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2018年02月19日00:02

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2月19日の日記

今日の出来事:1864年−加徳丸事件、1868年−戊辰戦争:偽官軍事件「滋野井隊処刑」、1878年−トーマス・エジソンがレコードプレーヤー(フォノグラフ)の特許を取得、1915年−第一次世界大戦:ガリポリの戦い

今日は、加徳丸事件です。1864年2月1日の夜、下関を航行中の汽船「長崎丸」が、長州藩・奇兵隊士に砲撃されて沈没しました。この船は、幕府の長崎製鉄所が所有する船でしたが、薩摩藩が幕府から借りて使用中でした。この「長崎丸砲撃事件」により、乗組員の士官9人、機関士以下19名が行方不明になりました。長州藩は薩摩藩に使者を派遣して謝罪し、外国船と誤ったとして収拾して、何とか全面対決を回避しました。しかし、2月19日に今度は義勇隊が、上関で薩摩藩御用船「加徳丸」を焼き打ちし、船主・大谷仲之進を殺害しました。積荷は船と共に焼き捨てました。義勇隊士3名(山本誠一郎、高橋利兵衛、田中八郎)は脱藩し、3月4日に大坂で石灰漬けで運搬した大谷仲之進を梟首し、薩摩の密貿易への義憤により行ったという斬奸状を南御堂に掲げました。久坂玄瑞、品川弥次郎、野村和作、時山直八、杉山松介、佐々木亀之進らは、山本誠一郎と水井精一郎を無理矢理に自決させました。さらに、2人の自決を聞いた高橋利兵衛も室津西方寺で切腹しました。この事件は、薩摩藩士を激昂させて長州藩に対する不信と憎悪を増幅させる事になりました。

次に、戊辰戦争:偽官軍事件「滋野井隊処刑」です。「赤報隊」は、幕末に結成された草莽隊の一つで、「王政復古」により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の一部隊でした。薩摩藩の西郷隆盛や公家・岩倉具視の支援を得て、1868年に近江国松尾山の金剛輪寺で結成されました。隊長は相楽総三で、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主として擁立しました。隊の名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられました。一番隊(隊長・相楽総三:江戸以来の同志が中心)、二番隊(隊長・鈴木三樹三郎:元新選組「御陵衛士」隊士が中心)、三番隊(隊長・油川錬三郎:水口藩士や江州出身者が中心)で構成されていました。相楽総三は、薩摩藩邸の浪士隊(御用盗)の総裁として、江戸市内で旧幕府軍に対する挑発的行為や工作活動などを行い、これが「江戸薩摩藩邸焼討事件」を引き起こし、「戊辰戦争」の最初の戦い「鳥羽・伏見の戦い」のきっかけとなりました。「赤報隊」は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として各地で「年貢半減」を宣伝しながら進軍し、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得ました。綾小路俊実卿を盟主とする一番隊から三番隊が先に近江金剛輪寺を出立し、中山道を進軍しました。滋野井公寿卿を盟主とする別働隊(滋野井隊)は5日ほど遅れて出発し、東海道を進軍しました。しかし、新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにしました。そして、新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとして密かに取消し、年貢半減は相楽総三ら「赤報隊」が勝手に触れ回った事であるとしました。公家の高松実村を盟主とした「高松隊」とともに、偽官軍の烙印「回章」を押しました(偽勅使事件)。まず、東海道を進軍した「滋野井隊」が四日市で捕えられ、2月18日に幹部隊士8名が斬罪に処せられました。斬罪になったのは、山本太宰、川喜多真彦、綿引富蔵、小林雲遊斎、赤木小太郎、佐々木可竹、玉川熊彦、小笠原大和の8人でした。滋野井公寿は、許されて明治維新後は、佐渡裁判所総督や佐渡鎮撫使、甲府県知事などを歴任しました。「赤報隊」の悲劇はこうして始まりました。

その次に、トーマス・エジソンがレコードプレーヤー(フォノグラフ)の特許を取得です。トーマス・エジソンは、生涯におよそ1300もの発明を行ったアメリカ合衆国の発明家です。「発明王」と言われ、研究所が置かれたニュージャージー州のメンロパークにちなんで、「メンロパークの魔術師」とも呼ばれました。リュミエール兄弟と並んで「映画の父」とも言われています。エジソンは1847年2月11日にオハイオ州ミランで、父サミュエル・オグデンJr.と母ナンシー・エリオットの間に生まれました。エジソンは彼らの7人の子供の内で7番目の子供で、7歳の時に家族はミシガン州ポートヒューロンに移りました。エジソンは小学校に入学しましたが、教師と馬が合わずに中退しました。算数の授業中には「1+1=2」と教えられても、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり、英語の授業中にも、「AはどうしてPと呼ばないの?」と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「なぜ?」を連発していました。その様な好奇心は学校内に止まらず、「なぜ物は燃えるのか」を知りたいと思い立ち、藁を燃やして自宅の納屋を全焼させてしまいました。そして、最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも入学からわずか3ヶ月で退学を勧められました。学校だけでなく、父親からも見放されました。エジソンは、勉強を小学校の教師であった母親に教わりました。母親は教育熱心で、元々好奇心が旺盛だったエジソンに対して、家の地下室に様々な化学薬品を揃えてあげました。その地下室でエジソンは、科学実験に没頭しました。このような少年時代を送りましたが母親も手伝って、その後は発明を複数行いました。1877年に「蓄音機」の実用化(商品化)で名声を獲得しました。ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、集まった人材を発明集団として機能させるため、マネジメント面で辣腕を振るいました。これを「天才の集合」と呼びました。研究所で「電話」、「レコードプレーヤー」、「電気鉄道」、「鉱石分離装置」、「電灯照明」などを次々と商品化しました。なかでも注力したのは「白熱電球」で、数多い先行の白熱電球を実用的に改良しました。彼は「白熱電球」の名称をゾロアスター教の光と英知の神「アフラ・マズダー」から引用し、「マズダ」と名付けました。この「白熱電球」の売り込みのための合弁会社を成立し、直流の電力を供給するシステムを確立させました。1887年にウェストオレンジ研究室に移りました。ここでは「動画撮影機・キネトグラフ」を発明しました。これは、実は彼の部下であるウィリアム・ディッカーソンの発明でした。また、ゴールデンロッド(和名:セイタカアワダチソウ)からゴムを取るのに成功したと言われています。「天才は1%のひらめきと99%の汗」という有名な言葉を残しました。1931年10月18日、84歳でその生涯を終えました。以下はエジソンの主な発明品です。
1868年:電気投票記録機
1869年:株式相場表示機
1877年:電話機・蓄音機
1879年:電球
1880年:発電機
1888年:改良型蓄音機
1891年:のぞき眼鏡式映写機キネトスコープ
1897年:改良映写機ヴァイタスコープ
1910年:トースター

最後に、第一次世界大戦:ガリポリの戦いです。「ガリポリの戦い」は、「第一次世界大戦」で連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブール占領を目指し、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたるダーダネルス海峡の西側のガリポリ半島で行った上陸作戦です。この戦いは陸・海・空、3軍の総力を結集した世界初の大規模上陸作戦となりました。また、連合国軍に参加したオーストラリアとニュージーランドにとっては、初の本格的な海外遠征となりました。1914年に始まった「第一次世界大戦」はフランス、ベルギー方面の西部戦線で膠着状態に陥り、局面の打開が求められていました。連合国側に参戦していたロシア帝国は、コーカサス方面から同盟国側のオスマン帝国に進軍しましたが、オスマン軍の猛烈な反撃にあい、連合国に支援を求めてきました。そこで、イギリスは海軍大臣ウィンストン・チャーチルの主唱でダーダネルス海峡西側のガリポリ半島を占領し、オスマン帝国の首都イスタンブールに進撃する計画が立案されました。イスタンブールを占領する事ができれば、連合軍はボスポラス海峡を通じて黒海方面でロシア軍と連絡可能になり、ブルガリア、ギリシャなどバルカン諸国が連合国側になびく事が期待できました。そこでサー・イアン・ハミルトン将軍を司令官とする地中海遠征軍の派遣が決定されました。地中海遠征軍には英自治領オーストラリアとニュージーランドからの志願兵よりなる、オーストラリア・ニュージーランド軍団(ANZAC)と英第29師団、イギリス海軍師団、フランス部隊が参加しました。これに対し、オスマン側はドイツ帝国から招いたオットー・リーマン・フォン・ザンデルス中将を軍事顧問とする、最精鋭の6個師団よりなる第5軍団が配置されていました。また、ダーダネルス海峡全域に大量の機雷を敷設した他、海峡の両岸に多数の砲台を設置して海峡そのものを要塞化していました。1915年2月19日、英仏大艦隊による海上からの砲撃が開始されましたが、悪天候によって上陸部隊の到着が遅れた事もあり、ダーダネルス海峡の制圧はできませんでした。3月18日に艦隊は海峡突破を試みましたが、オスマン帝国機雷敷設艦ヌスレットが敷設した機雷に接触して動きが取れなくなった戦艦3隻(フランスのブーヴェ、イギリスのオーシャン、イレジスティブル)が両岸の砲台から集中攻撃を受けて撃沈され、3隻が大破しました。このため、連合軍は海軍力だけでダーダネルス海峡を制圧する事を断念しました。連合軍の上陸作戦は、1915年4月25日に開始されました。ところが上陸作戦が開始される頃には、オスマン軍は上陸予想地点に兵力を増強し、堅固な陣地を構築して待ち構えていました。英第29師団はダーダネルス海峡北側のガリポリ半島先端のヘレス岬付近、5箇所に上陸しましたが、オスマン軍の反撃に阻まれて2箇所では撤退し、3箇所の海岸を確保するに止まりました。ANZAC軍はガリポリ半島北側のエーゲ海に面した名もない入り江に上陸作戦を敢行し、オスマン第19師団の猛攻撃を受けながらも橋頭堡を確保しました。この入江は,今日ではアンザック入江と呼ばれています。また、英国海軍陸戦師団とフランス軍部隊は海峡のアジア側に陽動作戦として上陸を試みました。5月〜7月にかけて連合軍、オスマン軍ともに何度も攻勢を展開して戦局を打開しようとしましたが、どちらも敵側に阻まれました。5月には上陸部隊を支援していたイギリス戦艦3隻が魚雷攻撃によって相次いで(オスマン帝国駆逐艦「ムアーヴェネティ・ミッリイェ」により「ゴライアス」が、ドイツ潜水艦「U−21」により「トライアンフ」と「マジェスティック」)撃沈されたため、海軍は戦線を離脱しました。8月に入ると連合軍新鋭2個師団がアンザック入江北側のスブラ湾に上陸して攻勢を試みましたが、オスマン軍がいち早く高地を占拠したため、橋頭堡を確保する以上の進展は見られず、塹壕戦となりました。アンザック入江とスブラ湾の橋頭堡を連絡させようとする連合軍の最後の「8月大攻勢」も失敗に終わり、オスマン領内へのさらなる進撃は望めない状態となりました。10月に入るとイギリス政府は「ガリポリ作戦」の撤退を検討し始め、撤退に反対する司令官のハミルトン将軍を解任、サー・チャールズ・モンロー将軍に交代させました。これまで中立だったブルガリアが同盟国側に参戦する事が明らかになると、ドイツ軍は陸路でオスマン帝国との連絡が可能となりました。10月5日にはギリシャ領サロニカに英軍が上陸して、地中海方面で第二戦線が形成されたため、モンロー将軍はついに撤退を決意しました。撤退が決定された当時、ガリポリ半島には連合軍14個師団が展開していましたが、アンザック入江とスブラ湾では12月7日から順次撤退が行われ、12月20日に撤退を完了しました。ヘレス岬は将来の攻撃のため橋頭堡を維持する計画でしたが、12月27日にはヘレス岬からの撤退も決定され、1916年1月9日には最後の英軍部隊がヘレス岬を離れました。この戦いによる各国軍の戦死・戦傷は以下のとおりです。オスマン帝国軍:戦死86692人、戦傷164617人、イギリス軍:戦死21255人、戦傷52230人、フランス軍:戦死10000人、戦傷約17000人、オーストラリア軍:戦死8709人、戦傷19441人、ニュージーランド軍:戦死2701人、戦傷4852人、イギリス領インド帝国軍:戦死1358人、戦傷3421人、カナダ軍:戦死49人、戦傷93人、これ以外に、長い塹壕戦のため約140000人の連合軍兵士が腸チフスや赤痢で病死したと推定されています。イギリスの物理学者で「モーズリーの法則」を発見したヘンリー・モーズリーも戦死しました。

今日の誕生日:ニコラウス・コペルニクス、杉本清、ドリー・ファンク・ジュニア、藤岡弘、、財津和夫(チューリップ)、貴ノ花健士(二子山親方)、村上龍、ソクラテス、和田ラヂヲ、薬丸裕英(元シブがき隊)、かとうれいこ、大森南朋、中上雅巳、森且行(元SMAP)、貴島サリオ、あべこうじ、山本高広、琴欧洲勝紀、中島美嘉、かでなれおん、ガリガリガリクソン

今日の記念日:雨水、天地の日、万国郵便連合加盟記念日、プロレスの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「雨水」です。空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始める頃です。「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」です。この時節から寒さも峠を越えて衰退し始める頃で、昔から農耕の準備を始める目安とされてきました。「地動説」を主張したニコラウス・コペルニクスの誕生日から「天地の日」、1877年2月19日に日本が万国郵便連合 (UPU) に加盟した事で「万国郵便連合加盟記念日」、1955年に日本初のプロレスの本格的な国際試合「力道山・木村政彦組対シャープ兄弟」の試合が開催された事で「プロレスの日」となりました。
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