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2020年07月15日00:09

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7月15日の日記

今日の出来事:1099年−第1回十字軍、エルサレム攻囲戦:十字軍によりエルサレムが陥落しエルサレム攻囲戦が終結、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が新庄に到着、1868年−会津戊辰戦争:第六次白河攻防戦、1868年−箱根戊辰戦争:箱根湯本の戦い、1868年−北越戊辰戦争:見附の戦い、1888年−磐梯山が大噴火、小磐梯の山体崩壊により発生した泥流などにより477名が犠牲となる、1945年−第二次世界大戦:室蘭艦砲射撃:北海道室蘭市がアメリカ海軍による艦砲射撃により壊滅状態になる、1949年−三鷹事件、中央線三鷹駅構内で無人電車が暴走し民家に突入、1983年−任天堂が家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータ(ファミコン)を発売

今日は、第1回十字軍、エルサレム攻囲戦です。第1回十字軍は、ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地・エルサレムの回復のために始められた軍事行動です。長い戦いの旅の末に、十字軍はついにエルサレムに到達しました。兵士らの多くは、ようやく見る事のできた聖都に涙しました。十字軍は攻城戦の準備を始めました。しかし、食糧と水の不足に見舞われて、十字軍兵士は包囲される市民以上に飢えや渇きに苦しみました。諸侯の十字軍に参加した騎士5000人のうち、残っていたのは1500人ほどで、歩兵も30000人ほどいたうち12000人ほどが健康で残っているだけでした。ゴドフロワ、フランドル伯ロベール、ノルマンディー公ロベール(彼もレーモンが率いる軍団を去り、ゴドフロワの軍団に合流していた)らは市の北側をヤッファ門近くの城塞「ダビデの塔」付近まで包囲し、レーモンらは陣営を市の西側に置き、ダビデの塔からシオン山まで包囲していました。そして、城壁への直接攻撃を行いましたが失敗に終わりました。水も食糧もなく、十字軍側は馬も人間もばたばたと死んでゆき、不利を悟り始めました。最初の攻撃が失敗したその時、ジェノヴァ共和国のガレー船2隻がヤッファ港に入港し、補給を行う事ができました。十字軍は同時に、サマリアから攻城塔を組み立てるための木材を徴発し始めました。しかしなおも食糧と水は不足していました。そして、エジプトからファーティマ朝の軍隊が北に向かって行軍している事を知りました。絶体絶命の危機にあった十字軍の士気をよみがえらせたのは、ペトルス・デジデリウスという司祭が幻視を体験したという話をした時でした。教皇使節アデマールの霊が彼のもとに現れ、ヨシュアがエリコの城壁を崩した故事にちなんで、3日間の断食の後、裸足で市壁の周りを行進すれば、9日以内に城壁は崩れると告げたのでした。十字軍は3日間の断食(すでに食べるものはなかった)を耐え、エルサレム城外を巡る裸足の行進を行いました。これが「裸足の行列」と呼ばれる事になります。聖職者がトランペットを吹きならし、兵士らが讃美歌を歌って歩く奇妙な光景に、エルサレムの守備兵は当惑し嘲笑しました。行進はオリーブ山で止まり、隠者ピエール、アルヌール、レーモン・ダジールらによる説教が行われました。攻城戦の間、十字軍によって城壁に対する攻撃が何度となく行われましたが、すべて撃退されていました。グリエルモ・エンブリアコが率いるジェノヴァ共和国の部隊は、ヤッファで乗ってきた船を解体し、その木材で攻城兵器を作り上げました。攻城塔は城壁に近づき何度も攻撃を加えましたが、イフティハール・アッ=ダウラが率いる守備隊はギリシャ火(石油と硫黄を混合したもの)を攻城塔に浴びせかけ、攻城塔やその上の兵士を炎上させました。7月14日の夜にはジェノヴァ軍の攻城塔が城壁に近づき、守備兵を驚かせて注意を引きました。翌7月15日の朝、守備隊が南側の城壁で攻城塔を焼き払っている頃、イフティハール・アッ=ダウラのもとに、もう一つの攻城塔によって北から市内に侵入されたという伝令が届きました。ゴドフロワの率いる攻城塔が、エルサレム市北東角の城門近くに接近して兵士を城壁に立たせる事に成功したのでした。フランドルのトゥルネーの騎士レタルデとエンゲルベルトの兄弟が城内一番乗りを果たしました。さらにゴドフロワ、その兄弟のブローニュ伯ウスタシュ、タンクレードらが部下とともに城内に突入しました。レーモンの率いる攻城塔は濠に足場を取られて進めませんでしたが、十字軍が市内北部から次々侵入しているという事態に、守備隊はレーモンに降伏して門を開けました。イフティハール・アッ=ダウラら残された守備兵と市民は、市の西の要塞「ダビデの塔」に立て籠もって戦い続けましたが、レーモンから降伏すれば助命すると勧告を受け、降伏しました。しかしその頃、すでに市内では市民に対する殺戮が始まっていました。ムスリムの市民の多くは、アル=アクサ・モスク、岩のドーム、神殿の丘などに逃げましたが、殺戮されました。ユダヤ人の守備隊や市民はシナゴーグに逃げましたが、建物ごと火を放ち、中の全員を焼き殺しました。こうして、エルサレムの占領と聖墳墓(キリストの墓)の奪回によって、十字軍は目的を達成しました。

次に、奥の細道:松尾芭蕉が新庄に到着です。山寺を見学した芭蕉は、新庄へ向かいました。最上川を舟に乗って下りました。仙人堂が川に面して建っていて、青葉の隙間から「白糸の滝」が流れ落ちるのが見えました。ここで芭蕉は、この名句を詠みました。「五月雨を あつめて早し 最上川」(数々の山川から五月雨を集めてきた最上川は、ここに至り、更に両岸の山から直接水を集めて満ち満ちて、滑るような勢いで流れていく。)

その次に、会津戊辰戦争:第六次白河攻防戦です。伊地知正治が率いる隊が籠る白河城に、列藩同盟軍は白河城奪還のために、再び総攻撃をかけました。しかし、再び撃退されました。

その次の次に、箱根戊辰戦争:箱根湯本の戦いです。上野の「彰義隊」に呼応して蜂起した、脱藩大名・林忠崇や伊庭八郎、人見勝太郎が率いる「遊撃隊」は小田原城へ入城しました。しかし、「遊撃隊」が箱根を奪取した報は、小田原より脱出した三雲種方によって江戸へ伝えられました。大総督府は参謀の穂波経度を問罪使とし、その下に長州・津・鳥取・岡山の4藩兵からなる問罪軍を編成して小田原に急行させました。この時、江戸に在った小田原藩士が、急いで藩に帰り、「彰義隊」の壊滅(上野戦争)と問罪軍の編成を伝えました。小田原藩主・大久保忠礼は、再び新政府への帰順を決めると、寺に入って謹慎してしまいました。この時、人見勝太郎は江戸湾の品川沖にいる、旧幕府軍艦「開陽丸」に加勢を求めにいっていたため、不在でした。伊庭八郎と林忠崇は軍議の結果、「遊撃隊」は湯本に降りてそこに本陣を置き、第1軍と第2軍は小田原寄りに進出して山崎に布陣する事になりました。問罪軍が小田原に到着すると、小田原藩に恭順の証として独力で「遊撃隊」を攻撃するよう命じました。こうして小田原藩は出兵し、昨日までの友軍を討つ事になりました。小田原藩の背信行為のため怒りに燃える「遊撃隊」は、小田原藩兵を圧倒しました。しかし、後方に控えていた問罪軍が加勢を始め、日没近くに山崎の陣地に突入すると占領しました。この戦いで、第2軍隊長・伊庭八郎が重傷を負いました。問罪軍が戦闘加入すると四面皆敵となり、伊庭八郎は包囲を脱して三枚橋に至りました。この時、追撃してくる敵兵を味方と見誤り、不用意に近付きました。そして、腰に銃弾が命中したところに敵が走り寄って、伊庭八郎の左手首を斬り落としました。しかし、続けて襲いかかった敵数人を片手で斬り倒し、三枚橋に仁王立ちとなりました。敵兵はこれに驚いて、近寄ってきませんでした。阿修羅の如きこの姿はやがて江戸へ伝えられ、「伊庭八郎は百人斬り。しかも片手でやった」という噂となりました。こうして隻腕の剣士・伊庭八郎が誕生しました。「遊撃隊」は全軍関所に入って、今後の方針を検討しました。全軍退却に決定し、箱根から間道を降りて熱海へ出ました。ここで戻って来た人見勝太郎と再会しました。伊庭八郎は怪我の治療を受けた後に榎本艦隊に投じ、蝦夷地へ向けて出帆しました。しかし、銚子沖で乗船「美賀保丸」が座礁しました。救出された伊庭八郎は、友人らの協力を得て横浜からイギリス艦で箱館へ向かい、歩兵頭並・遊撃隊隊長・隻腕の剣士として「箱館戦争」を戦う事になります。この後、脱藩大名・林忠崇と人見勝太郎が率いる「遊撃隊」は旧幕府の運送船「長崎丸」に乗って、小名浜港に上陸して新政府軍と「磐城戦争」を戦う事になります。

そのまた次に、北越戊辰戦争:見附の戦いです。列藩同盟軍は「加茂軍議」により、全軍を3つに分けて長岡奪還戦を開始しました。米沢藩兵を加えた見附方面軍は、米沢藩参謀・甘粕継成が指揮を執り、斉藤篤信大隊・大井田修平大隊・衝鋒隊(木村大作・松田政太郎等が指揮)の3隊が加茂を出発しました。見附攻撃の第一陣として斉藤篤信が率いる隊と衝鋒隊が向かいました。この時、見附を守っていたのは薩摩藩外城四番隊(隊長・中村源助)でしたが、列藩同盟軍の接近を見て小栗山に陣を設けました。列藩同盟軍は正面から米沢藩兵が攻め、戦慣れした衝鋒隊が迂回して外城四番隊を包囲すると、外城四番隊は支えきれずに撤退しました。こうして小栗山を奪回した斉藤隊と衝鋒隊でしたが、この戦いで弾薬を撃ちつくした為、衝鋒隊は後退しました。しかし、新政府軍の薩摩藩城下士小銃隊十番隊(隊長・山口鉄之助)と同外城三番隊(隊長・有馬誠之丞)と、長州藩奇兵隊二番隊(隊長・久我四朗)、松代藩五番狙撃隊(隊長・祢津丈三郎)が援軍に駈けつけ、撤退した外城四番隊も加えて米沢藩兵の守る小栗山に攻撃を開始しました。甘粕継成は、薩摩藩兵の砲撃の前に小栗山を撤退しました。その後、会津藩朱雀隊寄合二番隊半隊(半隊長・山田陽二郎)と、大道寺源内が率いる山形藩2小隊及び砲1門が来援した為、これらの兵力と米沢藩兵による再攻勢が行われる事になりました。大面村で新政府軍を撃破し、小栗山と小栗山西方の指出村に布陣する新政府軍に攻撃を開始しました。この方面は一進一退の攻防となり、新政府軍(薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵)を引き付ける事になり、この後の河井継之助の時間差攻撃「今町の戦い」の勝利に繋がる事になるのです。

そのまた次の次に、磐梯山が大噴火です。磐梯山は、会津富士とも呼ばれる日本百名山の1つです。噴火当日の午前7時頃に地震が発生しました。地震はその後も続きましたが、午前7時45分に噴火が始まり20回程度の爆発の後、小磐梯山北側の水平方向への爆発的噴火で山体崩壊が発生しました。発生した爆風と岩屑なだれにより、北麓の集落(5村11集落)が埋没するなどの被害を出し、477人の死者を出しました。また、長瀬川とその支流がせき止められ、土石流や火山泥流が下流域に被害を与えました。このせき止めにより磐梯三湖(桧原湖、小野川湖、秋元湖)や五色沼をはじめ、大小さまざまな湖沼が形成されました。今では福島屈指の観光地である「裏磐梯の景観」は、この噴火によって誕生しました。この噴火は明治になってからの近代日本初の大災害であり、政府が国を挙げて調査、救済、復旧を実施しました。その結果、この地は「磐梯高原」と呼ばれるようになり、「磐梯朝日国立公園」に指定されて一大観光地となったのです。

さらに次に、第二次世界大戦:室蘭艦砲射撃です。アメリカ海軍機動部隊は、日本本土に対する大規模な攻撃作戦を行いました。前日の7月14日に「北海道空襲」があり、室蘭も攻撃目標となりました。室蘭沖では「第65号海防艦」と「第74号海防艦」、貨物船「第1雲洋丸」が撃沈され、貨物船4隻が損傷しました。そして、この日アメリカ艦隊は第34任務部隊から第34.8.2任務隊(司令官:オスカー・C・バジャー少将)を分遣し、室蘭に対して艦砲射撃を加えました。「アイオワ」、「ミズーリ」など戦艦3隻のほか軽巡洋艦2隻、駆逐艦8隻、計13隻の主砲による艦砲射撃が行われ、1000発以上の砲弾が各工場や住宅地に着弾しました。その結果、市内が壊滅状態となる甚大な被害が生じる事となりました。日本製鋼の砲身工場は完全に破壊され、その他の工場も3日〜10日間に渡って操業停止に追い込まれました。485人の犠牲者を出しました。現在、室蘭八幡宮など市内数カ所には慰霊碑が建立されており、艦砲射撃が行われた日には多くの関係者が慰霊に訪れています。

さらに次の次に、三鷹事件です。「下山事件」、「松川事件」と並ぶ「国鉄三大ミステリー事件」の一つです。国鉄三鷹車庫(現・三鷹車両センター)から7両編成の無人電車が暴走しました。三鷹駅の下り1番線に進入した後、時速60km程のスピードで車止めに激突し、そのまま車止めを突き破って脱線転覆しました。これにより、脱線転覆しながら突っ込んだ線路脇の商店街などで、男性6名が電車(国鉄63系電車)の下敷となり即死し、負傷者20名が出る大惨事となりました。捜査当局は全国ストライキを起こし、それを契機に革命を起こすという動機で、国鉄労働組合(国労)組合員の日本共産党員10人と、非共産党員であった元運転士の竹内景助による共同謀議による犯行として彼らを逮捕しました。そのうち、共産党員1人はアリバイが成立したため、不起訴として釈放されましたが、残りの共産党員9人と竹内景助が起訴され、さらに2人が偽証罪で起訴されました。1950年、東京地方裁判所の鈴木忠五裁判長は、非共産党員の竹内景助の単独犯行として無期懲役の判決を下し、共同謀議の存在を「空中楼閣」と否定してその他を無罪としました。これに対して検察は、全員の有罪を求めて控訴・上告しましたが、竹内景助以外については無罪が確定しました。1951年、竹内景助の控訴審で東京高等裁判所は、検察側控訴を受け入れて書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、死刑判決を言い渡しました。弁護人は、無罪の主張と被告人の顔も見ぬまま死刑に変更する事の非道を訴えて、最高裁判所に上告しました。最高裁では口頭弁論も開かれないまま、1955年6月22日に死刑判決が確定しました。ところが、これが8対7の1票差であったため物議を醸しました。以後の最高裁の死刑上告審理では、口頭弁論を開く事が慣例となりました。竹内景助は死刑判決後も、文藝春秋誌に陰謀説を訴える投稿をするなど、無実を訴え続けました。しかし、1967年に脳腫瘍のため45歳で獄死しました。

最後に、ファミコン発売です。「ゲーム&ウオッチ」で成功した任天堂が、その利益を使って開発したゲーム機です。本体と同時発売したゲームソフトは「ドンキーコング」、「ドンキーコングJr.』、「ポパイ」の3本です。追加投入されたゲームは「五目ならべ」、「麻雀」、「マリオブラザーズ」、「ポパイの英語遊び」、「ベースボール」、「ドンキーコングJr.の算数遊び」というアーケードゲームからの移植作が中心で、1年間で300万台以上を販売しました。十字ボタン、A/Bボタン、START、SELECTボタンをそなえたコントローラを、本体に直接接続した形で2個搭載、横長の板状で左に十字キー、右にボタンを複数個配置した形態は、その後のゲーム機のコントローラの標準的な形となりました。初期に製造されたコントローラーはA・Bボタンが四角いシリコン樹脂(シリコンゴム)製だったため連打がきかず、ボタンを酷使するとシリコンゴムがちぎれてボタンが抜ける問題があり、後に丸いプラスチック製のものへと改良されました。また、コントローラII(IIコン、ツーコン)にはマイクを搭載しており、ある一定以上の大きさの音声が入力されているかどうかをソフト側で判別できました。この機能を利用した主なゲームには「バンゲリングベイ」、「スターラスター」、「たけしの挑戦状」、「ゼルダの伝説」、「ドラえもん」、「スターソルジャー」、「ファミリーベーシック」などがありました。翌年に「ピンボール」、「ロードランナー」、「ギャラクシアン」、「パックマン」、「ゼビウス」などの人気アーケードゲームが続々移植され、さらに決定付けたのは、翌々年「スーパーマリオブラザーズ」の全世界での大ヒットでした。家庭用ゲーム機の市場を大幅に拡大させ、全世界累計で約6291万台を記録しました。

今日の誕生日:一条天皇(第66代天皇)、ミル・マスカラス、小池百合子、マリオ・ケンペス、瀬古利彦、笠松美樹(元Sugar)、長沢久美子(元Sugar)、柱谷哲二、三浦泰年、今野登茂子(元PRINCESS PRINCESS)、永瀬正敏、比嘉栄昇(BEGIN)、RYO−Z(RIP SLYME)、柴田英嗣(アンタッチャブル)、北原雅樹(元グレートチキンパワーズ)、帆足和幸、藤井美菜、柏木由紀(AKB48、元フレンチ・キス)、久住小春(元モーニング娘。)、橋本良亮(A.B.C−Z)、森本慎太郎(SixTONES)

今日の記念日:盆、中元、大阪港開港記念日、博多祇園山笠、ファミコンの日、夏チョコの日、ホッピーの日、発泡スチロールの日、世界ありがとうの日、マンゴーの日

今日の「今日訓」:本日は、「盆」です。「盂蘭盆会」の略で、昔から正月に次ぐ行事として行われてきました。祖先の霊を慰めるために行われています。祭壇に胡瓜や茄子で牛や馬の形を作り供えますが、これは先祖の霊が馬に乗り、牛に荷物を引かせて帰ってくると信じられていたためです。さらに、「三元」の一つ「中元」です。1月15日が「上元」、7月15日が「中元」、10月15日が「下元」です。上司、恩人などに贈り物をし、日頃の感謝を表す日です。「海の日」から夏の到来を告げる日として「夏チョコの日」、発泡スチロールは日本の食生活に欠かせない海の恵である魚介を運ぶ容器である事から「発泡スチロールの日」、1868年、安治川の河口に大阪港が開港した事で「大阪港開港記念日」、1948年に「ホッピー」の製造販売を開始した事で「ホッピーの日」、1983年に任天堂が家庭用ビデオゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売した事で「ファミコンの日」となりました。収穫の最盛期を目前に控えた日である事から「マンゴーの日」、1999年に「OKWave」が創業された日で「世界ありがとうの日」、700年以上の伝統のある祭「博多祇園山笠」のクライマックス「追い山」です。一番山笠が午前4時59分にスタートします。
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