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2017年08月03日19:30

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どうせチョンだろ

メロン農家、畑に除草剤まかれる被害「悪魔レベルの所業」 農園代表は自衛を呼びかけ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=4700593

おかず
日本の大部分の食べ物 2008年6月9日に行われた映画『食客』の制作発表会において俳優チェ・ブラムが「日本の人々の食べるおかずは、大体が我が国に由来したものが多いのに、私たちが(食の世界化に対して)和食に後れをとる理由がない」、「21世紀は文化戦争の時代であり、日本は金を投入して日本食を世界に伝えている」等と発言をし、韓国起源説を主張した。また同席したクォン・オジュンも「我が国の韓食は薬になるほど優秀で、競争力がある。日本に(食の世界化が)できて我々にできない理由がない」と発言をした[93]。
米国のカリフォルニア州ASU副総長の食生活文化研究者キム・ヨンボクも、『慶南道民日報』2010年6月22日で「日本の大部分の食べ物がその根元を韓半島に置いていて、今でも日本の食品学者、料理研究者、外食業者などは韓国に出入りして、韓国料理らを偵察しに通う」と主張[94]。

主張を裏付ける資料も存在せず根拠不明。
豆腐
蕎麦 キム・ヨンボク慶南大学伝統食生活文化研究院長が「韓国のメミルククスを日本が模倣して蕎麦が誕生し、韓国のトゥブから日本の豆腐が生まれた。」と主張している[95]。また『ウィークリー京郷』が「日本の豆腐は朝鮮から伝授を受けたもので、壬辰倭乱(文禄の役)の時に晋州城主の朴好仁が教えてあげたのが始まり」「朝鮮が豆腐作りに一番優れていて中国と日本から教えを請いに来た」「日本に豆腐が一番遅く400年前に日本に伝わったのに、日本豆腐が世界を支配するのが切ない現実だ」「朝鮮の豆腐の伝統は日帝36年の間に消えた」「韓国豆腐の優秀性が世界に認められ、豆腐文化宗主国の位相を再確立するチャンスが来た」と主張している[96]。また、『国民日報』が「原産地は中国というが、韓半島で花開いて日本に伝わったトゥブ(豆腐)の場合もそうだ」と主張している[97]。
キム・ヨンボクは、『慶南道民日報』2010年6月22日で、「そばの根元やはり朝鮮だ。日本の『本山荻舟』によれば『一説に江戸時代(江戸時代、1603〜1867年)始めに、朝鮮の僧である元珍が南都東大寺に渡ってきて結着材として小麦粉をソバ粉と混ぜるニハチ(2:8)を教え、はじめて日本にザルソバが普及した』と記録されている。元珍僧侶が初めて日本に伝えた比率は2:8だったと伝えられるが、今でも日本のそば屋の中にはこのニハチ(2:8)を黄金比率と考える所が多い」「豆腐は辛い歴史を持って日本に伝えられた食べ物だ。日本、四国高知市県立図書館に所蔵された『皆山集』全10冊中、9冊の記録を見れば「豆腐に関してどんな本に伝えられている話を見ても、昔この国には豆腐がなかった。 1592〜1595年に長宗我部元親が朝鮮の捕虜らを引っ張ってこちらに戻った時、その中に朴好仁という人がいた。その子孫もやはりこの国に住んだが、こちらの領主山内一豊が高知城を築く時、パク氏を今の唐人町に置いて働かせた。土佐郡鏡川の北側の土地で豆腐を製造し始めた』となっている」と主張[94]。

豆腐は奈良時代に遣唐使により日本に伝えられたもので、韓国起源もしくは韓国を経由して日本に伝わったものではない。そして、日本人がよく知る現在のような豆腐は日本で発展したものである。さらにキム・ヨンボクは「日本は日本文化の形成に多くの影響を与えた国に中国を指し示したいだろうが、韓国が絶対的でその次が中国、ヨーロッパなどだ」と事実無根の主張をおこない、日本文化全般に対する韓国起源説までも主張している。
豆腐自体は紀元前164年頃に淮南王劉安が発明したとされているが、日本には遣唐使以前に伝わっていたと言う説もある。そして、鎌倉時代の古文書である「庭訓往来」には「豆腐羹(とうふこう、豆乳の意)」の記述があるため[98]、長宗我部元親が連れて帰った朝鮮人捕虜が日本に豆腐を伝えたと言う説はまずあり得ない。そもそも記事に出てくる『皆山集』とは土佐の藩政史であり、なぜそれを根拠に日本にそれまで豆腐がなかったと言う結論に至ったか不明。

また、作物としての蕎麦は中国から日本に伝えられたと考えられているが、蕎麦粉を麺の形態に加工する「蕎麦切り」の起源は明確ではない。蕎麦切りの確認できる最古の資料は1574年に修復工事が完成した木曽定勝寺の寄進記録だとされており、初期の蕎麦切りの記録が信州周辺に多いことから、一般によく言われるとおり信州蕎麦がその起源であったのは間違いないと見られている。二八蕎麦の由来は諸説あり確定していないが、韓国の僧侶元珍が伝えたと言う確定的証拠もまた存在しない。

日本酒 日本酒の起源は韓国の清酒という説がある。日本人研究者が慶州の法酒は日本酒の先祖のようなものだと語った。また、古事記の記述の誤読で起源を主張している場合もある[99]。
さらに、近年、日本酒のルーツがマッコリであると多くの在日朝鮮人系酒店及び韓国料理店がWebサイトにて主張して問題となっている。

この主張は誤りであり、日本酒の本来のルーツであるどぶろくは口噛みの酒などに遡る事ができ、その発展と共に発酵方法や歴史的な流れも異なる。
「マッコリ」も参照
なお現代のような清酒は、室町時代に奈良県の正暦寺で作られた僧坊酒「菩提泉」がその発祥であると考えられている[100]。

寿司
刺身 ロサンゼルスのコリアタウンで寿司屋を経営しているキム料理長が「スシとサシミは元来、中国と韓国に由来するもので、日本にはスシが自分たちの食文化だと主張する権利が無い」「日本は第二次大戦以後にスシを食べ始めたが、韓国と中国は数千年間、スシとサシミを作ってきた」と主張した[101]。また、キム・ヨンボク慶南大学伝統食生活文化研究院長は「韓国の食べ物パプシッケを模倣したのがスシ(壽司:すうし)だ。1700〜1800年頃寿司が最初に開発されて日本の代表的食べ物であるハコスシ(箱すし:サンジャチョパプ)が創造された。」と主張している[102]。また、韓国京畿道観光発展局が、中国版ツイッターの公式アカウントでも「韓国の美食・刺身」と発言し、韓国の公式アナウンスとして刺身が韓国起源だと主張した[103]。 「日本は18世紀、もしくは第二次大戦以後に寿司を食べ始めた」というのは事実無根で、浮世絵など江戸風俗を取り扱った作品を見れば江戸時代後期には今と同じような握り寿司が食されていた事がすぐ分かる。世界で一般的に「スシ」として知られている握り寿司の初出は19世紀初頭の華屋與兵衛が創作した江戸前寿司とされる。握り寿司が登場する前は箱寿司(押し寿司)が主流だったが、握り寿司が江戸を席巻した後も上方(関西方面)では箱寿司が主流のままだったとされる。酢飯を使った寿司の起源は必ずしも明確ではないが、少なくとも17世紀には存在したことが確かめられており、刺身の起源は14世紀までさかのぼることができる。魚介類の生食については日本では古代から広く行われ、『日本書紀』で磐鹿六雁命が景行天皇に鰹と蛤の膾を出したとの記述があり、これが日本料理の起源という伝説がある。
醤油 韓国の液体調味料の専門企業トンウンFCは、「しょう油は韓国が元祖」であるとし、「世界市場で韓国の伝統醗酵食品のしょう油が日本の製品のように認識されていることを正したい」と主張している[104]。これについて、キッコーマンは「初耳です」とコメントした[105]。 実際には第二次世界大戦後に朝鮮半島に残された(日本人が作った)醸造設備を利用して製造しており[106]韓国内で製造されている醤油の技術は日本発祥である。
韓国にはカンジャンという醤油に似た調味料はあるが、醤油とは別物である。2006年10月に韓国農魚業芸術委員会によって開催された韓国骨董食品芸術展でも、日本の醤油や味噌は本来の製法や味でないとして、韓国のカンジャンやテンジャンとは違うことを強調している[107]。

味噌 National Defense Journal が、言うまでもなく日本の味噌も、味噌玉麹を使った古代韓国人たちが日本に渡って広めた食文化だと主張[108]。また、『国民日報』が「ミソが我が国の言葉、メジュ(味噌玉麹)に由来した名前であり、我が国が味噌文化の宗主国であることを強調し、テンジャンが登録商標になっていればよかったという惜しさは残る。我が国の食べ物が世界の人々の味覚を捕らえれば、経済的、文化的波及効果は途方もなく大きいだけに、今後は食べ物の主権守りと食文化普及にもっと関心を持たなければならない」と主張している[97]。 根拠不明。味噌に似た発酵調味料は東アジア各地に古くから分布したが、同一の起源を持つものかどうかは明らかではない。日本の味噌は、一般的には縄文時代に中国から伝わったか日本国内で作り出されたとされている。
味噌汁 朝鮮日報が、『薬師寺は大きなイベントがある度に韓国伝統の味噌汁を用意するなど、さまざまな面から韓国と深い関連があるものとみられる。天皇が自ら「韓国人の血を引いている」と明らかにしたように皇室の願寺だったためではないかと思われる。』と主張
[109]。

根拠不明。そもそも薬師寺には味噌汁をふるまうようなイベントは存在しない[110]。そして、今上天皇の発言は「桓武天皇の生母である高野新笠が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている」というもので、これは「日本に帰化した百済系移民の約10世後の子孫が天皇家に嫁いだ」という意味であり、当時の百済と現在の半島では民族構成も全く異なり、「韓国人の血を引いている」とは言えない。
高野新笠が帰化人の家系出身であった事は間違いないとされているものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する声もある[111][111](詳細は高野新笠を参照)。

納豆 National Defense Journal の主張[108]によると、『納豆は韓国のダムブックジャンが起源である。「朝鮮出兵から帰った加藤清正が九州に納豆を広めた」という熊本の農業高校教師の菊池、平野の研究がある。一説には、7世紀中頃、朝鮮の僧侶が味噌玉麹豆を日本に持って行き、納豆を作ったという記録もある。』 朝鮮には、そもそも納豆菌を利用した食品自体が存在しない。また、糸引き納豆に相当する食品も朝鮮には存在しない。朝鮮の「味噌玉麹(메주・メジュ)」は納豆菌を使用しない。清麹醤(チョングッチャン)は広い意味での枯草菌類を利用するが、納豆菌ではない。なお、塩辛納豆に関しては、奈良時代に中国から伝わった豉が起源であると考えられている。
沢庵漬け
沢庵宗彭 National Defense Journal が、「沢庵は江戸時代初期に朝鮮から日本に渡った僧侶テックアムが初めて作り方を教えてあげたものだ。沢庵とはテックアムの日本名だ。沢庵和尚が考案したから沢庵を呼ぶようになった」と主張[108]。また、米国のカリフォルニア州ASU副総長の食生活文化研究者キム・ヨンボクも、『慶南道民日報』2010年6月22日で、「沢庵は壬辰倭乱直後、朝鮮から当時江戸時代初期の日本に渡っていって京都の地、大徳寺(京都市)周知にあった高僧の沢庵(タクアン・1573〜1645年)僧侶が作った漬物(野菜を塩漬けする日本保存食物)だ」と主張[94]。また、世界キムチ研究所の朴完洙初代所長は、「外国人にはキムチをコリアンピクルスと認識している人が多い。逆に言えば、ピクルスや沢庵など漬け物類がすべてキムチの一種ということだ」と主張[112]。


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