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2016年08月27日00:27

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疑問

高畑淳子が会見 涙で謝罪「大変なことをしてしまいました」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=4161314





当該事件の記事のコメントを見ると、「母親が甘やかした」という趣旨のコメントが多々見受けられるが、これに対して疑問がある。

そもそも家庭環境という極めて閉鎖的かつプライバシーの最たるものに対して、当該事件の事実だけを以って他人が安易に断定・批判することは軽率であると考える。

同様に子育てという絶対的な正解のない漠然とした抽象的なものに対し、当該事件の事実のみを以って子育てをしてきた事実そのものを全否定することも妥当であるとは思えない。

仮に断定・批判するならばそれなりの根拠も示す必要があると考える。

よって、上記部分について根拠のない断定・批判はもはや誹謗中傷であり、それは一歩間違えれば犯罪行為または不法行為であり、「ミイラ取りがミイラになる」という本末転倒な結果になる恐れが高いから、慎重になるべきだ。



また、当該会見自体を否定するコメントも多々見受けられるが、これにも疑問がある。

会見自体は強制されたものではなく母親本人が自ら進んで行ったことであり、会見内容も被害者に対する謝罪・関係者に対する謝罪・接見内容の報告・息子が犯した犯罪に対し真っ直ぐ素直に向き合い、被害者と罪に対する償いを第一に考えるという私見を述べたに過ぎないから、母親に何ら落ち度は認められず、法的・道徳的に批判を受けるべき部分はない。

余談だが、当該会見を否定する者は往々にして母親が会見をしようがしまいが批判をするだろうから、余程合理的根拠がない限り議論に値しない。

ともあれ、今現時点で確実に言えることは、あくまでも批判を受け法的・道徳的責任を負うべきなのは当該被疑者自身でありその家族(例えば母親)ではない。

当該被疑者が成人かつ健常者である以上、例えどんなに親しい間柄の者や血縁関係者であっても、批判を受け責任を追及されるべきではない。

そこを間違えると、先述したように批判する側が犯罪者になってしまう危険性があることや批判の対象や責任の所在範囲が究極的には一族全員が責任を負うべきという事態になり、その境界線や基準が曖昧になる。

これは法的・道徳的にはもちろん責任論においても望ましいとは思えない。
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