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2016年05月28日17:52

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オバマは自虐史観ではないのか

■オバマ氏歓迎一色に違和感 ゴジラ描いた核の恐怖どこへ
(朝日新聞デジタル - 05月28日 15:57)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4015378

日本軍のなした残虐行為に批判的な目を向けることを「自虐史観」として批判する人々は、今回のオバマの振る舞いも、自虐史観だと批判しなければ平仄が合わないだろう。アメリカ目線に立てば当然そういう論理になるはずなのだから。

逆に今回のオバマの行動を礼賛するのであれば、自国の過ちに向き合うことを「自虐」などと打ち捨てることは恥ずべきことだと知るべきだ。自国がやられた時だけしか正義を振りかざせないようでは、所詮小悪党の居直りである。

中国はここぞとばかり南京を持ち出して釘を刺したようだが、別に日本軍の蛮行は南京だけではない。むしろ南京事件は、そのほかの夥しい数の過ちを覆い隠してしまっているきらいすらある。

オバマの広島訪問を評価する人々には、ぜひ『BC級裁判を読む』を一読してもらいたい。これは半藤一利、秦郁彦、保阪正康という著名な歴史家三人が、日経記者の井上亮が国立公文書館資料を読み込んでまとめた文章を元に座談会をしたものだ。

BC級裁判は、「私は貝になりたい」のイメージが強いせいか、冤罪で日本兵が裁かれたかのように思われているが、実際の裁判における被告人の自己弁護は、その多くが「命令だった。断れなかった」といったもので、起きた事件そのものは認めているケースが非常に多いのである。それだけに現代日本人が歴史と向き合う時、最も深刻な道徳的課題を突きつける。

戦争指導者の犯罪性を裁いた東京裁判と違って、BC級裁判は直接の実行行為者を裁いたケースが多い。職務の性質上、戦争指導者は直接人を殺めていない分、話が抽象的になるので自己合理化も図りやすい。それに比べてBC級裁判の事例はもっとはるかに具体性のある問題を扱うので、単なる評価の問題には逃げられない。

広島での大量殺戮が厳たる歴史事実であるように、BC級裁判の事例もまた悲しい歴史の記念碑なのだ。日本の保守政治家に、そうした記念碑の前に献花できる度量の持ち主は果たしているだろうか。まずいまい。なぜならそうした保守政治家にとって加害の歴史を認めることは単なる「自虐」に過ぎないからだ。

オバマの広島訪問が道義的に尊いものだったと受け止めるのならば、同じ理屈と価値基準を我と我が身に当てはめなくてはならない。それができないのならば、オバマのことも非愛国的自虐史観として批判し倒すべきだろう。自他でものさしを使い分けるのは非論理的であり不誠実だからだ。

日本で日頃「愛国心」なるものをさかしらに見せびらかす連中は、もしアメリカに生を受けていたら、今回のオバマの行動をさぞ口汚くなじったことだろう。

どこの国のナショナリストにも見受けられることだが、自国に味方する限り、その人間が本国から見ると「売国奴」であっても歓迎する傾向がある。普段、「愛国」に高い価値を見出しながらも、「売国奴」を歓迎する。ナショナリストの陳腐さが如実に現れる場面である。要するに単なる身びいきなのであり、論理的な背骨はほぼ存在しないのだ。

思想として確固たる論理の体型があるならば、アメリカ人ならアメリカに、日本人なら日本に「愛国的」であるかどうかを問題にするはずだろう。そういう一貫性を持ったナショナリストは、ほぼ見かけない。日本に味方するなら善、批判に回るなら悪。分かりやすいが、知性には欠ける。こういう態度は少なくとも「思想」ではない。
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