すべての検索結果:8件
検索条件:タイトルと本文+更新順
(院政1129〜1156) 源為義(1096〜1156) 保元の乱(1156) 藤原頼長(1120〜1156 ) 藤原忠通(1097〜1164) 源為朝(1139〜1170?) 藤原成親(1138〜1177) 俊寛
盛(1096〜1153) 鳥羽上皇・法皇(院政1129〜1156) 源為義(1096〜1156) 保元の乱(1156) 藤原頼長(1120 通憲(?〜1159) 藤原信頼(1133〜1159) 源義朝(1123〜1160) 源義平(1141〜1160) 藤原忠通(1097
・保元元年7月14日 氏族:藤原北家嫡流 父:藤原忠実 母:土佐守藤原盛実の娘 兄:藤原忠通 主君:崇徳天皇(鳥羽 天皇の第一皇子・第75代天皇) 官位:従一位左大臣 通称:悪左府・宇治左大臣 平安時代後期の貴族・廷臣。藤原忠実の次子。勤勉家。 父の藤原忠実の庇護によって兄の藤原忠通
保元の乱の首謀者・頼長の記録で、保延2年(1136年)から久寿2年(1155年)まで19年にわたる。自筆原本は失われて存在しない。保元の乱 前夜の摂関家や当時の故実を知る上で優れた史料である。頼長が稚児や舞人、源義賢ら武士や貴族たちと男色を嗜んでいたことも書かれており、当時の公家の性風俗を知る上で貴重なものとされる。 また藤原忠通
詩歌全般・日本古代史・たべもののトピック
−76− 法性寺入道前関白太上大臣(藤原忠通) わたのはら 漕ぎ出でてみれば 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ やいはん 沖つしらなみ (正徹) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 藤原忠通 ふじわらのただみち 承徳元〜長寛二(1097
織豊から徳川への歴史のトピック
3)「前九年の役」「後三年の役」・「保元の乱」「平治の乱」、そし のほとりに拠点を移して後の平泉藤原三代の基礎を築きました。 ○保元の乱 中央での藤原一族の権力は藤原道長・頼道親子の時最高を極めます。 しかし頼道が1074年に死去すると、それ
万葉集のトピック
四年(1123)、鳥羽天皇より譲位され、五歳で即位。七十五代天皇。大治五年(1130)、藤原忠通の娘聖子を中宮とした。 保延五年(1139)、鳥羽 子には後白河の皇子が立てられた。翌年の保元元年(1156)七月二日、鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇・後白河天皇は互いに兵を集め、ついに内乱に至る(保元の乱)。十一日未明、後白