mixiユーザー(id:33738144)

2017年05月12日07:55

858 view

●君が代の歴史 

●君が代の歴史 
◆ 君が代の歴史 山田孝雄
天皇の治世」を奉祝する歌であり、「祝福を受ける人の寿命」を歌う和歌を元にしている。 歌詞は10世紀初めに編纂された『古今和歌集』の短歌の一つで、曲は1880年(明治13年)に付けられた。 以後、国歌として歌われ、1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。

君が代 - Wikipedia
http://search.yahoo.co.jp/r/_ylt=A7YWNMlh4hRZrGIAEA2DTwx./SIG=12vlo36lg/EXP=1494641697/**https%3A//ja.wikipedia.org/wiki/%25E5%2590%259B%25E3%2581%258C%25E4%25BB%25A3
 
◆君が代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3
君が代(きみがよ)は、日本国の国歌。「天皇の治世」を奉祝する歌であり、「祝福を受ける人の寿命」を歌う和歌を元にしている。

歌詞は10世紀初めに編纂された『古今和歌集』の短歌の一つで、曲は1880年(明治13年)に付けられた。以後、国歌として歌われ、1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。
・日本における君が代の認識

国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[5]

つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊(多くは管楽器群と打楽器群から成る吹奏楽の編成が採られる)が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳した[注 2]ものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった[5]。

こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。
和歌としての君が代
テキストと作者

作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師で、当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなる。[要出典]

歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)[6][7]。

『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている[8]。

なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[8]。
解釈

万葉集などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。転じて「わが君の御代」となる。国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」とは天皇なのかどうかということがしばしば問題にされる。

『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということである[9]。

『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人[注 3]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる[10]。

これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。

ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』[注 4]である。堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである[5]。

『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[10]。
国歌になるまでの君が代
鈴木春信の春画。教え子を手籠めにする手習いの師匠を描いたもので、左下の看板に和歌「君が代」が見える。春信は描写に無駄のないことで知られ、この和歌も春画を構成する一要素とみられる

元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。

江戸時代には、性を含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す[要出典])に変形されて隆達節の巻頭に載り(同じ歌が米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる[11])、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた[12]。
明治維新から「君が代」制定まで
譜面の表紙、クルト・ネットー作(1880年)
薩摩バンドが寄宿していた横浜妙香寺境内に建つ
ウィキソースに歌詞の原文があります。

1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された[6][13]。

当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、1876年(明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終えて帰国、その後1880年(明治13年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[6][7][13]。なお、改訂版「君が代」の第2主題は、ヨーゼフ・シュトラウスが1862年に作曲した『日本行進曲』にも「日本の旋律」として登場しており、この部分については古くから伝わる旋律を採り入れたものと考えられる。

同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された[7][13]。

その後の1893年(明治26年)8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[7][14]。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている[14]。また1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[7]。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。

1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した[15]。ただし、コンクールの詳細は不明。[
 
◆君が代の本当の意味… 国歌は天皇を崇拝する歌ではなかった。
https://matome.naver.jp/odai/2138441151064814801
1869年(明治2年)、大山巌が、天皇が臨席する儀式用の歌として『君が代』を選んだ。世界の国歌と比べてみても、『君が代』は素晴らしい!『君が代』を堂々と歌おう!

更新日: 2016年08月19日
 
・君が代の本当の意味

"1869年(明治2年)、大山巌が、
天皇が臨席する儀式用の歌として『君が代』を選んだ。"

出典骨なしチキン 国歌「君が代」の本当の意味を知っていますか?他国と比較して見てください。
http://genzou704.blog107.fc2.com/blog-entry-62.html
 
◆君が代の起源はいつくらいにあるんですか??世
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1326662733?__ysp=5ZCb44GM5Luj44Gu5q205Y%2By
「君が代」の歌詞の原形が見えるのは「平安時代初期」とされます。
が、国歌という概念が出来たのは明治になってからですので、
約130年の歴史です。

古今和歌集(延喜5年905年)巻七:賀部巻頭によく似た歌が載っています。

『わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで』

「君が代」とは、最初の句が違うだけです。

初句を「君が代は」とした最古の例は、
『和漢朗詠集』(寛仁2年1018年に藤原公任が編集した詩歌集)、
であろうと言われています。

「君が代」は、日本が長い鎖国から目覚め、諸外国と交流を持ち、
周囲の国がそれぞれ国歌と言うものを持っていることを知り、
さっそく日本国国歌を作らなければと考えたことにより作られることになりました。

そこでまず『古今和歌集』にあった詩を手直しして、
上記の「君が代」と言う詩を創作ししました。(1869(明治2)年)
作曲は、当時イギリス公使館にいたイギリス軍楽隊長の、
ジョン・ウィリアム・フェルトンに作曲の依頼をしました。

「君が代」は、1870(明治3)年9月8日、
東京越中島での天皇閲兵の時に、
西謙蔵の指揮により薩摩藩軍楽隊の演奏で初演されたとされます。
ところが、軍部や軍楽隊長から
「あの曲は威厳に乏しく国風にそぐわないので改作をしたほうが良い」
と言う意見が出されます。

しばらくの間は、そのフェルトン作曲の「君が代」を演奏していましたが、
1880(明治13)年10月25日に、海軍省がフェントンの曲を改訂する形で、
宮内省楽長の林広守が作曲し直した君が代が初演されました。
これが、現在も演奏されている「君が代」です。

君が代の演奏や合アレンジなどはドイツ人フランツ・エッケルトが担当しています。

現在、君が代で歌われている歌詞は1番しかありませんが、
実際には2番もありますし、現在歌われているのは1番の途中までです。
1881(明治14)年に発行された
『小学唱歌集(初篇)』の中に記載されている「君が代」の歌詞は

(1)
君が代は/千代に八千代に/
さざれ石の/巌となりて/苔のむすまで/
動き無く/常磐(ときわ)かきはに/限りもあらじ
(2)
君が代は/千尋の底の/
さざれ石の/鵜(う)のゐる磯と/あらはるるまで/
限りなき/御代(みよ)の栄(さかえ)を/ほぎたてまつる

と言う物でした。

現在のように1番前半までしか歌わなくなったのは、
明治30年頃だと言われています。

ちなみに、
「君が代」の出典を薩摩琵琶歌であるとする見方もあります。
フェルトンが作曲したことは述べましたが、
薩摩藩軍楽隊の演奏で初演されたことと、
歌詞を選定したのが、薩摩藩砲兵隊長大山巌で、
その時用いられた歌詞は、
薩摩琵琶歌「蓬莱山」中にあった「君が代は〜」であったと言われています。
(出雲寺敬和『古樂の眞髓』)。
これは現在の「君が代」と全く同一の歌詞だからの説ですが、
その原詩は「古今和歌集」でしょうけど・・。
幕末の薩摩藩の権勢の一種かと思います。

『「君が代」の起源―「君が代」の本歌は挽歌だった』
↓思想的に偏りは少ないほうかと思います。
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0105223938
↓「君が代」の歴史をどうぞ・・。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/Tama-eiichi/kimigayo-rekishi.htm

ちなみに、「日の丸」の歴史は、

1633年:朱印船に日の丸が掲げられています。
1854年:江戸幕府が日の丸を「日本国総船印」と定めました。
1870年:太政官布告「商船規則」で船舶に掲げるべき国旗として
「日の丸」の様式が定められました。
1871年:在外公館(ワシントン)に初めて日の丸が掲げられました。
1872年:開港場所在地の県庁に日の丸が掲げられました。

となっています。


質問した人からのコメント

2009/5/30 18:48:40

大変勉強になりました。
ご丁寧にお教え頂き、誠にありがとうございます。
日本人として誇りを持って生きれるように、勉強したいと思います。
 
◆〜国旗「日の丸」と国家「君が代」〜
http://miyagi-jinjacho.or.jp/kokki/kokka.html
国旗と共に、世界の国々には、その国を代表する国歌があります。日本の国歌は「君が代」です。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

明治三年、諸外国にそれぞれ国歌があることを知り、わが国でも必要になりました。そこで選ばれた歌詞が、古くから多くの人々に愛唱されてきた「君が代」の和歌でありました。さらに明治二十六年には、文部省が、祝日・大祭日唱歌の一つとして制定し、国歌として認められました。 天皇陛下を国家と国民統合の象徴とあおぐ日本の国は、小石が砂などと積み重なって、大きな岩となり、その上に美しい苔が一面に生えるように、永遠に平和で栄え続きますようにと祈るのがこの歌です。 君が代の歌の歴史は古く、今から千年以上も前に遡ります。平安時代の中頃に編纂された「古今和歌集」の祝賀の歌の筆頭にある、読み人知らずの歌が原典だといわれています。
我君は千世に八千世にさぎれ石の巌となりて苔のむすまで

この歌が、人々に歌われるなかで一部が変化し、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、当時広く歌われていた有名な和歌・漢詩を集めた「和漢朗詠集」(写本)などには、今日の形そのままの「君が代」が登場します。

※基本的に国歌「君が代」は和歌の形式をふまえて二回斉唱します。
 
◆▼日の丸の起源▼
http://shibaracu.at.webry.info/201204/article_110.html
 
◆▼国歌「君が代」について▼  2010年12月23日 
http://shibaracu.blogspot.jp/2012/09/20101223_20.html
 
◆国旗と国家  日の丸と君が代
http://ameblo.jp/shibaracu/entry-11090416636.html
 
◆ 世界で唯一 のラブソング国歌ー君が代
http://p.tl/XEW2
</op:large></op:b>
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する