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2015年05月30日08:08

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子供達の笑い声が響いている公園は実は・・・

身近な所から太平洋戦争を知る・体験する仔グマ流「大東亜戦争ダークツーリズム長崎原爆編」

今年は戦後70年。
長崎原爆投下から70年です。

GWに長崎原爆爆心地を巡りましたので、ご紹介致します。


●三菱長崎造船所浜口町三菱工業青年学校工場(山王公園内)爆心地から南東約600m

1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、松山町の上空約500mで炸裂した一発の原子爆弾によって、松山町及びその周辺の町は一瞬にして原子野と化した。
浜口町にあることから○ハ工場と呼ばれていた三菱長崎造船所浜口町三菱工業青年学校工場は、爆心地から南東約600mの近距離にあったため、木造2階建て4棟の工場は、強烈な熱線と爆風によって全壊全焼した。
工場内にはいたるところに黒焦げとなった遺骸が散らばり、機械油で焼かれたと思われるものは白骨化していた。
また、裸同然で背後の防空壕や畑に脱出した者も相次ぎ息絶えた。
このように、職員、工員、及び鹿児島大島女子挺身隊、長崎市立高等女学校・長崎東陵中学校の学徒報国隊など計338名の従業員が工場や自宅で死亡した。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。

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○生存者の証言
「その瞬間、すさまじい爆風
西山 進さん(76)」

爆心地から約4キロの東立神町で被爆
=福岡市南区長住3丁目=
 大分県豊後高田町(現豊後高田市)の実家を出て、浜口町にあった三菱長崎造船所の三菱工業青年学校に入り、同造船所の立神工場で少年工として働いていた。十七歳だった。

あの日も朝からガス溶接器の仕上げ作業をしていた。突然、「あっ、落下傘(ラジオゾンデ)が二個」と対空監視の後輩が叫んだ。
その瞬間、閃光(せんこう)が走り、すさまじい爆風が工場を襲った。
窓ガラスは割れ、ドラム缶は倒れ、とっさに作業台の下に身を隠した私の体も一瞬浮いた感じだった。
何が起こったのか分からないまま、「退避」の声とともに夢中で近くの防空壕(ごう)に向かった。

二時間ほどたって、防空壕を出た私はがくぜんとした。
長崎駅以北は火の海。上空は灰色にオレンジ、ピンク色が混ざった不気味な煙が広がっていた。
夜になっても消えない炎。
工場の山手にあった寮からの光景はまるで鬼火のようだった。

翌日、私たちは一班八人の救援隊を組織して、爆心地近くにある大橋の三菱長崎兵器製作所へ向かった。
工場を出てしばらくすると、足がすくんだ。
稲佐山のすそ野、旭町周辺は煙が立ちこめ街がなくなっていた。
見渡す限りがれきの山。

行く先々で、焼け焦げた死体が転がり、異臭が漂った。
幸町では閃光で目を覆ったまま黒焦げになった子どもたちもいた。
兵器製作所は押しつぶされ、床にはガラス片が全身に突き刺さった死体があり、工作機械の下敷きになった女性もいた。
一人も救助できないまま、私たちは工場を後にした。

道ノ尾の神社の境内で、横たえられた負傷者と一夜を明かした。
「お母さん」と泣き叫ぶ子ども。
「水をください」と声を振り絞る女性。
この日の出来事は地獄絵そのものだった。

終戦後、働く気力を失った。
原爆症だった。
長崎を去り、会社を転々とした。
原爆以上に、その後の生活はつらく苦しかった。
多くの人が犠牲になった戦争、原爆が憎い。
この思いを子どもたちに伝えるため、二十年前から語り部活動を続けている。

<私の願い>
原爆で瞬時に殺された人たち。
生き残った被爆者の六十年にわたる苦しみ。
戦争は憎しみ、悲しみしか残さない。
しかし、日本は戦争をする国へ進もうとしている。
戦争のない平和な未来を子どもたちに残すために、何としてでも食い止めなければならない。
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僕が訪れた時はGWで山王公園内では子供達のはしゃぐ声が響き渡り、平和そのものの光景ですが、かつてこの地に三菱長崎造船所浜口町三菱工業青年学校工場があり、沢山の犠牲者が無惨な屍を曝していたのです。

現在は被爆直後の写真のある銘板が市で設置されており、慰霊碑も設けられています。

所で、僕が慰霊碑に手を合わせてから写真撮っていると、公園前の商店のご婦人が訝しげに僕を見ています。

・・・慰霊碑や公園の模様撮ってるだけなのに・・・何故?
もしかして子供達を撮影してると思われてたのかな・・・?

長崎でも色んな事件がありますからね〜。

何か後味の悪かった山王公園でした。


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