【回答】
久松五勇士とは,日本海海戦に先立ち,バルチック艦隊発見の知らせを宮古島から石垣島に伝えた5人の漁師のことを指す.
1905.5.23,奥浜牛という那覇の帆船乗りの青年が,宮古島北西沖(北緯 25度20分, 東経125度43分付近)を北上しているバルチック艦隊に遭遇.
バルチック艦隊も彼を視認していたが,龍の大漁旗と,独特の長髪のため,中国人と判断して捕えなかった.
奥浜は宮古島の漲水港(現・平良港)に26日午前10時頃に着き,駐在所の警察官とともに役場に駆け込んだ.
当時の宮古島には通信施設がなかったため,当時の島司(島長)・橋口郡六はこれを連合艦隊司令部,海軍省,県知事へ急いで知らせるため通信施設のある八重山へ遣いを向かわせることにした.
一番近くの電信が打てる場所は,石垣島の八重山郵便電信局だったからだ.
そこで島司と役員たちは大急ぎで,サバニ(鱶舟)というくり舟で,外洋の高波を越えて確実に石垣島までたどり着くことのできる,すぐれた操船技術をもっている若者,サバニを長時間こぎ続けることのできる強靭な体力を持つ若者を選ぶための会議をし,そして以下の漁師5人を選抜.
松原村在住 垣花 善 (かきはな よし) 兄 1876年生れ 29歳
松原村在住 垣花 清 (かきはな きよし) 弟 1883年生れ 22歳
松原村在住 与那覇蒲 (よなは かま) 兄 1880年生れ 25歳
松原村在住 与那覇松 (よなは まつ) 弟 1882年生れ 23歳
久貝原在住 与那覇蒲 (よなは かま) 松原村の与那覇蒲とは
同姓同名の別人 1884年生れ 21歳
5人は15時間,サバニを必死に漕ぎ,170km離れた石垣島の東海岸に着いて,さらに30kmの山道を歩き,27日午前4時頃,八重山郵便局に飛び込んだ.
石垣村まで船で行かず,途中で島に上陸したのは,引き潮のために水深が浅くなり,船を進めることが出来なくなったため.
局員は宮古島島司からの文書を垣花善から受け取って,電信を那覇の郵便局本局へ打ち,電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた.
しかし日本本土への連絡は,信濃丸によるものが数時間早かったため,この情報が直接役立つことはなく,その後,5人の行為は忘れられていた.
軍事上の機密扱いということで,人々に知られることが無かったためだ.
5人も,やはり軍機ということで,石垣島に行った目的について語ろうとはしなかった.
しかし,1920〜1930年代,5人の活躍は宮古島でも噂話として広がり,沖縄師範学校主事・稲垣国三郎,元早稲田大学教授・五十嵐勤,原海軍監督官らが久松五勇姿表彰運動を起こし,新聞などでも取り上げられるようになった.
そして,中等国文教科書に「遅かりし一時間」と題する見出しで掲載されると,一躍評価が高まり,そして1935年,時の海軍大臣から久松五勇士は表彰をうけることとなり,郷土の英雄となった.
戦後,軍国主義礼賛に繋がるとして,GHQ指令により教科書は黒く塗り潰され,再び5人は忘れ去られることになった.
まあ,教科書掲載当時の社会風潮から考えて,「軍国主義礼賛の意図はなかった」と言えば,ウソになるだろうが.
しかし地元では依然,郷土の英雄のままであった.
久貝部落,偉人岬のてっぺんに五人の顕彰碑が建てられたのが1966年.
1985年からは5人を記念して,宮古島トライアスロン大会が,日本初の本格的トライアスロン大会として開催され,2016年現在も続いている.
【参考ページ】
http://www.miyako-net.ne.jp/~agannya/drive-kugai.htm
http://www.geocities.jp/kaccyan328/story.htm
http://www.miyakojima-kids.net/HISAMATSU_5_YUSHI.HTML
http://miyakojima.net/kankou-meisyo/goyuusi.html
『デキゴトロジー』vol.6(週刊朝日風俗リサーチ特別局・編,新潮社,1987)
写真左:表彰された5人
写真右:「久松五勇士」110周年を記念した再現航海のサバニ
ログインしてコメントを確認・投稿する