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三国志コミュの司馬氏はなんで魏を乗っ取ったのか?

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前々からの疑問だったのですが、
「どうして司馬氏はあっさりと魏を乗っ取ることができたのか?」
そして
「そもそもどうして司馬懿は魏王朝にそむいたのか?」
このことは、後年、東晋が100年近く続いたのに、その後の宋、斉、梁、陳が短命であったことの謎解きにもつながる問題だと思います。
名門司馬氏が成り上がり曹氏の臣下でいることに苦痛感じたか
ら?
しかし、名門なだけならほかにもたとえば王氏とかはなぜあっさり司馬氏に従ったのか?
みなさまのご意見をお聞きしたいです。

コメント(36)

> 司馬懿が魏王朝に背いた
こう解釈するかどうかも、けっこう難しい問題ですよね。
どこまでが魏内での権力抗争で、どこからが簒奪(禅譲という建前ですが)の準備なのか。
晋の建国に司馬氏が乗り出した時期について意見を出していけば、問題が分かりやすくなるかも知れないですね。
 大分以前になりますが、そのことについて少し考えたことがあります。

 宜しければ一読されたく。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=283449459&owner_id=7171215です。書き込み待っています。

 あと、マイミクシィ、募集中です。
知識もないのに僭越ですが、

王朝がかわっていったのは、
単純に 臣下の人間の実力・権力が皇帝よりあったから、
もしくは、そうなるようにその臣下が内部を操作したから、
ではないでしょうか。

つまり、「禅譲」という、正当性をもった国家ののっとりを
行うための、
大義名分を作っていったのではないかと考えます。
(曹操・曹ヒもそうですよね)

なぜならば、

中国の易姓革命の思想があったなら、
皇帝自身に、確たる実力と人望があってこそ、の
王朝と王威。

なので、

言ってみれば、皇帝の名を持ちながら、
「たかが臣下」の前で翳んでしまう
権威なのだから、滅ぼされて当然である、とか、

もしくは、

勢いのある新興グループに便乗し
国家を樹立して、あわよくば立身出世をはかりたい、
とかいう雰囲気が 当時にはあったのではないか、
と思います。


また、

短命の王朝の時期が連続していることについては、
幅を利かせた旧体制が滅んで、

「理想国家」

なるものを作ろうとしていく際に、
ある一派が権力を握ると、
その抗争に敗れたり、新体制に反感をもったりする人物が集団となり、

前述のような、一種パターン化した

「正当性のある、国家の再構築方法」

でもって、次々と、自分の理想をかなえようとしたのではないでしょうか。



失礼しました。
私も司馬懿は魏王朝にそむいてはいないと思っています。

易姓革命の理念を調べれば、自分なりの答えが出るかも知れませんね。
私は魏の曹丕の宦官や外戚の台頭を押さえる手法を用い、晋では逆に司馬氏は外戚重視として八王の乱となったような
それぞれが裏目に出た関係が素晴らしい浪漫と捉えています。
そこで登場するのは「劉」姓を冠した劉淵ですしね。

調べると楽しいですよね。
逆にいえば、なぜ曹操も司馬懿も自分で帝位につかなかったのでしょうか?

実力は子孫達よりあったでしょうに…。
簒奪者の汚名を着るのを恐れたと言われてるのを聞いたことがあります。
一応曹操は漢の臣下ですし、司馬懿は魏の臣下。
儒教的には許されないものではなかったのではないでしょう。
一応、禅譲は汚名ではなくすばらしいから譲るというものですよね?
それでも、皇帝をなのるのはよっぽど図太い人でないと名乗れなかったのではないかと推測します。

歴史書は後の人が良くも悪くも書く事ができるので一概に信頼は出来ないとされています。
例を挙げれば唐の李世民の功績等。
だからあまり判断はできませんが、
東晋は一応それなりの隙を見せない力はあったのではないでしょうか?
その後の短命王朝は権力闘争に次ぐ権力闘争や身内争い等地盤事態脆弱になって行ったため簡単に簒奪できたのではないでしょうか?
それでも、桓温みたいに大義名分にはこだわった人もいるみたいですが。
北の王朝は自称が多いみたいですけどね。
すいません、書き直ししたせいで?がとんでしまいました。

曹操が帝位に就かなかったのは、故事に倣った一種の儀礼的な振る舞いだと聞いた事があります。
臣下の身分でありながら直接帝位を奪うのは不敬であり、後世に汚名を残します。
禅譲により帝位に就くにはその資格、つまり天命がある、ということですが、その天命を持ちながら、あえて臣下の分をわきまえることで、その人徳は天下に鳴り響くというわけですね。

自分はそのままで、息子が帝位に就くのは、殷(商)を敢えて滅ぼさなかった周の文王にも見られる行為です。(当時は帝位はではなく、王位ですが)

息子がいざ帝位に就く時にも、自分から進んで行動は起こさないのが良しとされます。周囲の人間に熱烈に推挙されてもそれを断り、三度くらい要請を受けてようやく「そんなに皆が言うなら…」という形をとってよいやく、です。
これはあくまで大義名分へのこだわりや、謙譲の美徳、という価値観から出た様式ですね。

司馬懿に初めから国を乗っ取るつもりがあったかどうかは、確かに微妙だとは思います。保身のために政敵を倒していったら、結果的に専横体制ができたようにも見えますし。
でも全て計算ずくの行動だとすれば、なんとも恐ろしい人物ですね。確かにそれだけの能力の持ち主であったことは間違いないでしょう。
で、司馬懿と違い明らかに野心があった(と私は思います)司馬師と司馬昭でも、自分は帝位に就くことを避け、昭の息子司馬炎が帝位に就くというわけですね。
言いだしっぺです。
わずか1日でこんなに沢山書き込みいただけるなんて、ありがとうございます!
自分の考えもまとまったら書き込みます。
それが歴代王朝の礼儀なんですよ
貴方に位を譲りますと返答が来ても、いえいえ、私はその器にありませんというやりとりを続け、最後は、算奪するんです
因みに本来なら司馬昭が帝位を算奪するはずでしたが、直前で急死したそうです
ほぼ準備万端調っていて、最後の皇帝の元帝ソウ換から譲り受ける手前で死去したそうです
あれからちょっと調べまして、皆さんの意見もあわせ、自分なりの見解です。
まず、曹氏と司馬氏のもともとの身分の違い。
曹氏はなんだかんだ言っても宦官の孫、司馬氏は貴族。
次に魏王朝が安定し中原の戦乱が収束するにつれ、軍人に代わって文人貴族が政権中枢を掌握。
一方で蜀の北伐などで軍事能力のある人物がまだまだ必要だった。
その点、司馬懿は名門貴族で、かつ軍事能力もあり、武将たちの信頼も厚い。文武両部門を抑えることができた。
ところが対抗馬の曹爽は軍事的に成功せず、また側近に何アンなど、ちょっと出自が悪い人を重用し貴族たちの支持を失った。
こうした中で世論を形成する貴族たちは「曹氏に天下を治める資格無し」という考えが台頭したこと、司馬懿自身にもやはり多少の野心はあったことこれらが重なって正始の政変→魏晋革命に繋がったのではないでしょうか。
野心は絶対あります

その証拠にソウ爽一族抹殺の後、皇族達にキツイ締め付けを加えて皇帝を裸同然にしています
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=515448088&owner_id=7171215を宜しければご一読いただきたく。

 クーデター当時の司馬仲達の言動から分析してみました。
曹氏がやり放題で私腹を肥やす。
国は腐敗。← 一番の理由でしょ。
 ↓
苦々しく思う臣も大勢居た。
 ↓
司馬師、司馬昭がクーデターを企てる。根回しもやり易かった。
司馬懿は、西南戦争の西郷さん的な感じ。
 ↓
司馬師、司馬昭が実権を手中に収める。
まぁ、この時代は、恐怖政治ですね。
 ↓
司馬師、司馬昭、魏帝に帝位を司馬炎に禅譲させて、晋の皇帝に。

呉を滅ぼし、中華を統一けど、諸侯の乱や、異民族が侵攻などで、結局崩壊するのでした。
司馬懿と曹丕との関係を考えると
自分自身で魏の命脈に終止符を打つ事は気が引けたんじゃないかな。

魏という国が腐敗し皇帝の権威が弱くなり、自分にそれだけの権限と実力があったとしても友人であった曹丕が打ち立てた国を自らの手で滅ぼすのは避けたと考えられませんかね?

野心はあっても自らの手で滅ぼす事に気が引けたため、
自分が死んだ後は息子達に好きにさせたんじゃないかな?

曹叡の代までは、魏を滅ぼす事は考えてなかったと思います。
とある小説読んでてふと思ったんですが、司馬懿の息子(師、昭)がもし凡才や愚者だったら司馬一族は元より魏国は一体どうなってたのやら。
クーデターであっさり倒されて司馬一族は三族悉く処刑で魏は皇帝権力が復活で終了かな
 五丈原以降(特に、遼東遠征と宮廷クーデター)の司馬仲達の動きに注目してみました。

 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=626956138&owner_id=7171215

簡単に言ってしまえば

それが『世の倣い』

…ですかね?


普通に九品中正に賛成

これで郷族が力を増してそのまま王朝をのっとる


その最たる例が司馬懿だった

魏を簡単にのっとることが出来たのは魏の皇族に力がなかったからですね。特に軍事的な力が。曹丕が一族に力を持たせないようにかたち上の王にしてしまったのが原因では?結果として家臣が力を持っても皇族には打倒する兵力すらない状態で、最終的には皇帝すら兵力がなかったですからね。
その反動(反省?)として司馬一族は皇族に軍事力を持たせて、その結果が8王の乱ですからね。どっちがいいのか。
話題からはそれるかもしれませんが、曹操が魏帝とならなかったのは「周の文王」に倣ったという意見が通例のようですが、私はややそれに疑問を感じます。

曹操はどちらかと言えば、法家の影響を受けている人物に思えますし(唯才令など)儒とは対立しているように思えます。

その曹操がなぜ、儒の理想である「周の文王」をならったのかなあと思うわけです。そのへん、皆さんどう考えますか?

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