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能村庸一チャンバラ倶楽部コミュのテレビ昔話(48)【田村高廣の死を惜しむ】

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「楽しいわが家」最新号です。遅くなりましたがアップします。

「テレビ昔話(48)能村庸一(時代劇プロデューサー)
【田村高廣の死を惜しむ】

<以下本文>
演技派として知られた俳優田村高廣が亡くなった。七十七歳だった。
父である時代劇の大御所阪東妻三郎が世を去ったのは昭和二十八年、奇しくもテレビが産声をあげた年であった。当時はサラリーマンだった高廣は父が生前長男が俳優になる事を期待していたと知って一念発起。松竹へ入社。父の傑作「破れ太鼓」の監督だった木下恵介に身をあずける形となり、昭和二十九年「女の園」でデビューしている。
当時の作品で筆者は「二十四の瞳」で演じた盲目の若者が強く印象に残っているが、その主演女優で、「女の園」では同郷の恋人役の高峯秀子と、トーク番組でご対面してもらった事がある。恐縮し切った、それでも嬉しそうな顔が忘れられない。その日は結婚記念日という事で花束を贈ったのを覚えている。

筆者自身インタビューの機会を得た事がある。
それは京都映画祭で、阪妻特集のイベントが組まれた時である。その日は打合せの段階からナーバスで、インタビュー内容のダメ出しも厳しかった。偉大なる父を語る事で慎重になっていたようだ。石橋を叩いて渡らずに引き返す、と自ら認める人柄の一端を見る思いがした。それでもVTRが廻ってからは口調も滑らかで、長男ならではの素敵な阪妻論に感動したものだ。
「泥の河」をはじめ幾多の名作を残した田村高廣。紫綬褒章に続いて平成十一年には勲四等旭日小綬章を受章している。

「野菊の如き君なりき」のいろり端での猫背ぎみの後姿が阪妻そっくりと話題になるなど、早くから阪妻二世と云われたが本人はそれを嫌いしばらくはチャンバラを避けていた。が、阪東妻三郎追善記念の松竹映画で初めて剣をとり、桂小五郎役を演じ、高田浩吉、松本幸四郎(先代)、大河内伝次郎らと共演した。しかし、その後も「天の眼」「侍ニッポン」で時代劇出演したが必ずしも成功とは云えず、昭和三十八年フリーとなった。
そのあと大映での一作目「兵隊やくざ」シリーズが大ヒット。勝新太郎の無頼な新兵に対しインテリの上等兵として名コンビぶりを見せ、ブルーリボン助演男優賞を獲得している。
一方で阪妻襲名も幾たびか取り沙汰されたが固辞している。父子とは云え芸風が異なっていたから賢明な判断だったかもしれない。むしろ現代劇にたびたび魅力ある演技を見せた。

時代劇はむしろテレビで本領を発揮したと云えるかもしれない。
中でも筆者の印象に残るのは「仕掛人藤枝梅安」で小林桂樹の相棒を務めた彦次郎役が絶品だった。
筆者が関わったものでは「鬼平犯科帳」の雨乞い庄右衛門役。実に味があって貫禄のある大泥棒で、全作品の中でも傑作の一つとなった。
他にも「闇の狩人」の元締や「雲霧仁左衛門」の安部式部など池波作品が多いのは、原作者がファンだったからで、「剣客商売」の小兵衛を初めて映像化した時も、高廣さんを老けさせたら、と池波氏は強く推していた。その後も田村の小兵衛は企画にのぼったが、諸般の事情で実現しなかったのが惜しまれる。

筆者にとって忘れられないのは「乾いて候」(小池一夫原作)だ。田村正和の腕下主水(かいなげもんど)に大岡越前役で田村亮、そして田村高廣が吉宗で付きあい、三兄弟の共演が実現したのだ。中で田村高廣の吉宗は飄々とした演技でドラマを豊かなものにしてくれた。
田村正和はマスコミへの悲しみのコメントをこう結ぶ。
「兄貴のお陰で、今の私が有ります。通夜の日、兄貴の顔は、とても安らかでした。親父とお袋のもとで、ゆっくりやすんで下さい。気持のまま……」
それにしても惜しい俳優を失ったものだ。

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