中越地震から15年・・・
地震の翌年初めて復興祈願の為フェニックス花火があげられた。今年も新しいバージョンでブルーフェニックスが沢山舞いました。
全国に報道された山古志は直されて、道行く途中に目に飛び込んで来ていた傷跡は随分消えました。ただ、元通りに戻った住民は半分?
あの頃山古志から長岡に牛を運んで来ました。
ヘリコプターで運ぶと聞いていました。
時々被害はどんなか?
小学生、中学生、高校生は学校が休みになっていたので男の子達ですからゲームばかりの毎日。
少し余震も減ったので、家族で買い物がてらに周辺を見てくるか?
丁度ここに牛を運んでいる・・・私が今はしょっちゅう出掛ける山の駐車場。
下の田んぼの際が、少し地割れしていた記憶。
夕陽を映して綺麗に見えるあの田んぼ周辺。
たまたまヘリコプターが飛んで来ました。
牛はどんなにか怖かった事でしょう。突然空中に吊り下げられて運ばれて来たのですから。
ずっと鳴いていました。
子供達の学校・・・
小学校は建物に被害が出ていました。
中学校は地域の避難所として体育館が使用されていました。
高校も、市内の県立高校は全部体育館を避難所として提供していたためしばらく学校が休みになったのです。
電気、ガス、水道・・・止まりました。
家は幸い電気は本震の時の1時間止まったかな?位ですぐ復旧してテレビを付けっぱなしで情報とってうました。ケーブルテレビが市内を走り回ってあちこちの様子を流していました。
電話も勿論止まりました。
携帯も殆ど繋がらない。山形に居た娘に連絡取れなくて、不安だろうと案じましたが・・・なんと翌日?友人に実家は大丈夫?大変だたね?
言われて何?
そこで初めて知った・・・慌てた・・・笑い話です。
水道・・・夜中には止まりました。
丁度義父がお風呂に入りに来るからタップリ溜まったままでした。トイレは代表。
止まる前にありったけ水を溜めたからまあ1日位は何とかなる?
朝には最初真っ黒かったけど使えるようになった。
ガスは1ヶ月程復旧に掛かりました。
幸い義父母の住まいはプロパンガスなので時々使わせて貰い、キャンプ用のコンロとカセットコンロ使いながらしのいでいました。
お風呂はしばらくガマンして・・・が、ガマン出来なくなっては、低価格に支援するスーパー銭湯利用。家が住めるレベルだから無料解放しているアチコチのお風呂の情報は知っていたのですが、本当に厳しい被害を受けていらっしゃる方が優先されるべきと考えていました。
友達からはどこそこの無料解放のお風呂行って来たよ
ってお知らせ来ました。
今日は地震の起きた時間に黙祷しようとテレビを付けていたけれどその時間に触れて放送したのは1局だったみたいです。
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