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能村庸一チャンバラ倶楽部コミュのテレビ昔話(65)【大河ドラマの草分け】

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「楽しいわが家」アップします。2008.1月号です。
2007.12月号は手に入りませんでした。ごめんなさい。

「テレビ昔話(64)能村庸一(時代劇プロデューサー)
【大河ドラマの草分け】

 大河ドラマの第一号「花の生涯」を作った合川明氏と十数年ぶりにお会いした。
 「私にあの番組を作れと命令した当時の芸能局長長沢泰治さんは健在ですよ。96歳で未だに当時の仲間が集まってマージャンするんです。」
 そう語る合川氏も82歳。もうあれから45年にもなろうとしている。事実は、プロデューサーといっても、弁当の手配まで何でもやらされ、残業が多すぎて問題になったと云う。
 「映画もやれないような豪華キャストの大型ドラマを作れ」という局長の大胆な発言は、テレビのドラマがマイナーな状態であると感じてのものらしい。それもそのはず、映画各社の五社協定が生きていた昭和38年の話だ。映画大スターをテレビに出すのは無理とされていた。
 「最初、『忠臣蔵』はどうだ、って言われましてね。そんなの出来ないと言っていろんな作品を読みあさった結果、『花の生涯』に決めたんです。舟橋聖一の新しい歴史感にひかれまして……」

 「忠臣蔵」は第二作目に「赤穂浪士」(大仏次郎作)が作られることになるのだが、「花の生涯」は北條誠の脚本で原作に添って作られる事となった。問題はキャスティング。「京マチ子はどうだ。八重ちゃん(初代水谷八重子)やデコちゃん(高峯秀子)は出せないのか」と、元々芸能畑でなかった長沢局長は自分の知っているスターの名を挙げてくる。でも局長の親分肌に惹かれた合川氏はキャスティングに取り組んだ。歌舞伎界や東京映画など五社協定の影響下にないところから尾上松緑、淡島千景、香川京子らが決まった。中でも淡島の村山たか役はそれ以前に映画で同じ役を演じ、原作者に気に入られていた事からスンナリ決まったと云う。

 問題は長野主膳役。佐田啓二をなんとか、と方針を決めたもののどうやって口説いたものか。佐田啓二といえば当時松竹映画のトップスターである。それでも若き合川明は勇を振るって佐田家の豪邸を訪れる。小津(安二郎)作品の撮影から帰ってくる佐田啓二を待って企画書を渡した。それからしばらくは合川明の佐田詣でが続いた。仕事から帰ってくるのを待つ間、幼稚園児だった長男(中井貴一)の遊び相手になったりもした。
 親しくなるにつれて銀座のバーで高価なお酒を飲ませてくれたりしたものの肝心な仕事の方はそれっきり。痺れを切らし、「諦めましたから、企画書を返して下さい」と言ったところ、「ちょっと待て」という話になり、やがてOKが出た時の嬉しさはたとえようもなかったと云う。

 昭和27年ラジオ局に入ったはずがテレビに回され、海のものとも山のものとも知れないメディアの黎明を体験した事は忙しかったが貴重な経験だったと語る合川氏。残っているVTRは第一話と桜田門の場面の一部だけ。「当時はVTRドラマが軌道に乗ったばかりで編集も大変。高価だから消せと言われて……」。だが、その「桜田門外の変」の撮影では京都の東映城をAD大原誠が頼み込んだ末漸く借りる事が出来た。「最初は映画人達にテレビの録画がどんな目で見られるか不安でしたが、しまいには見ていたカツドウ屋さんが手伝ってくれました。あれは嬉しかったですね」
 ある人はあれはテレビが映画界に突きつけた出生証明書みたいなものだと語っている。
 視聴率は驚異的な数字。NHKの集金人は日曜八時をめがけて訪問した。「NHKは見ないなどとは言わせない」という訳。そして第二回の「赤穂浪士」は更にカロリーアップ。だが「札束番組」の批判もあった。「『よっ、札束が通る』なんて言われましたよ。でもそんなにかかっちゃいないかった。今と比べれば安かった。いろいろ工夫してやったんです。」
 12月14日には長沢宅に招集がかかっている。各々方、赤穂浪士の討ち入りの日ですぞ、と云うところか。羨ましいような集まりだ。

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