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2019年04月21日22:49

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力比べ

■賛否両論の帰化 白鵬が心に秘める相撲への“真実の愛”と“覚悟”
(AERA dot. - 04月21日 16:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=5590468

 江戸時代から徐々に競技としての形態をなしてきた大相撲だけど、原型はもっともっと古くからのものなんだろう。

 赤ちゃんがみんな元気に育つわけでもなく、誰もが腹いっぱいに食えたわけでもない時代に村一番の健康優良児を村人みんなで育てて力の象徴として大きくして別の村の力士と相撲を取って力比べをする。力士はそれぞれの村でみんながくれる物や気持ちを、ごっつあんです、と言ってありがたくいただいてその分精進して大きく強くなる。応援してくれる村人谷町のために強くなる。

 もともとそんな力比べの場が大相撲だったんだろうと自分は考えている。

 食べ物と体力、裸の人間の単一な力というのは豊かさの象徴だったはずで、豊かさは神からの恩恵の象徴でもあったはず。人間がどれぐらい大きく強くなれるものなのか。その期待に応える力士の心情はまず感謝でありそして挑戦であったはず。自分の強さはみんなに支えられてのもの、神様が授けてくれるその年の作物によって体は育つ。土とつながる食べ物と力の実感を力士は人々の心を通じて直接的に知っていただろうと思われる。今の世の中でそのことを同じように感じようと思っても豊かすぎる時代の食べ物は広く一般人にも十分に行き届いていてその気になれば力士と同等かそれ以上の体を誰もが造り上げられるほどの豊かさが溢れてこぼれて床いっぱいなので明確に自覚することは難しいものとなっている気がする。当然のように栄養が目の前に並ぶ現代の相撲は誰のためのものになったのか。

 大相撲に限らず、個人同士が個人の責任で競争を営む暮らしが普及する日本は豊かになった。そのせいで様々な因果や形の意味は形骸化して中身が伝わらない時代にもなってしまった。

 横綱らしさを問われても誰も横綱がどういうものなのかわからない。強ければそれでいいのか。勝てばそれでいいのか。これだけ食べ物をはじめ物質が豊かになって暮らしが技術によって楽になって来ると力士の強さが一体何なのかがわかりづらくなる。大相撲という場を与えられなくてもみんながそれぞれ腹いっぱい飯を食ってそれぞれの大相撲へ挑戦することが出来る時代になったのだから。健康を保つのに精いっぱいだった時代に栄養を集められて選ばれて力比べをしていた時代とはかけ離れて全員が健康までを手に入れてそれぞれに競争する時代。別に力士の姿に夢を託さなくても自分の人生そのものに夢を見ることが出来るのだ。


 白鳳も頑張っている。


 それが、今の一億総競争時代の横綱。 そして結果がすべて。


 競争するのが一般的になって久しい時代の大相撲がどこへ行くのか知らないけれども、本当の人間の強さを象徴する横綱を力士たちが目指す大相撲になってもらいたい。


 
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