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羽仁五郎コミュの羽仁五郎bot ‏ へのTwitter_羽仁五郎の真意

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(出典:https://twitter.com/reef100/status/989847127827320832

羽仁五郎bot
‏ @gorohani

残念なことに日本国憲法には、わが人民を盲従の強制の害悪から守るべき根本規定がない。政府が憲法の不当な解釈を許している場合、あるいは政府が人民の幸福を保証しない場合、これに抵抗することが人民の権利であるのみならず、実に人民の義務なのである。

18:23 - 2018年4月25日


アステローペ・リーフ
‏ @reef100
返信先: @gorohaniさん


【1】「国家は人民が作った」 について

「国家は人民が作った」という近代社会契約の国家の約束定義を、古代国家の生成にあてはめてそんな歴史はないというのは間違い。近代社会契約の国家の約束定義は、この約束定義を公理として、人民が国家という概念を再構築した近代社会契約以降を言っている。


【2】公理について

日本人は、公理というものに対して、認識ができていない。それは、公理は、古典と近代という、学問の世界の180度の変転ともかかわっている。

それは、自然主義ファラシー(ファラシー=誤謬(間違い))というものとも表裏一体の関係にある。

ここは重要なところ。だが日本人は【公理を根底に置く思考】=【自然主義ファラシーの嵐が世界を席巻して、学問というものを世界的に根底から変質させた歴史】というものを多くの日本人が認識していない。この公理というものを根底において公理体系を作ることで学問を洗いなおした歴史的事実がある。


【3】 事実と価値について

この流れはヒトラーのファシズムを生んだ西欧においてさらにアウフヘーベンされ人間の思考をさらに解放していった。

【公理を根底において公理体系を構築することであらゆる学問を洗いなおした歴史】=【自然主義ファラシー】 を経てもなお、人類はナチスのようなファシズムに踊らされた事への反省は、戦後の英米倫理学会において「事実」と「価値」が二元であり、事実から価値は論理的推論で演繹できず、価値から事実も論理的推論で演繹できないという価値二元論、価値情緒説(価値は情緒によって作られる)なるものを生み、これによって価値(当為(でなければならない)、と思う)ということと事実は二元であり、絶対に相いれない別次元のものであることを指摘した。これも日本人にはまったく認識されていない。

【4】 「天皇制の存在」と「日本人民の脳」という構図

このような日本人民の脳と論理という資源の解放されてこなかった歴史の展開は、天皇制というものととても大きな関係にある。はじめに天皇あり。初めに現人神あり。現人神の玉座をおろされても、なお、非合理な権力としての天皇というものが居座る日本国憲法。


エーーイ。この菊の御紋が目にかいらぬか、だまれーー!だまれ!で非合理な権力が、非合理なまま居座っている日本の継続がここにある。


【3】 民主主義という、確信的な非合理を埋め込んだ曖昧用語

この歴史の背景は、democracyを民主主義などと誤訳して、主は主権なのか、それもと民が主で、官が副で、両者に主権が何割かずつわかれたあるのか、そんな曖昧なでたらめな民主主義という言葉を張り巡らせてしまっている。これも、天皇制の下での非合理な世界の主要な間違いである。


【4】公理と自然主義ファラシー ・・・学問における古典と近代の違い

学問というのは19世紀から20世紀の初めにかけて根本的に洗いなおされた。数学において顕著だが、あるゆる学問がそれまでの伝統的に正しいものとして受け入れてきた概念や定理というようなものを、公理の世界、もうこれ以上正しいと証明できないけれどもこれはもう正しいものとして受け入れましょう


というところまで遡及し、そこから、公理から学問の用語、概念、というものを再構築して公理体系のなかに体系化していった。この体系化以前の学問が古典、それ以後が近代。


【5】日本人の脳の古典ぶり

日本人の多くの脳みそはいまだに古典である。


【6】大前提としての近代社会契約の国家の約束定義

「国家は人民が作った。人民の自然権を守るために人民が国家を作った」これを
約束定義(=公理)としようというその目的、狙いというのは何か。

この公理(近代社会契約の国家の約束定義)の見ている点は、目的は、
「人民の個人個人の自然権を守りたい」、「その為にはどういう政治的な仕組みになればいいのか」、「どういう社会システムになればいいのか」、という視点で始まっている。

【7】人民の個人個人の自然権を守りたい、その為に国家を作って強大な国家権力を人民は国家に託した。

そういう大きな社会としての国家というものがどうあればいいのか?
どうすれば人民の個人個人の自然権を守れるのか。

「国家は人民の自然権を守る目的を持つ」というのは大前提としての公理。


【8】democracy国家であるための、人民が持つべき大前提

「人民の自然権を守るため」という目的を実現するために「人民が国家を作った」とするこの大前提をみんなでオーソライズして正しいものとして認めて根幹に置いて、国家や主権や憲法や立憲主義やdemocracyやもろもろの概念を用語を築き上げていって体系化した。それまでにあった用語と区別するなら


頭に近代という接頭語をつけて区別する。近代憲法。近代立憲主義と。


もし人民が「人民個人個人の自然権を守る」という認識目的を持って、国家というもの、憲法というもの、democracyというもの、…それらを認識するのなら、日本国憲法やdemocracyや法律や政治などを正しく認識できるが、その認識目的を持って認識するのでなければ、憲法も法律も司法もなにもかも言葉だけ切り取ってきて認識しているだけでぜんぜん近代社会契約の公理に体系化されて成り立っているそれらの用語を正しく認識できない。今の日本人がそうだ。


【9】抵抗権の行使も革命権の行使も、憲法以前の自然権としてある。

羽仁五郎の【「政府が憲法の不当な解釈を許している場合、あるいは政府が人民の幸福を保証しない場合、これに抵抗することが人民の権利であるのみならず、実に人民の義務なのである。」】という言葉は、以上の歴史を鑑みれば十分納得のいく言葉であると思います。


その一方で、羽仁五郎の【「残念なことに日本国憲法には、わが人民を盲従の強制の害悪から守るべき根本規定がない。」】という言葉はどう理解されますか?
これだけ切り取ってきたら日本国憲法に革命権の行使や抵抗権の行使という言葉が明文としてない。明文としてない以上そんな権利も行使も無理と


多くの日本人は、受け止めてしまうでしょう。しかし、羽仁五郎の言葉のこの二つの言葉の落差、乖離を、あなたはどう埋めればいいのか、悩みませんでしたか?

これが羽仁五郎の言葉の行間です。無論羽仁ご本人はわかりきっているこです。しかしそれを聞く日本人にはあまりに乖離がある。落差がある。それで深くは追究しないでなんとなくわかった気になっているが抵抗権や革命権の行使を書いてないから行使できないんだという縛りを感じてたのではありませんか?


羽仁五郎が本当に言いたかったことは、抵抗権だの革命権だのそんな言葉を陽に使って書いてなくてもそんなものは当然主演者人民にはあるのだ、ということ。 にも拘らずそれを認識できない国民へのいら立ち、理解してねという悲願、しかしそれでも日本人民の歴史のせいで人民が自ら脳を抑制していると


いろんな感情が混在しているのだと思います。

【10】人民の自然権を守るという視点、その認識目的を、公理として持つのか、
それとも、人民の自然権を守るという視点、その認識目的を、公理として持たないのか。

最後に、いくら公理を根底において体系化するのが近代の学問だといっても、その公理が、初めに神ありきだとか、初めに宗教教祖の言葉ありきとか、初めに現人神ありきだとか、そんな、証明不可能な「価値」を都合よく公理として言い張って根底に置いたのではとんでもない公理体系が出来上がってしまう。

公理たりえない。

【11】価値の事実が二元であることを認識し続けることで、
ファシズムの長い舌は人民を騙せなくなる。

ちなみに、事実と価値が二元であること。これは、ファシズムが、価値と事実を織り交ぜながら、ファシズムの目指す方向に理屈づけていくでたらめな論理的推論を阻止するためのものです。


価値から価値はどうにでも演繹できます。ですからaという価値からbという結論もbでないという結論にもどうにでも。多くの人民はこのファシズムの屁理屈に引っかかる。

「平和を守る為」というのは情緒的価値判断=価値です。当為(すべき)は価値です。 これを理由に戦争をするという事実は論理的推論としては演繹できないのです。逆に言うと、どうにでも演繹できてしまうのです。

【12】脳の解放、論理の解放、自由になる事、それが人民のdemocracy度の底上げ。それが羽仁五郎の真意。

ファシズムは論理を破壊してます。言語を反対の意味に使います。これも事実と価値が二元であることを自覚していれば、引っかかることはない。


脳という資源、論理という資源を日本国人民は解放する必要があります。
それが、人民のdemocracyの認識を底上げするために必須です。
人民のdemocracyの認識を底上げする=自由になるという事

羽仁五郎が目指していた、晩年のある種の行脚は、そこに真意があると思います。

日本共産党の志位さんのTwitter、よく見ててください。沖縄の翁長知事の発言、よく見ててください。当為などの、情緒的価値判断を力説する事ばかり目立ちます。

しかし、事実の連関、ここを蹴飛ばせはあそこが飛び出るという事実から事実を動かすいわゆる論理というものはなかなか口にしません。


これに酔いしれて拍手喝采で、何も変わらない。
情緒的価値判断はガス抜きにはなっても、事実を事実が動かす論理ではない。
人民のレベルがこの程度だとみくびられている。その程度で野党、正義の味方だと自他ともに許すレベル。これで何が変わるのです。
共産党は比較的まっとうな主張が目立ちますが

主権者人民が、価値と事実の二元論の目で厳しく見ないから、日本の野党は育たない。


羽仁五郎の「政権交代」=ナツメの実 の話は正しい。

(※参考
https://twitter.com/gorohani/status/986958462700503040
羽仁五郎bot
‏ @gorohani

便秘にはナツメの実を食えばよい。ナツメの実にどんな栄養があるかは問題ではない。保守政権の腐敗と暴走という異常事態に対して野党第一党がどんな政党かは問題ではなく、与党の良心ある人々も皆で野党第一党に投票し政権を交代させ、この異常事態を救うのだ。交代する政権を買収するバカはいないのだ
22:23 - 2018年4月19日 )




だが主権者人民が厳しい目、近代社会契約の国家の約束定義という公理を据えた視点、自由になるという視点、自然権を守るという視点を持ってないからあらゆる非合理な妨害の中で潰される。政権交代した野党に対しての厳しい叱咤が著しく欠落する。


人民の近代社会契約の約束定義という公理への帰依、オーソライズは必須。そして、日本国人民は、その脳も論理も自由への解放をしなければ明日はない。

(了)

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