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2020年03月31日06:56

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さらば笑弾の射手

家内が職場で仕入れてきた話によれば、今般のコロナ騒動のなかで場所も店名もわからないがあるドラッグストアで不手際がありあわや警察沙汰になったことがあるそうだ。
そのストアでは広告チラシで「マスク入荷しました!」と打って出たのであったが、なにがどうしたか店側の販売スタッフの人員不足により当日朝になってマスク目当てに行列を作っているお客さん方に対して、

「人員が確保できなかったために急で申し訳ありませんが、マスクの販売を中止させていただきます!」。

としたそうである。せっかく朝早くやはるばる遠方から来て並んでいたお客たちは当然がっかりすることとなり、なかには激怒する人もいたそうであるが、そのなかで男性老人が激しく怒り狂って店員とあわや取っ組み合い寸前となり終いには店員側になんと言ったのかわからないが恫喝まがいの発言をして警察を呼ぶ始末になったとのことである。

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話半分にしてもこれは店側の不備を叫ばれても文句は言えないであろう。どうして他の商品の販売が滞ってでもマスク販売専用レジにスタッフひとりだけでも割いて長蛇の列のお客に対応できなかったのであろうか。まさかレジが一台だけの店ということもあるまい。おそらく店長が無能だったのであろうが、世間はそれだけマスクを渇望するほどに切迫し追い込まれているということである。用心したい。

前置きはこのあたりにして昨日はやはりこのお方の訃報に尽きる。志村けんさんがお亡くなりになってしまった。

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昨晩のニュースでも今朝の紙面でもその訃報を大きく扱っていた。世間に与えた衝撃も大きく、かの有名人の罹患重篤症状悪化による致死に対して世の中はここへきてようやく新型コロナウィルスの恐ろしさを認識あるいは再認識させられたということになろう。

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実際ニュースで専門家はこの病気重篤化してから致死に至るまでの進行の早い死病であるとしており、世間の多くはまさかそんなにもと思っていたようである。
東京都小池知事は志村さんは最期にかようなメッセージまで遺していかれたと語っておりああ確かに悲しい功績であるなと僕も感じさせられた。

ここからは志村さんについて振り返りたい。ドリフターズで荒井注さんと入れ替わり志村さんがメンバーとなったのは74年とあるから僕が8歳で彼が24歳の時であった。
メンバーでも辛気臭い年より扱いだった荒井さんから動きと威勢のいい若い志村さんに交代したことでドリフは若返りを図ることに奏功し、ドリフも志村さんも一緒に人気を高めることとなった。実際器械体操コントでの志村さんの動きはメンバー内でも仲本工事さんとタメ張る良い動きであった。

そこからはご存じのとおりヒゲダンスやら東村山音頭など志村さんを中心になされるコントは百発百中のおもむきあるすごい勢いと精度を感じた。なんだか僕には志村さんを笑いの狙撃手のように思ったものだった。

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時代は平成に入りメンバーの高齢化が気になる中でもひとまわり若い志村さんのフットワークは軽く人気を堅持していたものだった。変なおじさんやあいーんやバカ殿さまなどこちらも撃てば返すといった勢いがあり凄かった。老若男女みなが志村さんに笑わされたものだった。

僕がまだ会社員で営業車に乗ってラジオを聴いていた頃なのでもう四半世紀くらい前になろうか。ニッポン放送でたしか夕方からの「うえちゃんのヨッ!おつかれさん!」だったと思う。ゲストに加藤茶さんと志村さんが招かれておりライブ放送のスタジオは鼎談になっていた。

そこで加藤さんと志村さんが声を揃えて言っていたのがコントに対する彼らの基本原理についてであり興味深かった。
もっぱらビートたけし師匠のような時代を汲み取ってのおしゃべりトークが重宝されていた時代にあってなお、ドリフの笑いの基本は「うごき7割おしゃべり3割」としており、アクションで笑わせることの大切さを説いていた。

そして言っていた。ことばはその国の人にしか通じないが、動きで笑わせれば万国共通で世界の人を笑わせられるのだ、と。ああこの方たち実は志が高かったんだなあと知り夕方営業帰りで疲れた身体になぜかその話というか教えが身に沁みたものだった。

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AP通信ほか海外メディアでも志村さんの訃報が報じられたらしく、ある国では日本の爆笑王が亡くなったとあった。やはり世界に通用するコントであったのだと思い知らされた。

喜劇王チャプリンしかりあのMr.ビーンしかりそして世界的アニメの「ひつじのショーン」しかり。世界に通底する面白いものはすべからくセリフがほとんどない。ドリフの皆とくにリーダーのいかりや長介さんはそれをよ〜く心得ていてその教えをメンバーに踏襲浸透させていたということであろう。

そしてその教えをかたくなに守り続けてなおかつ自分流に進化させて志村さんは平成の時代でも爆笑王であり続けた。これはビートたけし師匠とはまた一線を画すすごいことであったと思う。

さいきんではNHK総合で「となりのシムラ」という単発のコント番組を発信しており、そこではさすがに高齢となった自身にあわせるようにことばを駆使したちょっとおとなの味付けのコントがなされており僕はそれも好きだった。
直近では昨日から始まった朝ドラでも出演予定があり、また自身初主演の映画撮影の予定もあったとあり、なんとも残念で惜しまれる。

家内の話によれば志村さんたいへんなヘビースモーカーであったようで、それがために肺病に対抗できず無念となったのではなかろうかと聞いた。なれど4年前から禁煙していたようだ。まだ肺は回復途上だったのであろうか。
だからと言って僕は世間の愛煙家の皆さんにいますぐ禁煙しろというようなヤボは言わない。家庭ももたずプライベートの友達は酒としていた志村さん。タバコもまた大切なパートナーだったに相違ない。

独身を貫いていたのも彼の生き方だ。配偶者さえいればもちっと長生きしていたかもしれないがそれは単なるタラレバの話だ。万人の笑いを誘うための孤独の試練もまた彼の持ち味だったのかもしれない。

いまはただ志村さんのご冥福を祈りたい。冥界でいかりやさんと当時の苦労話でも語りつつお互い一献傾けて楽しく過ごしてほしいと思う。
志村さん、本当にお見事でした。おつかれさまでした。そしてどうもありがとうございました(´;ω;`)ウゥゥ。

昨日の夕飯。

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鳥取のNくんから贈ってもらった牛骨ラーメンにハマケイの焼き鳥にこれまた昨夜急きょかつての草野球仲間であったAさん宅から譲っていただいたナマコの酢の物である。本当は休肝日であった昨日は志村さんの野辺送りと理由をつけて飲むこととした。家内曰くなんでも理由つけて"(-""-)"とちと怒り気味でありました。かあちゃん許せ(>_<)。
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