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トルコ井戸端会議。コミュの見えない恐怖.? 『17.8.1999』 編

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あなたも背中合わせの  目には見えない恐怖。
おどすつもりはない。  経験者は語る。  怖いトルコ。


尚、これからお話しようとしている事は、震災体験談です。
日本でも新潟大震災や、天災の記憶が新しいかと思われます。

震災、天災にあわれた方、またお近くの方が被害に遭われた方など、
辛い記憶と重なる恐れのある方におきましては
どうか読まずにおいて下さいますようお願い致します。

私事で恐縮ですが、6年過ぎた今でも思い出すと足が震える記憶です。
このコラムへのコメントにも多分お返事は返せないかと思います。
トルコに行かれる方々が覚書として頭の片隅に留めておいて下されば幸いです。

この場を借りて、地球上の全ての震災天災の被災者の方々に
心からお見舞い申し上げます。

********************
『17.8.1999』編

第一話


17 Agustos(アウストス), 1999

午前3時すぎ

アダパザール

夏休み。

夜更かしで丁度うとうとしかけた寝入りばな。一瞬、ベッドが揺れた。

「あれっ、地震かな?」私の頭は日本人。

すぐにおさまるだろうとタカをくくったその瞬間。
ゴォ〜ォ〜ォ〜と不気味な地響きとともに、グラグラグラグラ揺れに揺れ。

壁が割れる、家具が倒れる、物が壊れる、
ありとあらゆる雑音と土砂煙の鼻につくにおい。
起き上がろうにもままならず、ベッドの上でご〜ろごろ揺られて数分間。


果てし無く感じられた揺れがいったんおさまり
一筋の明かりもない真っ暗闇の中を手探りで部屋から出た。

「アービ!(兄ちゃん)アービ!」と、義弟の声。
「ジェム!ジェム!(義弟の名)」と旦那の声。

お互いに呼び合う彼らはお互いの声が聞こえてない。パニック。でも無事。
手探りで探し出したロウソクに火を灯し「靴を履け」と指示する私。
だけど舌がもつれて上手く言えない。

子供部屋の扉が開かない。扉の後ろに家具が出っ張り邪魔してる。
グワッと力任せに押し開けてベッドの上を手探りする。
声がしない。でもそこに横たわってる。
顔を探ってクチに手をかざす。息はある。・・・寝てる。

男どもは玄関ドアを開けようと躍起になってるが、開けられない。
かかってる鍵が開けられないでいる。パニック。

「台所のベランダから飛び降りよう!」と一刻も早く脱出したいジェムが言う。
「落ち着け!もう揺れは収まってる。」と鍵を開けながら私。
普通にまわしたら開いた鍵。

寝ている子供を毛布にくるみそのまま抱えてパジャマ姿で戸外に脱出した彼らに続き、服に着替え、トイレに行き、飲料水を持って、靴を履いて外に出た私。

コメント(17)

************************
第二話

隣のうちの奥さんが裸足で足から血を流している。
「主人がまだ中にいるのよ」と、彼女も動転している。
夏とはいえ薄ら寒い夜明け前、みんな着の身着のまま外に非難している。
停電。一筋の明かりもない。真っ暗闇と白煙。
(後で建物が揺れて噴出した砂煙だとわかる。)

ガレージの中でつぶれずにあった車を出して朝を待つ。
小さな揺れが頻繁に続く。
カーラジオでは何も速報は聞こえてこない。携帯電話で旦那の実家に連絡する。
寝ぼけ気味の義父の声がする。
「今こっちで地震があったけど、みんな無事だから心配要らない。」
それだけ伝えて切る。
イスタンブールにいる義妹にも連絡。つながらない。もうすでに回線混雑。
何度かけても通じない。不安な時間。しばらくして旦那の携帯電話がなった。
義妹からだ。彼女達も無事らしい。
空がやっと薄明るくなってくる。
ニュースはまだ何も伝えてこない。何もわからない。
2人の男達は周辺近所の偵察に出かけた。
歩いて15分の距離にある町の中心街まで行って帰ってきたらしい。
一階がつぶれて車の上に二階のベランダがのってるアパートや、町に続く道路沿いの建物が全部崩れ落ちてたと言う。
大変なことが起きたのだという。停電の上に水も出ない。
復旧のめども立ちそうにない。
第三話

午前6時を過ぎて明るくなったので家の中を覗く。

玄関から靴のまま入るとそこは変わり果てた有様。
台所の真ん中には冷蔵庫や食器洗い機が鎮座し、
あたり一面、食器やガラスの壊れた破片、鍋や調味料がごったごたに
散らばっている。
こぼれた調味料の凄いにおい、油。
冷蔵庫は一度ドアが開いて中の物が飛び出したらしい。
ガラスのサラダボールに入れた果物が誰かがそこに置いたかのように
床の上にあった。

サロンの大きなテレビは床に転げ落ち、柱の一部の大きなコンクリートの塊が
ボコッと落ち博多人形の首が折れてる。

我々の寝室はと言えば、壁には木の葉の脈の様に細かいひびが一面に入り、
化粧台の上に立て掛けてあった鏡は反対側の壁まで吹っ飛び粉々。
洋服ダンスの大きな扉3枚は外れて床の上に重なり落ちてた。
ベッドの上だけがきれいに残っていた。

ジェムが寝るはずだった布団の上には箪笥のうえにあった
大きな箱が3個落ちていた。
サロンでテレビを見ていてくれてよかった。

断水の中、溜め置きのわずかな水でとりあえず凄いにおいを放つ台所を掃除する。
第四話

私たちのアパートの周りには水と砂が混じりあった液状土砂が
庭一面に噴き出していた。地盤がゆるかったらしい。
ガレージの扉は上から潰されひん曲がり、後ろの棟のベランダが
少し下がったようにずれていた。

午前9時。ここから脱出を考えた私達はとりあえず
身の回りの物をカバンに詰めて家をあとにした。

町の光景は一変していた。
昨日までそこにあったアパート群が瓦礫の山と化しガラスが砕け散った窓からは
白いカーテンが風に吹かれてひらひらとたなびき、部屋の半分がなくなった壁の絵が外から見える有様だ。
人々はなすすべもなく瓦礫の傍らにうずくまっている。

途中、昔住んでた場所の知り合いと出くわし無事を確認しあう。
彼の車はつぶれたのか徒歩で町中の自分の店まで行くという。
イスタンブールに行くことを告げ、彼と別れてハイウェイへ向かう。

イスタンブールに向かうハイウェイは封鎖されていた。
道のところどころが寸断されているらしい。

他に選択の余地なく、反対方面、アンカラをめざす。
道は混み、のろのろの渋滞が続く。
時間は10時を回り、気温も上昇し始める。
この頃には目を覚ましていた子供がお腹が空いたと告げる。
そうだった。まだ何も食べていなかったんだ。
でも誰も食欲を感じないでいる。食べたくない。
家の中にあった食べ物を車に乗せて来ていたので
とりあえず果物と、クラッカーを食べさせる。

なかなか進まないでいた渋滞の原因は地震で崩れ落ちた料金所だった。
その先へは迂回しないと進めない。
皆が行く後に続いてハイウェイからそれる。

私道になったので、道の傍らに車を止めて休憩をとる。
冷凍庫から出してきたアイスクリームは溶けてミルクシェーキのようだ。
第五話

何処に続くかわからない初めての道を抜けやっとハイウェイに戻る。
もうお昼を回っている。3時間はゆうに過ぎたがまだボルにも着かない。
沿道の休憩所でコーヒーを飲む。
隣に座っていた婦人に頭痛薬を持っていないかと尋ねられる。
そう言われてみればそうだ。頭が痛い。旦那も義弟も頭痛がするという。
持っていた薬を分け与え、婦人と二言三言、会話する。
彼女らも地震から非難してきているらしい。
日本に連絡しようと試みるが繋がらない。回線がパンクしてるのだ。
道は益々混雑してきた。

ボルを越え、道が広く走りやすくなったせいで車の流れもよくなり始める。
アンカラまではあと少し。休憩で止まった場所から日本と連絡がつく。
午後三時を回っている。(日本時間で午後九時ごろ。)
日本では友達から安否を気遣う電話が入り、夕方のニュースで地震があった事を知った私の家族は大パニックだったらしい。
とりあえずみんな無事でこれからアンカラまで非難することを告げる。

一時間後親戚の家にたどり着いた私たち。
アダパザールから7時間かかってアンカラに着いたことになる。
普段ならば3時間の道程だ。
お茶を頂き一息ついてテレビに映った画面を見る。

大地震。マグネチュード7.6。震源地ギョルジュック。
空からの光景。一筋に連なる瓦礫の山。死者の数。

初めて、足が震えた。
第六話(最終章)

長々とお付き合い頂いたこの話。
幸いうちの者は無事に難を逃れることが出来ましたが
知り合いの中には幼い子を亡くされたり、家具や家の下敷きで何時間も
救出を待ったりした方、それがもとで怪我をして今でも体がご不自由な方などもいらっしゃいます。

ここで皆さんにお伝えしたかった事は、ところ変われば文化も慣習も違うという事です。
建物の建築法ももちろん日本とは全く違います。
日本家屋は地面が揺れればそれにあわせて建物も揺れてくれます。

トルコでは残念ながらそうではありません。
トルコも地震の多い国ではありますが、鉄筋コンクリートの柱の間は全部個別の
ブロックを並べ重ねて壁や天井床としているものがほとんどです。
一度揺れればそれらはばらばらの動きをしあっけなく崩れることとなります。
17 アウストス大地震の際にも建築構造上の弱さ、材質の悪さが死者の数を
天井知らずにしたといわれています。
トルコでは建物の中の安全性は保障できません。

地震予知は不可能です。
いつまた地震が起きてもおかしくないといわれる昨今のトルコ、
先日も内陸部で、大きな地震が起きたばかりです。

17 アウストス大地震の際、トルコ全土がかなり長時間にわたって停電となりました。
皆様がご旅行の際には、滞在先非常口確認、又、
就寝時にも身の回りの大事なものなどはすぐ手に取りやすい状態で置かれること、
グラッときたら慌てず速やかに非難される事をお奨めいたします。

別コミュ管理者のMr.ケンジントンさんは10年前の神戸地震を体験された方です。
日記で地震経験者ならではの「日頃の備え」をお書きです。
旅の備えとしても有意義です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=6847145

いつ災害が起きても慌てることのないようご自身でお備え下さいますよう
飛んだイスタンブールからの小さなお願いです。
冒頭でも述べましたが「トルコ井戸端会議」でこんな事言ってたなと
トルコに着いた時に思い出してくだされば幸いです。

また震災当時、日本をはじめ各国から救援援助ご協力頂いた事を、
被災地に住む一日本人として、厚く御礼申し上げます。


読んでくださった方、サイン・インして下さると非常にありがたいです。
さいわい恐ろしい自然災害には今のところあった事ないですが
地震は本当に大嫌いでちょっとのゆれでもパニくってしまうほうです。
あわてず騒がず冷静に、ってきっと難しいだろうな…
イギリスでは地震ないみたいで助かってます。
たまに帰った時地震に遭遇すると怖い、怖い…
こんにちわ
大変な経験をされたのですね、
でもご家族が無事でよかったです。
旅行でもいつ何がおこるかわかりませんよね。
しっかりと後悔しないように準備していくようにしますー!
 はじめまして。このトピをみて是非書き込みたくて参加しました。

 私もあの地震のとき、トルコに旅行でいました。ですが、震源より離れたイズミール近辺にいたため被災はしませんでした。むしろ、地震があったことも知らずにテレビをみたら瓦礫の山がうつっていました。ホテルの人に「これどこ?」と聞いたら「トルコだ。地震があったんだ」という。全然しらなかったなぁと思い、少ししてから日本にいる家族に電話しました。すると何故すぐ電話しなかったかと烈火のごとく怒られてしまいました。日本でも報道されたようで…。
 だって全然知らなかったんだもん、と弁解したのですが、その後イスタンブールまでの道路ががたがただったり、崩れたガソリンスタンドを見たり、遅々として進まないバスに乗ったりと、「すごいことがおきているんだ」という気持ちがし、ぞっとしました。

 「飛んだイスタンブール」さんは、実際に地震を体験されたわけですよね。大変なことだったと思います。
 その後トルコでの建築は変化がありますか?私はすごく不思議なのですが、よくトルコ人に日本では地震にどうやって備えているのかと聞かれる割に、トルコでの地震対策がどういったものなのか、よくわかりません。建物も相変わらずの建築方式なきがしますし…。なにかご存知でしたらお教えください。
コ、コワイ・・・恐すぎる。

たしかに建築中の建物とか、レンガをつみあげているだけのような気がします。
そうか・・・そうなのか・・・トルコ。

今度行ったら、避難経路を確認しておきます。マンションなので階段で降りなきゃいかんし・・・。

ほんとにコワイ。
あっちのひとが災難に備えているとも思えないし、自分の身は自分で守らないと。
カキコしてくださってありがとうございました。
この体験記を書いた頃は思い出しただけでも身体の芯が震えてしまって
とってもレスを返せるとは思いませんでしたが、
今やっと、お返事を書こうという気に。
ああ、でもやっぱり怖くなる〜。

>YUMMYさん、とらじむさん、NOIRさん

地震や天災はふってわく。
それがいつかは誰にもわからないです。
日頃から心の準備が大切ですよね。

>ピピさん
旅行中、離れている家族の方々は見えないわけで不安が心配を何十倍にもしてしまう。
私がこの地震のあと日本の家族に連絡がついたときには時すでに12時間経過していて、
日本でニュースになってからというもの家族の不安はそれは憶測するのも恐ろしい。
電話がパンク状態だったこともありますが、私の一声がどれほど彼らに安心をもたらした事か。

>Achan(えーちゃん)さん
ゲチミシ・オルスン。
今の今までそこに存在していたものが見るも無残な形に姿を変えて・・・。
そんな現実が信じられなくて理解できなくて、
起きた事をきちんと受け入れるまでにだいぶ長い時間がかかった出来事。
呆気にとられるってこういうことなんだろうなぁ。
あの時、トルコ全土が呆気にとられてたんだと思う。

え〜ちゃんさんも被災者の方々のために尽力を尽くしてくれてどうもありがとう。
3つのプレートがぶつかり合う場所にあたるため 
トルコは 結構頻繁に 地震の起こる国。

小さく揺れて 地震エネルギーを うまく分散してくれれば
いいのですが

2011年10月23日 VANでの地震 M7.2は トルコにとって大きかった。

せっかく助け出された幼い命が 命の炎を燃やしきってしまうことが辛いです。

早く早く。。一秒でも早く 生存者を助け出して。。。

左の子は ユヌス・ゲライ 享年13歳 右の子はセルハット・ギュル 享年12歳
二人とも息絶えたお父さんやお母さんに守られるようにして救出されたのに 合掌

耐震性のある家作りがトルコの課題。この子達への償いです。スペード
東京の トルコ大使館で 
ヴァン県での地震災害への義援金の 受け付けをはじめました。

みなさまのお力添えに心から感謝いたします。ハート

http://tokyo.be.mfa.gov.tr/ShowAnnouncement.aspx?ID=134011

飛んださんも震災を体験されたのですね。
涙なくしては読めませんでした。

私は日本でもトルコでも震度4以上経験がありません。
でも、2階以上に住む勇気はなく、寝室のクローゼットには
日本から取り寄せた天井へ突っ張り棒で固定しています。

ペットボトルの水は
余分に買い置きするようにしています。

完べきに地震に備えているわけではありませんが、
明日はわが身と心得ております。

多くの尊い命が救われますように・・・
そして、飛んださんがおっしゃるように
耐震性のある家作り・・
トルコの多くの人に耐震設計について
深い関心を持っていただきたい。
少しでも頑丈なら、お金には代えられない
多くの尊い命が失われなくてすむのだと。
アダパザル・・・あ〜懐かしい。
飛んだイスタンブルさんが地震を体験していたとは初耳でした。
私は2006年に約一年足らず滞在していました。
私が住んでいたアパート群は震災被害者のために建てられたエリアでした。
(カラマン)
ここのジャーミイの名前が「8月17日ジャーミイ」。
だいぶ復興していましたが、街の方では地震の爪あとを感じました。
今回ヴァン地方の又の大地震・・・
多くの天災が各国で起きていますね。
今イタリアに住んでいます、リーグーリアのチックエテッレ(世界遺産)の2つの村が雨に伴う川の崩壊の濁流で町が埋もれてしまいました・・・
私自身大きな災害の経験が幸いにありませんが、
日々本当に心に留めておかねばと思うしだいです。
ラム子さん haidiさん
ここイスタンブルでも 近い将来大地震が起きると予想されています。
いつどこで起きるかなんて誰にも分からない。
だからこそ せめて これから立てられる建築物は地震に耐えうるものであるべき。。

本当に大きな犠牲が払われてしまっても なにも変わらないのは罪だと思います。

犠牲者の中には残念なことに このVAN地震 被災者支援で現地を訪れていた際 余震でその尊い命を奪われてしまった 宮崎淳さん 享年41歳もおられます。
ご家族の方々のお気持ちを察すると 誠に遺憾で やるせない想いでいっぱいです。

トルコの子供たちが彼のために歌ってくれました。



宮崎さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。スペード 
この耐震、免震に対して トルコの目を向けさせようと20年もの間 ずっと努力、貢献されていた素晴らしい日本の建築家がおられました。

故 山本達也氏。(1961‐2010.12.18)
トルコの教育機関での次世代への貢献に始まり 
トルコだけではなく世界各国で TAGOmimarlikとしての建築を実現させました。

去年急逝されたあとも 彼の手がけたプロジェクトは完成に向けて建築中です。

本当にお亡くなりになられた事が惜しまれます。。
ご冥福をお祈りするとともに
山本氏の偉功がトルコの次世代に引き継がれる事を心から願っております。

プロジェクトの一例がご覧になれます。
http://www.arkiv.com.tr/m200-tatsuya-yamamoto.html

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