えている」(ジョン・ケー自叙伝「マジック・カーペット・ライド」)


9. ザ・マイナ・バード・クラブ (114 ヨークビル・アベニュー)

マイナ・バードのクラブオーナーが話題を呼ぶために結成されたバンドがマイナ・バードでした。ニールはこのグループに1966年の一月にリード・ギタリストとして加わりました。 リード歌手はリッキー・ジェームス・マティユーズ、後のリック・ジェームスでした(1981年のヒット曲「スーパーフリーク」でよく知られています)

「二ールが最初のギターソロで興奮しすぎてステージからギターごと飛び降り、アンプのコードが外れてしまった。 誰も彼のソロは聞けなかったよ」(リック・ジェームス、ローリング・ストんーン誌のインタビュー)

当時カナダ最大のデパートチェーン、イートンズのオーナー、ジョン・クレイグ・イートン氏がバンドのスポンサーになり金持ちのパーティなどでのライブをしたりして楽器を買うためにとクレジットカードも発行してもらい、ニールの生活も楽になり始めたつかのま、ジェームスがアメリカで脱走兵とし逮捕されてしまったのです。 マイナ・バードのメンバーがモータウン・レコードとの契約のためにデトロイトに行ったときのことでした。

マイナ・バード・クラブの正面ドアーを入った所に確か鳥かごの中に黒い烏がいたような記憶があります。 マイナ・バードは人、動物の声などをよく真似る鳥です。 現在マイナ・バード・クラブのあった場所にIMA GALLERYと言う画廊があります。


10. ザ・セラー・クラブ (169 アベニュー・ロード)
マイナ・バードの解散後、ニールはバンドのブルース・パルマー(後のバッファロー・スプリングフィールドのベースプレイヤー)とこのジャズクラブで出会い次の計画を練りました。

パルマーはカナダのノバスコシア州で1946年に生まれ、トロントで育ちました。 バンドのマイナ・バードに入る前にはトロントのサイケデリックバンド、ジャック・ロンドンとスパローズのメンバーでした(このバンドが後にステップンウォルフとグループ名を変えました)。 

マイナ・バードのメンバーに入ってしばらくしたある日、パルマーはトロントのヤング通りでアンプを抱えて歩いている男に出会いました。 その男がニールだったのです。 パルマーはニールをマイナ・バードに誘ったのがニールの実の音楽人生の始まりでした。 ニールにとってパルマーはギターの達人でした。

ニールはバンド解散後8ヵ月半、一度もライブができず、新しい出発点を探していたのです。 「もうここから出ようぜ」、ニールはブルースに言いました。 「どうするんだよ」とブルースは聞きました。 「全て売って車を買い、ロスアンゼルスに行こう」。

彼らは楽器を売り、中古の1953年製ポンティアックの霊柩車を買いロスアンジェルスに向かったのです。 

この場所には現在トロント・ドミニオン・カナダ・トラスト銀行の支店があります。


11.ロス・アンジェルスでのバッファロー・スプリングフィールド時代

ロスアンジェルスでニールに又「偶然の出会い」が起こるのです。 金も無く、大陸横断で疲れ果てた二人はサンセット・ブルバード通りで渋滞に遭い動きもとれずトロントに帰ろうと考えていました。 そのとき後ろから彼らの車を目指して走ってくる男がいました。 

それがスティーブン・スティルスでした。 スティルスは後のバッファロー・スプリングフィールドのメンバー、リッチー・フューレイとニューヨークのクラブ、カフェ・ゴー・ゴーでハウスバンドのオー・ゴー・ゴーのシンガーとして活躍していました。 

しかし二人は米西海岸で新しいグループを結成しようとロスアンジェルスに来たのですが、いいメンバーが見つからず困っていたのです。 

「ニールとはオンタリオ州北部の町、サンダーベイで会ったことがあった。 俺はマサチューセッツ州ケンブリッジからのフォークバンド、彼は彼のバンドでグレッシュギターを弾きフョークミュージックをやっていた。 アメリカに来て一緒にやろうとビザの手続きまでしたんだけど、結局彼は”トロントのボブ・ディラン”になりたかったようだった」。

「ニールはグレッシュのギターが好きで、スプリングフィールドのギターサウンドと言えば彼のグレッシュ、リッチーのエピフォーンとブルースのフェンダーだった」。

「サンダーベイ市でも、ポンティアックではないけれどやはり黒の霊柩車を運転していたんだ。 サンセット通りで、黒の霊柩車、それもオンタリオ州の車のプレートを見たときに、間違いなくニールだと思ったよ」とスティルスは当時のことを語っています。

出会いより3日後に4人はカナダ・オタワ市出身の元ディラーズのドラマー、デューイ・マーティンと共に「ザ・ハード」を結成、後にグループ名をアスファルトフィニッシャ車の名前から「バッファロー・スプリングフィールド」と改名しました。 バッファロー・スプリングフィールドはロスアンジェルスのウィスキー・ア・ゴー・ゴーのハウスバンドとなり当時全米人気ナンバーワンだったバーズと共にツアーをするなど一躍有名になり、アトランティックレコード社のアトコラベルからデビュー、スティルスが作曲したプロテスト曲「フォー・ホワット・イッツ・ワース」が全米トップ10に入るなど、音楽評論家よりも絶賛されましたが成功は長続きしませんでした。

メンバーはギターとリードシンガーにニール、スティルスとフューレイ、ベースにパルマーそしてドラムのマーティンでした。3人の意志の強いリードギター、歌手、作曲家のグループは口論が絶えず次のアルバムのレコーディングも共にできない状態でした。

スティルスとニールの音楽的な激しい意見の違いが明るみに出て、パルマーは麻薬問題でカナダに帰国しグループは解散寸前までに追い込まれました。、元マザーズ・オブ・インベンションのジム・フィールダーも加わリましたが長続きはしませんでした(フィールダーは後にグループ、ブラッド・スェット・ティアーズをアル・クーパーと共に結成しています。 現在は歌手ニール・セダカのバンドのメンバーです)。 

ジム・フィールダーが去った後、プロデューサーのジム・メッシーナがベースを弾くことになりました。 この頃にはニールが突然消え去ることも多く、ライブでは元デイリー・フラシュのダグ・へースティングズかバーズのデビッド・クロスビーがニールの変わりにギターを弾くことがしばしばありました。

1968年スプリングフィールド解散後、メッシーナはリッチー・フューレイとランディ・メイセナー(後のイーグルズ)とフォークロックグループ「ポコ」を結成、その後にはケニー・ロギンズと共に「ロギンズとメッシーナ」としてもツアー、音楽活動を現在に至るまで続けています。 

スティルスは元バーズのデビッド・クロスビー、元ホリーズのグレアム・ナシュとクロスビー、スティルス&ナッシュ(CS&N)として一躍有名になりました。 デューイ・マーティンは何度かバッファロー・スプリングフィールドと似たグループ名を使いカムバックを試みましたが、失敗に終わっています(他のメンバーが同名の使用を許しませんでした)。 

パルマーは2004年10月1日にトロント近郊で心臓マヒで亡くなりました。 麻薬所有でアメリカから追放され、バッファロー・スプリングフィールドを去り、麻薬中毒と酒の飲みすぎで一生苦しんだ人生でした。
 
バッファロー・スプリングフィールドは短期の存在にもかかわらず、そのロック界に残した影響を称えられ1997年正式にロックン・ロールの殿堂入りをしました。


12. ザ・リバーボート・クラブ (134 ヨークビルアベニュー)

リバーボートは当時カナダで最も有名なフォーククラブで、ニール自身もトロントではすぐ近くに住んでいたのですが、ここで弾くことはありませんでした。 ここでのコンサートは彼がスプリングフィールド後にソロで「ニール・ヤング」のレコードを出した1969年の2月でした。 「彼は軽く高い難病患者の震えるような声で歌う」とトロント・スター紙のロック評論家ジャック・バッテン氏は評価しています。

この場所には現在ザ・へーゼルトン・ホテル・レジデンスと言う高級ホテル、マンションが建っています。


13. マッシイ・ホール (178 ビクトリア・ストリート)

1971年1月19日、25歳のニールはトロントにヒーローとして迎えられました。 前年にはクロスビー、スティルス、ナシュ、ヤングのメンバーの一員として「デジャ・ブ」とクレージーホースとの「アフター・ゴールド・ラシュ」が大ヒット。 コンサートは完売、すぐに新しいコンサートがその夜に加えられるほどでした。 

アメリカに行く前に売った楽器の購入費を取り戻そうと、デパート王のジョン・イートン氏はチケット収入を裁判所に取り押さえようとしましたが、ニールは全てすぐに支払ったとコメントしています。 「娯楽界の人間を援助するのは、これで最後だ」とイートン氏語っていました。

マッシー・ホールはイートン氏の本店デパートがあったイートンセンターから歩いて数分の場所にあるトロント交響楽団の元コンサートホールでした(現在ト響はローイ・トンプソンホールに移動しました)。 

小澤征爾氏がトロント響の指揮者であった頃はここが本拠地だったわけです。 クラシックからロックまで今も使用されています。


14. メープル・リーフス・ガーデンズ (60 カールトン・ストリート)

「ハーベスト」のアルバムの発売後、1973年1月15日にニールは当時トロント最大のコンサート場、メープル・リーフス・ガーデンズでライブをすることになりました。 トロントからのロックミュージシャンとして始めて18、000人収容のメープル・ガーデンズを完売したのです。 

当時メープル・ガーデンズはトロントのナショナル・ホッキー・リーグ(NHL)のチーム、メープル・リーフスの本拠地でした。 未だNHL6チーム時代、メープル・リーフスはモントリオールのカナディアンと共にカナダのチームとして活躍しており、メープル・ガーデンズでのコンサートはトロントで、カナダで最高の地位に達したと考えても言い過ぎではないでしょう。

ニールにとってカナダの大草原地域マニトバ州は彼の心のホームなのかも知れません。 彼の両親の両親、そしてその両親が住んでいた場所です。 プライリー・ウィンド(大草原の風)のアルバムでこう歌っています。 「バッファローが放浪する大草原に俺の骨を埋めて欲しい。 そこは俺の家から遠くはない」。 

ニールは昨年3月に動脈瘤で倒れ、父親スコット氏もアルツハイマー病で亡くなりました。  2005年9月に発売されたプライリー・ウィンドの音楽は自分自身の死とマニトバへの気持ちが強く表れています。 

ニールは現在カリフォルニア州ウッドサイドの牧場に住み、フロリダ州のフォート・ローダデールにも家を持っていますが、以前としてカナダとのつながりは続いています。

昨年7月のライブ8ではトロントの郊外バリー市でカナダのライブ8コンサートでおおぎりを務め、「ロック・イン・ザ・フリーワールド」を歌っています。

ニールが何処にいても、何処へ行っても、ニールが「トロント・ボーイ」だと言うことには変わりはないのです。 彼の人生、音楽を形付けたのはトロントなのですから。 

コメント(11)

Jonosukeさん、ありがとう!素晴らしい記録です。Torontoに行きたくなりました!これらの地を訪ね歩く旅が出来たら素敵だなぁ。その時は助けて下さいね♪
Jonosukeさん、すごい、すごすぎる詳細な記録及び文章力。
単なる記録でなく、行間からJonosukeさんのニールに対する
思い入れを感じます。
ありがとう! Jonosukeさんの愛と魂の記述に感謝と敬服の意を表します。にわかに「ドント・ビー・ディナイド」を聴きたくなりました。
はじめまして。1990年代の前半に、2年ちょっとトロントに住んでました。

当時は漠然と、「この街にニール・ヤングやロビー・ロバートソンなんかがいたんだな…」と感慨にふけってましたが……

ここでトロントの懐かしい地名と二ールのストーリーが結びついて、感激です。

(自分の記憶に間違いなければ、1990年か91年にメープル・リーフス・ガーデンで二ールのライブを見ました。最高の思い出のひとつ!)
驚き!
こんなに詳細な、、、、
ありがとう!

まだまだ、ニールの人生をトレースしていきたいですね!
皆さん、どうもコメントありがとうございます。

気がついたことをここで追記します。

まずMaple Leafs Gardens。

建物は残っていますが、いま何にも使用されていません。 
一時スーパーになるとの噂もありましたが、おそらくマンションに建て替えらることになると思います。

NHL(National Hockey League)ですが、ニールが1973年にメープル・リーフス・ガーデンズでライブをしたときには15チームに拡大していました。


Scott Young

ニールの父親、スコット・ヤングはカナダのマニトバ州のサイプレス・リバーで1918年に生まれました。 彼はウィニペッグのウィニペッグ・フリープレス紙、カナダのカナディアン・プレス通信社を経てトロントのザ・グローブ・アンド・メイル紙のスポーツコラムニストとカナダの公共ネットワ−クCBCテレビのホッケー中継番組の解説者となりました。 スコットは報道記者としてトロントにあるアイス・ホッケーの殿堂入りもしています。

スコットは3度結婚しています。 ニールの母親、Edna (Rassy) Ragland, エドナ(ラシー)ラグランドは彼の一番目の夫人でした。 スコットには7人の子供がいました。エドナとの子はニールと3歳年上のボブです。

ニールの最初の楽器、ウクレレはスコットからニールへのクリスマスプレゼントでした。 ニールの曲「Old Man」は彼がスコットに書いた曲です。


Winnipeg
ウィニペッグ市でニールがケルビン高校に通っていた頃、母親エドナさんはウィニペッグの地元テレビ局のクイズ番組のレギュラーメンバーとして活躍していました。 

ニールは後のカナダのロックグループ、ゲス・フーのメンバー(当時チャド・アレンとザ・エクスプレッションズ)、ランディー・バックマンと会い、ギターを弾く決意をするのです。 1963年にニールはThe Squiresというバンド結成し、ウィニペッグ近辺のダンスパーティなどで活動をはじめました。 あるウィニペッグのラジオ局でインストルメンタルの曲「ザ・サルタン」と「オーロラ」もレコードしました。

バンドは主にビートルズの曲をカバーしていましたが、ニールはボブ・ディランに憧れアコースティックのギターも弾くようになります。 このころ、オンタリオ州の町、サンダーベイまで霊柩車を運転していくようになったのです。 このときたまたま、フォーク・グループ、「カンパニー」のメンバーだったスティブン・スティルスとめぐり会ったのです。

スクアイヤーズは解散前にアメリカかのバーモント州で最後のライブをしました。 ニールはここでリッチー・フューレイと会っているのです。 フューレイはニールの作曲した曲に関心を寄せ、その中の「Nowdays Clancy Can't Even Sing」を自分のレパートリーに入れています。

1965年にニールはトロントに戻り、マイナ・バーズに加わり、翌年の春ロスアンジェルスでスティブン・スティルスとリッチー・フューレイと運命的な再会をするのです。 バッファロー・スプリングフィールズの最初のシングル曲はニール作曲、リッチー・フューレイがリードシンガーの「Clancy」だったのです。


演奏活動

ニールほど多くのアーティストと共演したミュージシャンもいないと思います。 彼のアイドルだったボブ・ディランからパールジャム、レッド・ゼッペリン、CS&N。 ボブ・ディラントリビュートコンサートでのブッカーTとの「All Along The Watchtower」は想像を絶するセットでした。

しかしニールが最も大切にしているのがSaoriさんがよくご存知な恒例のBridge School チャリティコンサートです。 今年で確か20年目です。 Bridge School は身体・精神障害の子供の施設です。 

ニールの二人の子供は小児マヒで日常不自由な生活をしています。 回復はしましたがニール自身も幼い頃に小児マヒになりました。 ニールの人生で一番大切なものは自分が子供の時には経験できなかった家族の愛なのです。

そしてニールは弱い人間の味方ですよね。 彼は最初から「Farm Aid」、「LiveAid]のチャリティーコンサートにも積極的に参加してきました。 弱い者を助けるためにはニールは政治活動に立ち上がることも恐れてはいないのです。

アメリカを素晴らしい国にしたい、ニールは「Living With War」でそう叫んでいるのです。

「Living With War - Raw」のDVD/CDセットが本日、12月19日、アメリカで発売になりました。
Jonosukeさん、

素晴らしいです!私は今年からのNeilファンなので、昔の事を今遡って読んでいます。ずっと追って来られたJonosukeさんの情熱が、文章から伝わります。とってもしみ込んできます。ありがとうございます!

私もNeilの「Shakey」に出てくる交流musicianのCDを聞いています。Bachman Turner Overdriveを自らまた聞くとは、思いも寄りませんでした☆「You Ain't Seen Nothing Yet」はチャート曲として好きだったんですが、こんなかかわりだったんですよね。

RAW、買いました。大感激しています!
はじめまして。
Jonosukeさんのもの凄い量の情報に圧倒されました。また、saoriさんの日記の方で書かれていた事も。ココ迄詳しく記述されているコミュに辿り着いたのは初めてです。感激です。
ありがとうございました。

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