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2017年01月27日01:20

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1月26日の行書問題その2

よっしゃー、もう少し!!

H25

○憲法の精神的自由ーレベル3

11、次の1〜5は、法廷内における傍聴人のメモ採取を禁止することが憲法に違反しないかが争われた事件の最高裁判所判決に関する文章である。判決の趣旨と異なるものはどれか。

1. 報道機関の取材の自由は憲法21条1項の規定の保障の下にあることはいうまでもないが、この自由は他の国民一般にも平等に保障されるものであり、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷内でのメモ採取を許可することが許されるかは、それが表現の自由に関わることに鑑みても、法の下の平等との関係で慎重な審査を必要とする。
2. 憲法82条1項は、裁判の対審及び判決が公開の法廷で行われるべきことを定めているが、その趣旨は、裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにある。
3. 憲法21条1項は表現の自由を保障しており、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、個人の人格発展にも民主主義社会にとっても必要不可欠であるから、情報を摂取する自由は、右規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれる。

11
こたえ
『1』
1.誤り。
取材の自由について、判例は、「保障の下」ではなく「十分尊重に値する」と述べている。

報道機関における報道の自由や取材の自由が憲法上で保障ないし十分尊重されるのは、国民の知る権利と表裏一体の関係であるからであって、報道機関ではない国民一般の取材にはその関係性がないので、その自由が平等に保障されるとはいえない。

H26

13条に関する次の記述のうち、正しいものはどれか。

H26

○憲法の新しい人権ーレベル3

12、憲法13条に関する次の記述のうち、正しいものはどれか。

1. 幸福追求権について、学説は憲法に列挙されていない新しい人権の根拠となる一般的かつ包括的な権利であると解するが、判例は立法による具体化を必要とするプログラム規定だという立場をとる。
2. 幸福追求権の内容について、個人の人格的生存に必要不可欠な行為を行う自由を一般的に保障するものと解する見解があり、これを「一般的行為自由説」という。
3. プライバシーの権利について、個人の私的領域に他者を無断で立ち入らせないという消極的側面と並んで、積極的に自己に関する情報をコントロールする権利という側面も認める見解が有力である。
4. プライバシーの権利が、私法上、他者の侵害から私的領域を防御するという性格をもつのに対して、自己決定権は、公法上、国公立の学校や病院などにおける社会的な共同生活の中で生じる問題を取り扱う。
5. 憲法13条が幸福追求権を保障したことをうけ、人権規定の私人間効力が判例上確立された1970年代以降、生命・身体、名誉・プライバシー、氏名・肖像等に関する私法上の人格権が初めて認められるようになった。


こたえ
『3』
正しい。
プライバシーの権利は、情報化社会の進展にともない、「自己に関する情報をコントロールする権利」(情報プライバシー権)と捉えられて、自由権的側面のみならず、プライバシーの保護を公権力に対して積極的に請求していくという側面が重視されるようになってきている。

H24

○憲法の多肢選択式ーレベル3

13、めぐる2つの対立する考え方に関する最高裁判所判決の一節(一部を省略)である。空欄[ア]〜[エ]に当てはまる語句を、枠内の選択肢(1〜 20)から選びなさい。

一の見解は、子どもの教育は、親を含む国民全体の共通関心事であり、公教育制度は、このような国民の期待と要求に応じて形成、実施されるものであつて、そこにおいて支配し、実現されるべきものは国民全体の教育意思であるが、この国民全体の教育意思は、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国民全体の意思の決定の唯一のルートである国会の法律制定を通じて具体化されるべきものであるから、法律は、当然に、公教育における[ア]についても包活的にこれを定めることができ、また、教育行政機関も、法律の授権に基づく限り、広くこれらの事項について決定権限を有する、と主張する。これに対し、他の見解は、子どもの教育は、憲法二六条の保障する子どもの教育を受ける権利に対する責務として行われるべきもので、このような責務をになう者は、親を中心とする国民全体であり、公教育としての子どもの教育は、いわば親の教育義務の共同化ともいうべき性格をもつのであつて、それ故にまた、教基法*一〇条一項も、教育は、国民全体の信託の下に、これに対して直接に責任を負うように行われなければならないとしている、 したがつて、権力主体としての国の子どもの教育に対するかかわり合いは、右のような国民の教育義務の遂行を側面から助成するための[イ]に限られ、子どもの[ア]については、国は原則として介入権能をもたず、教育は、その実施にあたる教師が、その[ウ]としての立場から、国民全体に対して教育的、文化的責任を負うような形で、……決定、遂行すべきものであり、このことはまた、憲法二三条における学問の自由の保障が、学問研究の自由ばかりでなく、[エ]をも含み、[エ]は、教育の本質上、高等教育のみならず、普通教育におけるそれにも及ぶと解すべきことによつても裏付けられる、と主張するのである。

1、初等教育      2、教科書検定        3、諸条件の整備   4、教授の自由
5、教育公務員     6、第三者           7、教科用図書    8、学習指導要領
9、教育専門家     10、教育の内容及び方法  11、研究者
12、管理者       13、中等教育         14、学習権      15、懲戒権
16、私立学校の自治  17、大学の自治      18、公の支配
19、職務命令      20、指揮監督

(注)*  教育基本法

13
こたえ
ア10 イ3 ウ9 エ4

各空欄は、エを除いて、憲法上の重要単語とは言えないため、前後の文脈、全体の趣旨等による文章理解力的な解き方となる。

その前提として、抜粋部分からこれが何の判例か判断できて、かつ、判例全体の概要を掴んでいないと、3/4以上の正解にたどり着くのは難しい。
以下、その概要を説明しておく。

当該判例(最大判昭和51年5月21日)は、旭川学テ事件と呼ばれるものであり、全国中学校一斉学力調査テスト(学テ)に対して、反対する労組役員が旭川市の中学校で実力阻止行動をとって、公務執行妨害等で起訴された事件である。

被告の主張は、学テは違法であるから、公務執行妨害は成立しないというものであったが、その判断をする前提として教育権の帰属は誰にあるのかが問題となった。

それまで、教育権の帰属については、家永教科書裁判を中心にして、国家に帰属するという国家教育権説と、親を中心とした国民に帰属する(よって、教師は教授の自由がある)という国民教育権説が激しく対立していた。

この判例抜粋部分は、このことを説明すべく前半(一の見解〜と主張する。)は国家教育権説について書かれており、後半(これに対し〜と主張するのである。)は国民教育権説について書かれている。

判例は続けて、「二つの見解はいずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできない」とし、その中間的な折衷説を採用した。

「親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する」としている。
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