ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

能村庸一チャンバラ倶楽部コミュのテレビ昔話(54)【キャメラマンで監督・石原興】

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「楽しいわが家」アップします。2007.2月号です。

「テレビ昔話(54)能村庸一(時代劇プロデューサー)
【キャメラマンで監督・石原興】

 「むしろキャメラマンをやらせて欲しいんです。現場で考えてゆく楽しさがありますから。でも監督が若返りしているので使いにくいみたいで、最近はサッパリ声がかからないんです」
 と苦笑するのは石原興、キャメラマンにして監督という、業界でも珍しい存在である。昭和15年生まれでテレビ映画界の草分け的な存在だ。とりわけ「必殺シリーズ」は当初から手がけてきた。筆者は「残月の決闘」(小野田嘉幹監督)や「阿部一族」(深作欣二監督)などでキャメラマンを務めてもらった他、最近では「鬼平犯科帳」や「剣客商売」のスペシャル版で監督をお願いしている。

 石原興は元々監督志望だったが、日大映画学科の撮影科コースに入学し、春休みに故郷である京都下鴨の京都映画のアルバイトでテレビ映画を手伝った。これが縁でこの世界にのめり込み、大学を中退した。「神州天馬峡」でキャメラマンの助手だった。当時は映画開催後の隆盛期であったが、テレビも急上昇中で、多くの人材がテレビへ流れて行った。そのためテレビ映画を作る人たちは映画を諦めたベテランの他は若手ばかりで、どんどん前が空いたため、23歳の時に病気で倒れた先輩の代役で早くも10本キャメラマンを務めた。それがキッカケで次の番が膿では最初からキャメラマンを任された。それが松竹の「かあちゃん結婚しろよ」で、中学生の火野正平が主演していた。しかし自分では勉強不足と感じたから、大島渚などの本編で助手について学んだ。そのあと30分もののテレビドラマが始まるから帰って来いと言われ、「海の次郎丸」のキャメラマンに。名子役中村光輝(元歌昇)の主演だった。
 「今より丁寧だったかもしれませんよ。一度助手に戻って基本を勉強し直したのが良かったと思っています。当時から台本をよく読んだし、監督の側にいる事が多かったですね。わたしにはキャメラマンの師匠はいなかったですね」

 「必殺シリーズ」は第一作「必殺仕掛人」から最後までかかわった石原のライフワークだが、この作品では照明の中島利男と組んで光と影を大胆に表現した独特の映像が視聴者を驚かせた。
 「ナイトシーンにしても、何故こんな所から明りが当るのか。見て夜に見えればいい。リアルを追求するより、ドラマのイメージを誇張した方がいいのではないか」
 それが石原の考えだった。好きにやらないと悔いが残る。思い切ってやろうとする石原の考えを受けて伸び伸びと仕事をさせてくれたのはABCの山内久司、松竹の櫻井洋三プロデューサーだった。「必殺仕置人」で山崎努が相手の骨を折るという設定に、「骨が折れたかどうかはレントゲンしか分からない」と言った石原のひと言に「それや!」と言ってホントにレントゲンを採用した山内久司は頭の回転が速く、若い人の意見に対し瞬時に判断してくれる人だった。
 その山内から「シャレで一本撮ってみないか」と言われた事から監督石原興の誕生となった。「必殺仕事人」、二百本目の作品だった。これ以後、現代版や特別バージョンになると石原に監督の声がかかった。
 「『必殺』のスタイルは我々スタッフが守っていかなければ、という思いから監督ともよく衝突しましたけど、当時はプロデューサー同志が殴りあったり、激しかったですね」

 「必殺」の石原も今は本格派時代劇にも監督として深い興味を示す。
 「『必殺』はズラを被った現代劇。十年経てば風化する。その意味で『鬼平』や『剣客商売』は後になっても古さを感じさせない。週刊誌の楽しさと文庫本の良さの違いかな」
 石原興、テレビをよく知る男だ。

コメント(2)

むむぅ〜何て面白い人物伝〜
三田村邦彦も、「必殺は現代劇と思ってやっていた」と語っていたのを思い出しました。
鮎川いづみ、出ませんね…あっしが知らねえだけならよござんすが…

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

能村庸一チャンバラ倶楽部 更新情報

能村庸一チャンバラ倶楽部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング