mixiユーザー(id:14921690)

2018年09月23日07:13

346 view

私の名前は日本です

昨夜は餃子を焼いて食べた。

フォト

ここのところチビたちの餃子への食いつきがあまり良くなかったので昨日も不安を抱えながらの夕餉であったが杞憂でありチビたちよく食ってくれた。といっても彼女たち信じがたいことに毎度まいど餃子の皮だけ食べて中身は食べないのである。ナゼニ皮だけなのであろうか判らないがそれでも喜んで食うてくれるだけありがたい。いずれ餃子の王将のCMの彼のようにワンバン食いをしてくれる日も来るであろう。ちなみに今日のお昼はソース焼きそば、夕飯はカレーライスです。

A日新聞の掲載「語る」はご高齢の著名人の半世紀をご当人から語ってもらいそれを記事にしたものであり有名なところでは日経の「私の履歴書」や読売の「時代の証言者」がありA日がそれらに対抗するものである。東京新聞では「この道」と題して掲載している。
先日までは詩人の谷川俊太郎さんの掲載でありその半生のデタラメぶりには呆れつつもすごいと思った。離婚三回は立派とは言わないが結婚を三回もしたのはやはり情熱的な人となりの証拠だと思う。

そして先日から始まったのが満を持しての作家大家である五木寛之先生である。五木先生といえば日刊ゲンダイでいまもなお連載している随筆「流されゆく日々」が有名でありたしか数年前に連載を一万回超えたとあるから大したものである。
僕五木先生の作品は一作だけであるが読んだ経験がありそれは先生の出世作であり代表作でもある「青春の門」だ。初編の「筑豊編」から「再起編」まで読んでおりその後は未読でありまた作品自体も未完である。
この作品を読んだきっかけはこれの文庫計12冊を頂戴したためである。
これを僕にくれた人。それが今日の話である。

フォト

中学二年生の時の担任の社会科の中年女教師は頭が悪いだけでなく性格も狭小な人でありまったくのダメ人間であった。そのためこの教師には何も期待していなかったもののああどっかに消えてくれないかなあと僕だけでなくクラス中の皆がおそらく祈っていたものだった。

だがその祈りが届いたかこの女教師は体調を崩し長期病休を余儀なくされたのだった。代わりの代理担任となったのが数学の担任をしていたこれまた女性教師のA先生だった。当時で御年40ちょっと過ぎながら、頭をなぜか大きな団子で結っていたため齢よりちょっと老けてみえたものだった。
A先生は教科書に頼らず自身が制作した大量のプリントを駆使して授業を進めた。学校の教科書より判りやすいものでありクラスでもまったく授業についていけない天然劣等生以外の生徒からは好評な授業運びであった。

そのA先生に僕が目をつけられる小さな事案があった。その日の前日に僕はいたずらで
母の使っていたマニキュアを十本の指全部に塗って遊んだのであった。マニキュアが渇いたら専用のマニキュア落としでないととれないことを知らなかったため、仕方なくマニキュアを落とさずに翌日登校したのであった。
そして数学の授業中にそのマニキュアをA先生に目撃されてしまった。A先生に「ヨシ○あなたマニキュアしてるの?」と驚かれ教室中に知れてしまった。そして先生に怒られると思った瞬間、A先生の口から信じられない言葉が発せられたのであった。

「ヨシ○、あなたとても素晴らしいわよ!」。

後日知ったのはA先生はバリバリのコミュニストでありかつフェミニストなのであった。
僕のなにも考えないいたずらマニキュアに対してA先生は男女同権を見出したようであった。それからというものA先生は僕を可愛がってくれるようになった。僕の数学の成績が良かったこともあったかもしれないが、とにかくあの一件で僕はA先生に気に入られてしまったということだった。またA先生は特定の教え子をいびったりするような元来ひいきのある先生でないことを知っていたので僕も悪い気はしなかった。

そのA先生がある日僕に「青春の門」を託してくださったのであった。先生の恩義もあったのでそれらを僕は一所懸命に読んだ。まだ中学生で第二次性徴を迎えつつある僕にとっては性描写が散見される同作は刺激的であり僕に大人の門を開かせるまさに青春のバイブルとなった。主人公の信介が僕にはとてもまぶしく思えたものだった。

A先生がやはり僕を可愛がってくれているなと感じたのは中学三年生の卒業間近の卒業遠足の時だった。隣県の遊園地での周遊を終え帰りのバスに乗り込もうとする際の事だ。その日は翌日の公立高校受験の合否判定の結果発表がある前日であったが、A先生はバスに乗り込もうとする僕に対してこっそりと僕の合格を告げてくれたのであった。あれはおそらくタブーであり不正であったかもしれないがそれでもA先生は僕に教えたかったのであろう。それがとても嬉しかったものだった。翌日の僕はもちろん歓喜のなかにいた。

A先生とは卒業以来お会いしていない。だが年賀状だけは欠かさず送りまた頂戴している。先生の賀状は毎年決意表明を印字してあるものでありそれは日本共産党支持による政治活動であった。先生まだまだお元気だなと僕に勇気をくれ続けてくれる賀状である。
その先生もご高齢となり数年前には長年連れ添ったご主人を亡くされている。それからの僕は先生ご存命のうちに一度ご挨拶に伺いたいと思ったりしている。育児と家事に時間をとられがちなのでそれが実現するかいまリアルにわからない。

A先生は過日授業をひとコマ削って身の上を話してくれたことがあった。自身がなぜコミュニストになったかの由来であった。
先生のお父さんは戦争から復員して後心を病んでしまいそのまま快復することなく失意のうちにお亡くなりになったと聞かされた。そして先生は戦争を恨み国をそして国の在り方を恨んだ。ただ聡明なA先生は恨んでばかりいるだけではだめだと奮起して教育者になり活動家にもなったと僕らに語った。その話を聞いても僕は教室では平然を装った。自宅に帰ってから先生を思い机上でひとり泣いた。

A先生は未来を創る僕ら子どもたちに未来を託しての教職数十年であったのだ。
五木寛之先生の記事に触れると思い出す。これがA先生と僕のお話しだ。

フォト

最近昭和の著名人がひとりまたひとりとお亡くなりになり昭和が遠のくものであるが、そんなわけで僕の昭和はまだ続く。A先生、も少しお元気でいてください。後日伺いたく。そしてひと言ながら御礼を言いたく。それだけなんですが。
一曲。



日が短くなってきた。今日は秋分の日だそうです。
1 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する