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2019年11月24日06:36

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あの日なに着てた?

昨日は勤労感謝の日の旗日だったのでNHKでは「インタビュー ここから」を放送しておりここからとはいうにもかかわらずかなりのご老体のこのお方の登場であった。

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大家の漫画家であのトキワ荘の一員でもあった藤子・A・不二雄先生である。御年85歳ながらまだまだご健在であり現在故郷の富山ではご自身の展示会を開催しており精力的である。その先生のお話が心に刺さった。

藤子A先生子供の頃は背が低いため起立しているのに担任教師から早く立てなどとからかわれたり、あがり症のせいですぐ赤面するのでその顔の赤さを「電熱器」などと呼ばれて不遇の日々を送っていたそうだ。

なれどそれをバネに反骨心を燃やして「魔太郎が来る」や「笑うセールスマン」といった人の心の闇を描いた漫画を世に問うて自身のフラストレーションやストレスを発散してきたとあり漫画家は職業ではなく自身を鼓舞するツールであったとありああ大家であってもそうだったのかと感銘した。A先生には「忍者はっとりくん」の人気作もありやはり大物は屈折をバネに多様性に富む生き方ができるのだなあと手本にしたく思った。

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先生現在は上記のような黒い作品と対極の現在あれこれ悩みの多い老人たちを励ますホワイトな作品に着手したいとありその旺盛な意欲にも驚嘆した。A先生。ぜひ新作を上梓なさってください。

昨日の日記では廉価なファッション店に背中を押されてのいい歳こいての若作りをものしたがそれはいまの話だ。そして小さい頃の自分の着てきたものを思い出したりした。
我が家のチビたちがそうであるように子どもが小さいうちは親が子どもたちの衣類を選んで買い求めて着せてあげるのがまあふつうだ。まだチビたちに自身の衣類を選ぶ能力も財力もないからである。

僕も小学校まではそうだった。子供に無頓着な父はカヤの外だったのでもっぱら僕ら子供の着る服を田舎育ちで生まれの古い母が決めて選んでいた。これが子ども心にもセンスの疑われるものばかりを選んでは無理に着せられていたのであれがたいへん苦痛であった。

母は若い頃に洋裁和裁の両方を学んでいたのでその心得があり、僕らに手編みのセーターをせっせと編んでは出来上がったそれを僕らに無理やり着せるのであった。
編んだ毛糸玉というのが純毛100%といった高価なものではなくむかしでいう化繊の混紡の安物だったので出来上がりの質感がなんともチープで安っぽくおまけに着心地もゴワゴワケバケバしていて悪くなおかつものが大きく膨らんで重かったので着させられてこれまたたいへんな苦痛であった。

なので出来上がりのセーターを母から渡されるとその時はにこりと笑ってありがとうと言ってあげたがまず袖を通して出かけたことはなかった。洋服ダンスの奥に無理やり押し込んでしまったものだった。しばらく経ってほとぼりがさめた頃に一着ずつゴミに出したものだった。

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上記写真のこれなどはプロの手編みでおそらく一着数万円もするセレブなものであろう。当時こんなのを着たかったものだった。いまは温暖化の暖冬なのでいいけど。
まあ母がそんなせいなのと元来の遺伝であったろうか着衣のセンスというものが若い頃の僕にはなく自身で選ぶ衣服といったものはサイズと丈夫さが優先でありただそれだけであった。特に第二次独身時代などは昨日の日記にあるように仕事着の背広以外は裸でなければなんでもよいであろうくらいのひどいものであった。背広選びも適当だった。

いまの家内になってから身なりは身ぎれいにした方が良いとかこちらの色や柄の方があなたに似合うとか言ってくれるのでちょっとは着るものに頓着するようになってきた。
そしていまやせっせと廉価服の着回しである。まあこれはタバコやめて酒も中断しているからそちらにお金を投下できるようになったというのもある。おかしいよね。ロクにお出かけしないのに。

まあ誰かに害をもたらすものではなし街中の乞食のような汚い恰好してエヘラエヘラしている半分ボケかかった老醜老人のようにはなりたくないので50の手習いオシャレも悪いものではないと思う。パチスロなどのギャンブルも足洗ってだいぶ経つしね。
一曲。



一昨日からの雨が続いて今朝も雨だ。昼にはあがって晴れるらしいが長女めぐみのお熱が下がらないでいる。今日予定していた兄との墓参と昼食会は流局後日延期であろうか。

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