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能村庸一チャンバラ倶楽部コミュのテレビ昔話(59)【若々しき老優・宇津井健】

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「楽しいわが家」アップします。2007.7月号です。

「テレビ昔話(59)能村庸一(時代劇プロデューサー)
【若々しき老優・宇津井健】

 「鬼平犯科帳・一本眉」は宇津井健の盗っ人・清洲の甚五郎が好評だった。以前から「鬼平」のファンだったという彼は初めてのアウトロー役を楽しんでくれた。吉右衛門とは「あゝ海軍」という映画で共演しているはずだが、それは遥か昔の青春時代。
 筆者は二十数年前、宇津井が乗馬の稽古をしているのを御殿場に取材している。小学生だった息子さん(現フジテレビ)と一緒だったのを覚えているが、ドラマで御一緒するのは今回が初めてだ。俳優歴半世紀。すでに70代半ば過ぎの老優だが、とてもそんな呼び方が出来ない、若さ漲る俳優だった。

 早稲田大学文学部在学中に俳優座・新東宝製作の「思春の泉」(中川信夫監督)に主役デビューしている。その後新東宝入り、「青春怪談」を皮切りに新進スターとして活躍、メロドラマ、アクションなど実に多様な役を演じた。大作「明治天皇と日露大戦争」では広瀬少佐に扮する一方、スーパーマンのような紛争で暴れ回った事もある。新東宝の倒産を機に大映入社。「献身」を第一回主演に、数多くの作品に出演するが、その多く正義派で明朗な役だった。

 そんなキャラクターは映画以上にお茶の間向きだったと云えよう。昭和36年フジテレビの「検事」でテレビ初出演。しかし当時は映画会社の「五社協定」が厳しく、宇津井の途中降板という事件になる。
 しかし昭和40年にTBSで「ザ・ガードマン」がスタート。大映テレビの制作で野添和子初のプロデュース作品だった。たまたま帝国ホテルで見かけた制服の職員がカッコ良かった。ホテルの話で「日本警備保障」の社員だという。当時警備会社はこの一社だけ。新しい職業だったのである。これは面白い企画になる、という女性プロデューサーの閃きがこのヒット番組を生んだ。
 タイトルが決まるまでには色々な案が出たと云われる。結局、企業や民間人がガードするから「ザ・ガードマン」が良いという事になった。カタカナのタイトルは当時国産テレビでは初めてだ。完全にアメリカナイズされた番組にしたいとするスタッフの思いが決め手となったようだ。
 本格的なアクション映画として長寿番組となる。スタントマンがいない頃だから、宇津井は靴ひとつとっても山登り用とかジャンプ用など色々用意していたという。セスナ機の本物を燃やすという前代未聞のロケや初めてヨーロッパにロケするなど「ロケのガードマン」の異名があったという。
 宇津井健は「テレビガイド」の第一回テレビ大賞を受賞している。
 「朝起きて、家から衣装を着換えてゆくんです。どんなに眠くても、二日酔いで頭がガンガンしていても……。ただ俳優として進歩がないんじゃないか、不安に陥る時がありましたね。ですから今週は仕事オンリーの冷たい男でゆこうとか、次の週は情にもろい男で行こうという風に、変えてきたつもりですよ」と当時、そんなコメントをしている。

 「一本眉」の撮影は最初から長谷川平蔵とのシーンから入った。スタッフの方が緊張したが、マナーの良さ、そして若々しさに感動した。出番を待っている間もイスに座る事をせず、終始足腰のトレーニングに体を動かし続けているのだ。
 「渡る世間は鬼ばかり」の橋田シナリオで鍛えているせいか、長いセリフも淀みなく、動きの細かいロングカットにNGを出す事もなかった。
 「我々ぐらいの年になったらセリフを覚えているだけではダメ。それを如何に熟成させて表現するかが大切なんです。私はいつもこれが最後の作品と思って取り組んでいます」  

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