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羽仁五郎コミュの【日本人民の歴史】(抜粋1)

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◆『日本人民の歴史』羽仁五郎著 岩波新書(P.9途中〜P.10途中まで)

*−−−−−−引用開始−−−−−−−−*

 世界の人類の原始氏族社会が、そこにおける生産力の発達につれて崩壊して、そこに、少数の支配者が人民の多数を奴隷として所有し使役する古代奴隷社会があらわれたように、日本においても、魏志倭人伝によれば、紀元前一世紀ころから、人民の多数が少数の支配者によって所有され使役されるに至ったことが知られる。
 日本の古代奴隷制社会は、その特色を持っている。そして、この特色を持って、日本の古代に奴隷はいたが、人民の多数が奴隷として支配されていたのではなく、したがって日本の古代を奴隷社会と規定するのはむずかしい、とする学者たちの説がある。ぼくの見るところでは、これらの説はまちがっている。第一に、古代の日本において、人民の男女が公然と奴隷として売買され所有され、当時の主要の生産としての農業にこれらの奴隷が使役されていた証拠がある。第二に、これらの奴隷の数が、人口の総数にくらべて、むしろ多数ではなく、古代ギリシアにおいては、全人口の九割内外が奴隷であったにくらべて、古代日本においては全人口の一割内外が奴隷であったにすぎなかったことは事実であるが、それと同時に、見おとしてはならないことは、日本の場合には、奴隷がきわめて少数の特権階級の手に高度に所有され、すなわち、全国民の生産または富の程度ははなはだ低く貧しかったのに、その程度の生産が少数の特権階級の手に高度に集中され、全人口的には数の多くない奴隷が、きわめて少数の特権階級、天皇、およびその周囲の貴族また地方の豪族などの手には実に大量の数十または数百または数千というように集中されていた事実である。そして、第三に、この人口的には発達の低い奴隷を極めて少数の貴族の手に高度に大量に集中した特権階級の支配としての古代天皇制の下に、日本人民の大多数は、実質的に奴隷として、または、奴隷に近い状態において、いわゆる部民として世襲的に支配されていたのである。これらの点において、日本の古代がまぎれもない奴隷社会であり、しかも、はなはだ残酷な性格を持った奴隷社会であったことが、はっきりわかるのである。
 日本の古代の奴隷社会も、日本の原始的な氏族社会の崩壊のあとに、新たに成立したものであったが、そこに氏族社会の末期の社会関係の残存または癒着が外被として利用され、ここに日本のいわゆる氏姓制度というものが形成されていた。従来の日本の歴史家がしばしばこの氏姓制度を氏族社会と混同していた理由もそこにあった。氏族社会は原始的平等を本質としたものであったが、氏姓制度は階級制度を本質とし、氏族社会の崩壊後に発生した奴隷制を基礎とした社会であった。ところが、日本においては、そこに氏族社会の残存がヨオロッパの古代におけるように完全に清掃されず、その残存の癒着の外被の下に、氏姓階級という支配階級が形成され、その下に、当時の日本の人民の大多数が、あるいは純然たる奴隷として、または氏上(ウジノカミ)すなわち氏(ウジ)および姓(カバネ)という特権的位階をもつ階級に直接隷属して労役に服し、売買はされないが、贈与はされることはあった部民すなわち実質的の奴隷にちかい隷属民として、または、この部民と同等の社会的地位におかれたいわゆる戸すなわち半奴隷的な人民として、支配されたのであった。
 そのあいだに、日本の人民が、こうして氏姓制特権階級のために奴隷として支配されることに対し、しきりに反抗反乱するに至った事実は、古事記や日本書紀などにもあらわれているが、これらの奴隷反乱に対し、貴族豪族は個々別々ではそれらの奴隷反乱としての人民の反抗を圧服できなくなるとともに、ついにこれらの貴族豪族が連合して、この日本人民の反乱奴隷を圧倒しようとした。この日本人民の反抗としての奴隷反乱の弾圧のための豪族連合、ここに日本の古代天皇制の起源があったのである。

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