今月号の「レコード芸術」誌に、創刊800号記念特別付録として、「創刊號(昭和27年(1952年)3月號)」の「完全復刻」が付いてきた。ようやく読了。
これが、実に面白い。最近のレコ芸は、いくつかの連載を別にするとほとんど読み飛ばし状態なのだが [;^J^]、この「創刊號」は、隅から隅まで読んだ。65年前の時代/世相が伺われて、興趣尽きない。
何度も出てくる文章が、例えば、「今思ひ出しても残念でならないのはあのレコードをどうして焼いてしまったかといふことである」、といったもの。若い読者はわかるかな? 空襲で塵芥に帰した、と言っているのである。(まだ、敗戦後、7年だからね..)
(日本の)音楽家たちが、ようやく、勉強の手段として「レコード」を使い始めるようになってきた(これまでは、レコードなど馬鹿にして相手にしていなかった)、という文章というか報告も、複数回。隔世の感がある。
思わずポストイットしてしまった箇所を、いくつか抜き書きしておこう。(全部はとても書ききれないので、抜粋である。)
「ベートーヴェンの最も長大な、最も難しいソナタ(「ハムマークラヴィア」のこと)を新進ピアニストが臆せず吹き込んだ所に多大の興味がある。(フリードリッヒ・グルダのこと)」
「戦後に録音されたレコードの輸入がしばらく途絶えていたビクターに、再び斬新な演奏の原盤が入ってくることになった。輸入税を払って高価な盤を買える人々は別として(後略)」
「いながらにして海外の新傾向を知り得るという点で、私達は文学や映画とほぼ同じ水準に迄来たように思う。その点だけならば少くとも絵画の分野より有利になったのではなかろうか。それは寸法も色彩も実物とは大ちがいの複製印刷と、スコアで補い乍ら新型の電蓄で聴くL・Pのどちらがほんものに近いかという事に帰するが、複製印刷や翻訳文学に比べて、後者はたしかに作家の魂によりよく触れ得ると思う。つまりは生の音楽と紙一重の所まで来たという感が深い。」
しかし、もっとも感慨深かったのは、「日本でもストラヴィンスキーのファンは存外に多いし、意外な人々の中に彼の熱烈な支持者や、作品レコードの蒐集者を発見して、しばしば驚かされるのである。私の知人の中でも、高等学校の教員に一人、商店主に一人、ストラヴィンスキーの作品のレコードを全部内外を問わず、熱心に集めようとしている人を知っている。どうも音楽の専門家の方がストラヴィンスキーなどはペテン師だ、センセーショナリストにすぎないと簡単にきめつけている人が多いようである。古典やローマン派の音楽をあまりくわしく知らない一般の聴衆の方が、かえって彼の音楽の現代的で直裁な表現や、奔放なリズムを楽しんでうけいれているようである。」..なるほど、ストラヴィンスキーは、まだ、そういうポジションだったのか..
終わりの方のページで、「レコード音楽はまぁまぁの水準にきたとして、これに映像がつけば、という「夢物語」」が語られているのも、なんとも楽しい。[^J^]
廃墟通信、更新しました。
http://www.kurata-wataru.com/ruin/ruinc23c.html
(今週号の目次は、
2022年03月21日:幻想美術選「まぐろ漁」サルヴァドール・ダリ
2022年03月22日:展覧会行脚パズル/広域停電回避
2022年03月23日:自転車出勤失敗 [;_ _]
2022年03月24日:自転車症状出ず [;^.^]
2022年03月25日:新メアド確保
2022年03月26日:ミロ展/RECORD展/ポンペイ展
2022年03月27日:「奇想のモード」展
です。)
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