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2018年07月14日15:53

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コミンテルン(共産主義インターナショナル)当時の書簡内容記録(続き)

カ・ヤマト氏書簡が内容濃く「無産政党」無産者という表現はヒト系が認識出来る問題かと思われる?。無産者は自分たちを「無産者だ」とは表現しないはず…
・無産政党(1925.12.11) カ・ヤ(ヤマト)
 同志諸君
 現在、日本の労働運動において最も中心的な勢力であり、かつ思想的に有力な組織であるのは、3つの労働組合組織である。すなわち(1)右翼の音頭とりたる日本労働総同盟。これは農民にたいして隔壁をきずいていることもふくめて、100%のマクドナルド主義をあらわしている。(2)中央派の日本農民組合。現時点におけるこの派の基本的な特徴は、重税に反対する闘争のために農民と労働者の統一戦線をつくることに努力している点である。(3)日本労働組合評議会に代表される左翼。以上の中心的勢力かつ推進力の政治的特性は、最近における無産政党設立の準備とそのための活動にとくに明瞭に現れた。
 すでに本年九月の組織・綱領委員会の第一回会議で、無産政党の綱領案についての理論的討議がおこなわれたさい、労働総同盟の代表、西尾はそれまで好んでかぶってきたマルクス主義の仮面をぬぎすてて、改良主義の戦士としての正体をありのままに現した。彼は無償の土地国有、植民地の自決、および一般に帝国主義に対する積極的闘争の要求を綱領に含めることに激しく反対した。西尾はまた団体加盟および個人加盟の併用にもとづいて党を設立することに反対して、もっぱら個人加盟に限ることを提案した。いいかえれば、西尾が望んでいたのは、大衆的な党でも階級的な党でもなくてマクドナルド主義的のたんなる選挙機構だったのである、そして彼は官業労働総同盟の代表川村(保太郎)から全面的な支持をうけた。これにたいして日本農民組合は、無償の土地国有を要求する必要はないという点でのみ、西尾を指示した。その理由はそういう要求を実現することは不可能だろうし、したがって単なる国有化の要求にとどめてよい、というにあった。しかしその諸問題では綱領問題と組織問題とを問わず、日本農民組合は左派に同調した。日本労働組合評議会の代表渡辺同志は、レーニン主義をよりどころとして、西尾を徹底的に、明快に、完膚ないまでに紛糾し、全体としては日本改良主義に対して勝利をおさめ、思想的な明瞭さをもたらした、これは綱領委員会の限界をはるかにこえた広い範囲におよんだ。
 先ごろ、共産主義新聞《無産者新聞》が政治舞台に登場し、又ソ連邦労働組合の代表団が来日した。これら全ては相合して、右翼をとまどわせ、怯えさせる機因となった。労働組合代表団が離日するとすぐ、労働総同盟の指導者鈴木、赤松、西尾その他は、共産主義者の陰謀とか労働者の事業をおびやかす危険とかについて、わめきたてはじめた。又それと同時に、おりから開催された労働総同盟大会では、左翼に対して正式に宣戦が布告され、西尾が、無産政党の経過と準備活動について報告したさい、万事をひどく悲観的な色調で描いたばかりか、無産政党の分裂は不可避であり、かつ望ましいことだと説き付けることにつとめた。ブルジョア新聞雑誌は、得たりかしこしとこれにとびついた。さらに大会後、労働者同盟は自己の機構を動員して日本農民組合の執行委員会に対し、綱領委員会や準備協議会の会議をこれ以上収集しないようにと直接に説得するにつとめ、こういうやり方で、無産政党のその後の準備活動を即座にぶちこわしやめさせようとした。こうして日本農民組合執行委員会と直接に話し合うことで応えた。
「階級的大衆的単一政党の即時樹立」というスローガンのもとでの、下部大衆のあいだ、とくに右翼の内部における扇動を拡大し強化することに、全力があげられ、あらゆる手段が講じられた。その結果は、左翼と中央派の大衆が党の即時の結成を主張しているだけではなく、日本労働総同盟所属のいくつかの地方組織(鉱山労働者と金属労働者)や官業労働総同盟所属のいくつかの地方組織(たばこ労働者)までが、前記のスローガンに同調することを決定した、そのうえ、左翼の代表が、自分たちは綱領委員会の第一回会議で自分たちの綱領案を最後通牒として提出したわけではなく、統一戦線のため、階級的大衆的単一無産政党の即時結成のためには、左翼は綱領の項目において譲歩する用意がある、と述べて、日本農民組合執行委員会を説得した。日本農民組合は、大衆の気分と、さらに左翼の柔軟さとに動かされたが、なお一つのことを要求した。すなわち、綱領委員会への左翼諸組織の代表を他の人物と交替させるように、というのであった。左翼は、きちんと討議したのち、これにも同意した。こうして、綱領委員会の第二回会議が10月末に招集された。綱領委員会のこの第二回会議で指導的役割をになったのは、日本農民組合、東京市電自治会、その他の中央派所組織の代表であって、左翼諸組織(日本労働組合評議会、水平社、政治研究会)の代表は、おだやかに、多少とも受動的にふるまった。西尾には、こうした事態にたいする用意がまったくなかった。彼は、政治的に混乱したらしく、やはりおだやかに、受動的にふるまった。49項目からなる無産政党の政綱案がほとんど全員一致で作成された。そのおもな項目は次のとおりである。
(1)土地所有
(2)植民地の自治
(3)帝国主義戦争にたいする反対
(4)領事裁判権(および中国への軍事干渉)の廃止。
(5)秘密外交の撤廃
(6)軍備縮小。
(7)兵役期限を一年とし、十分な給与を支払うこと。
(8)戦死者ならびに廃兵の家族にたいする国庫補償。
(9)元老、貴族院、枢密院、海軍軍令部および参謀本部の廃止。
(10)集会、出版、ストライキ、結社にたいする、一般に労働者農民運動にたいするいっさいの暴圧法令の撤廃
(11)満18歳位以上の男女全国民の選挙権。
(12)8時間労働日、および鉱山労働者の6時間労働日。
(13)労働者農民が組合を組織し、団体協約を結ぶ権利。
(15)高率資本課税。
(16)農業災害をこうむった農民にたいする国庫補助。
(17)肥料・農機具の配給への農民の参加権。
 この政綱は、中央派によって、いわば自由な環境のもとで、つまり、左翼からの圧力もうけず。西尾の頑迷にもはばまれず、警察の干渉もうけない状況のもとでまとめられたものだという点で、これらの分子の政治的発展の度合いを測る最良の計測器となっている。また、個人加盟および団体加盟の併用制を予定し、さらに経営や向上内に班を組織する権利をあたえている党規約も作成された。西尾がもっぱら個人加盟に基礎をおく彼の案を主張することは、いまや困難になった。というのは、綱領委員会の第一回会議から第二回会議までのあいだに枢密院が、無産政党の団体加盟制は日本帝国に見地からは許しえないものだ、なぜなら、それは不可避的に、無産政党に加盟するすべての労働組合、その他の団体の過激化を招来するだろうから、という声明を発表したからである。
 新党の名称が討議されたが、決定をみるにいたらなかった。左翼は無産者党を提案し、西尾は労働党を、日本農民組合は農民労働党を、そして川村(官業労働総同盟)は民衆党を提案したのだ。

無産政党の外部にとどまったのは、実際上二つの組合だけであった。すなわち、海軍往々組合連盟(45000名)と海員組合(33000名)とである。海軍連盟からは、当局が無産政党への彼らの加盟を禁止しているという。また彼らとしては独自の党を組織するつもりでいるという通知があった。じっさい、海軍連盟の執行委員のひとり久能が「報国勤皇」党を組織しようとしていることが判明した。海軍組合の執行委員会からは、彼らが内部的危機(左派との闘争)に直面しており、さしあたって無産政党運動に参加しうる状態にないという口上があった。全体で、約17万人の労働者、農民が無産政党に加盟した。とはいえ、労働総同盟の指導者たちは、きわめて挑発的な態度をとりつづけ、左翼諸組織、とくに日本労働組合評議会にたいしてありとあらゆる攻撃をくわえた。共産主義者グループは、けっして右派の挑発にのらないように、およそ公開の発言においては、中央派にたいしても、右派にたいしても、極度に慎重を期するように、という明確な、確固たる指令をすべての左派にあたえた。
 残念なことに、そして私をたいへん驚かせたことには、「結党」大会開催の数日前に日本労働組合評議会の東京支部が無産政党全体をご破算にしかねない誤りをおかした。事情は次のとおりである。東京付近の川崎市で、労働総同盟への加入を予定して労働組合を組織しようとした10名ほどの労働者が解雇されたことが原因となって、繊維労働者5000名のストライキが起こった。当然のこととして、労働総同盟がストライキの指導にあたった。だが、この同じ工場内に火ノン労働組合評議会加盟の班が組織されていたので、評議会は共同歩調と共同行動とを目的として総同盟に申し入れをおこなった。総同盟は、ストライキ労働者N大衆集会で総同盟の批判をおこなわないという条件づきで、評議会派遣の弁士2名を受け入れることに同意した。ストライキの第二日に、他の諸都市からの労働者代表団も参加して、ストライキ労働者の大デモンストレーションが組織された。評議会は東京からデモンストレーション参加者300名、弁士2名を派遣した。二人の弁士は、川崎に到着したさいに検束されてしまった。現場の金属労働者が評議会を代表して演説し、総同盟の改良主義の暴露を始めた。このため、彼はたちまち演壇からひきずりおろされた。総同盟の支持者と評議会の同志たちのあいだに取っ組合いが始まった。さっそく警察が介入して、約40名の労働者を検束した。この「弁士事件」とは別に、評議会は、穏健なストライキ要求のことで総同盟をやんわりと批判したビラを徹布した。しかし、ビラは総同盟やストライキ委員会にことわらずに徹布されたため、総同盟代表の提案で大衆集会で評議会非難決議が提出され、その後の評議会の応援の受入は拒否された。
 評議会もひどく血が頭にのぼっていたので、すぐさまストライキ労働者の並行的な集会を組織し始めた。ヤマトは、このことを知るやいなや、子供っぽい所業をやめて、ストライキ労働者のまえで自分たちの誤りを認めるように、という指令をだした、ビラまきも、並行集会も、ヤマトに知らせずに組織されたのだった。このことで、当該の同志たちは言遣責された。だが、総同盟とブルジョア新聞は、すでに労働者諸組織のうちに日本労働組合評議会にたいする反対的な気分や敵意をつくりだすことに政綱していた。このことが無産政党設立の経過にひびくであろうこと、総同盟がこの事件を自分たちの利己的な目的に利用するようつとめるであろうことは、明らかであった。そして、実際にそうなった。
 11月29日の朝、無産政党準備協議会の開会に先だって、総同盟は、彼らに取って有利なこの情勢を討議して、川崎事件を根拠としてこの無産政党ーーそこでは日本農民組合が組織上で指導的役割をはたしており、そして左派がそれに自己の思想的刻印を押していたばかりか、党内の推進力となっていたーーをぶちこわし、分裂させることが可能だと言う結論に達した。協議会を脱退することが決定された。そうすれば、協議会はかならず瓦解するにちがいなかった。
 無産政党準備協議会の開会にあたって、総同盟の代表麻生が次のような声明をおこなった。無産政党内には二つの潮流が存在して居り、しかもその一方の潮流(左派)は、無産政党というかたちでもっぱら自派の足場をつくることに専念しているのであって、したがって分裂は不可避である。日本労働組合評議会といっしょでは統一戦線は不可能なのこ、川崎のストライキがそのことをかさねて証明したことを考慮して、労働総同盟は、協議会から脱退することを決定した、と。麻生は協議会場からさっさと退場した。
 官業労働総同盟の代表川村が休憩を動議し、11月30日朝まで休憩することが決定された。各分派の会議が始まった。右派は労働総同盟本部に集まり、中央派はいくつかのグループに分かれた。そして左翼だが、左派がはじめに決定したのは、落胆と幻滅の精神に抗して全力をあげてたたかう必要があること、そして、実際的な提案を作成する為に、この問題全体を綱領委員会に付託する必要があることであった。
 左派はつづいて行動計画を作成した。すなわち、中央派全体ならびに右派の残留部分をひきとめることに、全力をあげる必要があること、よしんば右派全体が脱退して、中央派および左派だけが残った場合でも、農民労働党の結成をつづける必要があること、だが、もし最大級の中央派所組織がこれに同意しないようであれば、組織委員会の選出を提案すること、もしまた右派と一部の中央派とが脱退するようであれば、そのときには党の設立は提案せずに、組織委員会のみの設立を提案すること、もしまた日本労働組合評議会は大会から脱退するべきだという問題が提出され、そして中央派所組織全体がこれに賛成するようであれば、そのときには評議会は脱退するが、他のすべての左翼組織(水平社、政治研究会、無産青年同盟)は大会にとどまるとともに、自分たちはひきつづき党内になって日本労働組合評議会の無産政党への加入を承認させるためにたたかうという声明をおこなわなければならないこと、これである。
 〜
 綱領委員会の公式の会議が再開された。日本労働組合評議会の代表中村(善明)同志に発言が許された。彼は、感動的な言葉で状況を説明し、日本労働組合評議会の役割と任務、さらに無産政党の将来性について語り、評議会はこの党のためをはかって、いまは自発的に脱退し、しばらく党外にとどまる、と述べた。製陶労働同盟(右派)の代表がそれへの答辞を述べ、協議会の全代議員は、紛糾した情勢が変わりしだい、評議会の無産政党への加盟を全員こぞってよろこんで迎えることを誓う、と語った。このとき以後、同情はすべて評議会によせられ、労働総同盟は反感のまととなった。
 作成ずみの政綱が再検討されて、貴族院や枢密院に反対する条項、軍国主義に反対する条項はすべて削除され、また土地国有の要求や植民地自治の要求も削除された。党名を農民労働党とすること、11名からなる執行委員会、および書記長と党会計をおくことが、決定された。12月1日の午後に大会を開会することが決定された。
 綱領委員会会議から党大会までの数時間のあいだに、東京市電従業員組合の右派の一代議員(残りの3名は左派であった)が、労働総同盟および東京市電従業員組合の右派執行委員たちとのあいだで合意に達することに成功した。すなわち、大会の開会にあたって市電従業員組合が大会からの脱退を声明するというのであった。
 大会は午後五時に開会された。日本農民組合の組合長杉山(元治郎)が大会議長に選出された。市電従業員組合の代議員佐々木が、彼の組合の執行委員会が大会からの脱退を決定した、と声明した。同じ組合の他の代議員たちは、自分たちも執行委員なのだが、そんなことはなにも聞いていない、しかし、とにかく、ゆきちがいが生じるのを避けるために、大会から退場する用意がある、と声明した。だが、大会のぶちこわしをはかったこの最後の企ては、労働総同盟にたいする憤激を呼び起しただけだった。大会は正規の議事に移った。綱領と党規約が採択された。日本の全無産階級にあてた宣言と、党は、日本労働組合評議会と労働総同盟とが党に加入することを希望するという願いを表明した決議とが採択された。ついで執行委員会、書記長および会計が選出された。これらの役員は、政治的信念からすれば、次のグループに分かれていた。ーー左派3名、右派4名、中央派6名「万歳」の叫びのなかで大会は終了した。こうして日本に農民労働党が結成された。党は現実となり、これをぶちこわそうとした総同盟の企てはすべて克服された。客観的条件が有利だったからである。公式の指導権が日本農民組合の手にゆだねられること、左翼が熱心に活動して、ボリシェヴィキ的な駆引をおこなったこと、左翼が一体となって結束し、共産主義者遇グループの直接の指導をうけたことを、大衆は自分たちの直接の利益と感じたのであった。
 ところが、その三時間後に、警察が農民労働党の執行委員たちを拘束し、また警官が同等は「安寧秩序」を脅威するゆえに解散された、と布告した。
 各方面から、またすべての進歩的、自由主義的な政治家の側から抗議の声があげられ、警察のこの措置について説明が求められた。《報知》(政治系の半官新聞)を除いて、ほとんどすべてのブルジョア新聞が、不満と憤激を表明した《東京朝日》にいたっては、内閣にこの問題の再検討を要求さえした。だが、総同盟の指導者たちは、これは彼らの予想したところだ、と声明した。
 その翌日、内閣は、共産主義の実現を目指す団体は許可されないこと、いかなる団体も、団体加盟ではなく、個人加盟を基礎そすべきこと、いっさいの団体はその綱領を明瞭、明確に記述すべきこと、という決定を採択した。
 これにくわえて、警保局長が次のような説明をおこなったー同党が解散されたのは、その綱領の裏面に共産主義が伏在しており又この党が共産主義者によって組織されたからである、これが事実であるのは労働総同盟の脱退が証明している、と。ブルジョア新聞もまた、総同盟が脱退したことで、政府が農民労働党を解散するのがやりやすくなった、と指摘した。
 日本農民組合の代表団と執行委員会は大会から大阪へ帰るのに先だって我らは労農政党結成の仕事を続けるであろうし、そして実現するであろう、という声明を発表した。

・新たな計画
 客観的条件は依然として無産政党の設立によって有利である。加藤内閣がどんなに詭計を弄し工作しようと、下院の決定権をにぎる政友本党派の全員を「手なづける」ことはとてもできないであろう。中国への不干渉という加藤の試みが「爆発」のきっかけになるかもしれない。というのは政友会は政友本党の後藤(新平)をもふくめて、とりわけ満州にかんして強硬政策を要求しているからである。おそらく春にならないうちに新しい議会選挙が行なわれるであろう。このような微妙な不安定な政治情勢は無産政党結成への刺激剤である。農民労働党の「解散」そのものは、さしあたって労働者諸組織のあいだで二つの方向に作用してきた。一方の部分はどんな無産政党をも政府は許可しないだろうと推測して、労働組合分野におけるセンターの創設に切り替えるほうに傾いている。だが誰もが政府にたいする憤懣に燃えており又多かれ少なかれ強固な統一の精神をいだいている。憲政会も政友会も政友本党もこのことを感じており、新たな900万人の有権者は誰に票を投じるだろうかと誰もが懸念している。そこで政友会は無産政党の結成を許可することに賛成する、と言明し農民労働党を解散したのはなぜか、と内務省に問い合わせている。内務大臣(若槻礼次郎、憲政会所属)は、こう答えている。ー内務省は二つの事項を許可せず、一つのことを要求しているだけである。すなわち無産政党は団体加盟制にもとづいて組織されたものであってはならないということ、党の最小限綱領および最大限綱領をあますところなく、公然と言明すべきこと、これである、と。
 以上に述べた事すべてを考慮して、ヤマト氏は、共産主義者グループのビューローにたいし次のような提案をおこなった、ー日本農民組合が他の中央諸組織とにきょうどうして、農民労働党の構成部分であったすべての組織からなる新しい準備協議会を招集するように、事をはこぶために努力する必要があること。またしても組織解散の口実をあたえないために、日本労働組合評議会と無産青年同盟は参加をひかえるほうが適当だと考える。また、その見返りとして、労働総同盟は、明白な妨害者としてこれを招待しないこと。協議会は、内閣の決定にしたがって党規約を作成しなければならない。それと同時に、地方党組織を設立するための準備活動をすすめること。地方におけるこの準備活動のために、すべての労働者組織(日本労働組合評議会をふくめて)の選出代表からなる準備委員会を組織すること。それらの準備委員会は、個人会員からなる地方のプロレタリア諸団体と直接の結びつきをもたなければならない。
 さらに、無産政党設立運動と、日本のすべての労働組合の合同大会招集のための全般的な運動とを並行的に高めてゆくこと。その招集のイニシアチブは、日本農民組合がとるべきである。この案でいちばんの弱点は、総同盟を正体しないように提案している点である。すべての右翼組合が総同盟の招待を主張するであろうこと、そして総同盟自体がそれに参加する意向を表明するであろうことは、火を見るよりも明らかである。したがって、日本労働組合評議会の招待を要求してたたかわなければなるまい。なぜなら、評議会が孤立させられ、労働者諸組織そのものによって評議会に、平等の資格を欠いた組織、あるいは不法な組織という刻印が押されるような事態を許す訳にはいかないからである。しかし、今日の状況のもとでは、無産政党結成の重点が、これまでのように全国的な準備協議会ではなく、地方に移動しつつあることも、また明らかである。そして、この構想は、地方では評議会を直接に参加させることを予定している、だが、とにかく、もし全国的な準備協議会で総同盟の参加は許されるが、評議会の参加は許されないということになれば、評議会と、一般に共産主義者にとって大きな危険が生じるであろう。それゆえ、ヤマトは、この問題をビューローに提出してその検討を求めるであろう。くりかえして言う。これはたんなる構想である。もっと根本的な計画を作成することは、いまのところまだ不可能である。なぜなら、新しい情勢にたいして中央の諸組織がどう反応するか、日本農民組合の執行委員会がどう言うであろうかについて、どんな史料もないからである、とはいえ、ヤマトはこの構想はその根本において正しいことがわかるであろうと、確信している。
 政治研究会、これについては以前に述べたが、その会員数はおよろ3000名で、その大部分は現場の労働者からなっている、けれども、まだ本年6月には、同会の指導権は、労働総同盟の追随者たるフェビアン派のインテリの手中に完全に、全体的ににぎられていた。それゆえ、同会は、無産政党結成の目的のためにとくに設立されたにもかかわらず、この任務をはたすことを解しなかった。この仕事では、日本農民組合が政治研究会を追い抜いてしまい、八月における第一回の準備協議会に同会を招待させるためには、闘争が必要であった。
 研究会のなかでは、左翼的な労働者はひとつの中核体に組織されていた。そこで彼らは、改良主義的な執行委員会の綱領案に対抗して、独自の無産政党綱領案を作成した。両案が審議されたさい、左派が勝利をおさめた。フェビアン派ははなはだ不満で、何人かの「大立物」は組織から脱退した。無産政党の綱領案の審議のために、臨時大会が招集された。左派が右派を打ち破って、急進的な労働組合、ジャーナリスト、共産主義的労働者からなる新執行委員会を選出した。
 農民労働党の大会で政治研究会を解散することが約束されたとはいえ、農民労働党が解散されたため、研究会は、共産主義的傾向の啓蒙団体としていまなお存続している、
((19)25年12月11日東京)                          カ・ヤ
(ロシア語のタイプ・テキストから訳出)
→「客観的事実は無産政党の設立にとって有利である」とありますが「客観的事実」を利用したのは共産党員ではないかと推測。全体主義→大量人員の捏造が可能。風評を流布し商売敵などを故意に陥れる「共産党」は有名で規約にある内部穿孔、宣伝工作。第二次世界大戦の戦犯らしい。当時警察は「共産主義者」というだけで逮捕していた。「赤狩り」です。

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コミンテルンについて
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望月氏は月氏では無いが「今様望月」
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