大河で藤原道長が倫子と結婚する前に、もう一人の妻、明子と結婚している。だが明子は天皇家の一族、こちらも源だは安和の変で義父になる兼家の犠牲になり道長の姉、詮子の庇護を受ける数奇な人生を歩んでいる。
安和の変だが、安和2年(969年)3月、為平親王の義父に当たる源高明が冷泉天皇を退位させようとしているとの噂が流れ、謀反の密告もあり左大臣・源高明(醍醐天皇の第十皇子)は失脚し大宰員外帥に左遷され大宰府へ流された事件になる。
東宮候補が村上天皇と皇后・安子の間の皇子で冷泉天皇の同母弟である為平親王と守平親王(円融天皇)になる。為平親王が東宮となり将来即位されると、源高明が天皇の義父となり、皇子が生まれると高明は外祖父となれる、源高明は醍醐天皇の皇子で皇統の人であり、村上天皇からの信任も厚い。
藤原氏は安和の変を起こし、源高明を失脚させ、弟の守平親王(円融天皇)を、兄の為平親王を差し置いて東宮としている。
左大臣の源高明を排除するための、藤原氏の典型的な他氏(源)排斥事件だった。高明はおとなしく大宰府に下られ、藤原氏にとっては事なきを得て村上天皇は安和2年(969年)8月13日、健康上(ご不例)の都合で在位はわずか2年弱、20歳で皇太弟の守平親王(円融天皇)に譲位、8月25日、天皇は冷泉上皇となる。冷泉天皇は病気がち(精神的な病気もあったのではないかと言われている)であり、子どももいなかったため、即位してすぐに皇太子を決めることになり候補は2人。為平親王と守平親王)で、いずれも冷泉天皇の弟で兄の為平親王が選ばれると思われていたが、実際に選ばれたのは弟の守平親王。
先帝・村上天皇が崩御されて譲位を受けられてから2年3ヶ月で3年弱で安和の変で源高明を失脚させた上で、守平親王(円融天皇)に譲位し冷泉天皇は源高明の娘婿に当たる為平親王を排除して守平親王を即位させるために、中継ぎとして立てられた天皇となる。左大臣・源高明が為平親王の妃の父だったため、将来外戚となることを藤原実頼が恐れ、為平親王が選ばれるのを阻止しだが、969年(安和2年)、源満仲が謀反の恐れを密告で真っ先に疑われたのが源高明だった。
安和の変で他氏排斥を実現した藤原氏は、政治の中心に立ち、実権を握り藤原氏の権力が強くなり、他氏が脅威になることはなくなって藤原氏の内部での権力争いは起こっていく。大河では藤原道長と彼の兄の息子(藤原伊周)との権力争いになる。
今朝もブギウギを
スズ子は歌手活動から引退する決意を固め身内から話すとター坊は大反対。
大野さんと愛子はスズ子の意思尊重に。
茨田りつ子(淡谷先生)は残念ねと受け入れスズ子の決断を尊重すると
女として歌手として同志だと思ってきたと答える。
羽鳥先生の気持ちもわかると言い、歌を本当に愛しているから、歌い手は歌の一部とすら思っているからの絶縁宣言だと。
もしかしたら口パク批判が強かった淡谷先生、全身全霊で歌う笠置シズ子の限界を音楽学校で基礎から歌を学んでいるためわかっていたのかもしれない。
ター坊は最初は歌に興味がなかったけど、いつしかスズ子の歌に興味を持って励まされてきたと謝罪し自分だけでなくスズ子の歌に励まされた人は全国にたくさんいるから感謝をする必要があり記者会見を提案。
羽鳥先生は茨田りつ子に会いに行き、自分の絶縁宣言はみっともないことと認識していて、反省もしているからスズ子に引退を思いとどまらせて欲しいと
茨田りつ子はそれはできないと返事を、同時に羨ましい関係だと、羽鳥先生にとっては福来スズ子なんだと、スズ子の歌を作っているときが一番楽しそうだったと話す。
スズ子も羽鳥先生しかいないと言い2人とも存分に苦しめばいいと、笑いながら、何というか淡谷先生らしさを最後までNHKも
羽鳥夫人も茨田りつ子(淡谷先生)と同じ事をスズ子に
日記はもうとじよう
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