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2016年02月20日12:58

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「読むこと」は基本です

■高校国語必修を2科目に 文科省、中教審にたたき台示す
(朝日新聞デジタル - 02月19日 19:59)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3860283

≪現在は「国語総合」1科目が必修で、教える内容が「読むこと」に偏っていたという。このため、「現代の国語」では、話し合いや論述といった表現能力を育む内容にする方針。「言語文化」は、古典の学習が中心で、今の日本語にどうつながっているかなども学ぶ≫

いま思えば、高校で勉強する各教科の中で、「現代国語」において要求される学力水準というものは、英語や数学と比べても、かなり高度なものであったのかも知れない。

少なくとも、そこそこレベル以上の大学の入学試験の「現代国語」においては、文章をきちんと正確に読み取って、著者の言わんとする趣旨を理解して、ロジカルに分析・思考することが要求される。国立大学の2次試験であれば、基本的には論述問題ばかりだから、その上で簡にして要を得た文章で解答することが必要となる。

現在の国語教育は読むことに偏っているというが、読むことは国語教育の基本であるし、大学に入ってからも、社会人になってからも、何をするにしても必須の能力である。ちゃんと読めなければ、ちゃんと考えることができないし、まともな文章も書けない。趣旨の整った発言もできないだろう。読むことに偏っているというが、いまの高校卒業生の何割が、ちゃんと読めるレベルまで到達できているのだろうか。

そういう意味では、文科省はあまり余計なことを考えずに、ヘンな小手先の改革など検討することなく、国語境域において、もっともっと「読むこと」に専念させるべきであろう。

そのためには、国語教師の質も改善する必要がある。中学や高校の国語教師の大半は文学部出身者であるが、上記のとおり、「現代国語」教育は文学教育ではなくて、むしろ「ロジカル・シンキング」「論理学」に近いものであるべきであり、文学部出身者、文学青年崩ればかりに任せておいて良いとも思えない。むしろ、いろいろなバックグラウンドを持った人材を集めた方が、「正しい」「役に立つ」ような「現代国語」教育ができるように思われる。

ついでに言えば、「現代国語」の教科書に小説を掲載することは最小限にとどめるべきである。文学部出身者の教師が多いせいもあるが、ともすれば、国語教育と文学教育を混同しているのではないかと思われるような教師が目につく。僕が中高生の頃もそうだった。だが、ロジカルな思考を身につけさせるための教育としての「現代国語」であれば、むしろ小説などよりも、さまざまなジャンルの論説文を読ませた方がよい。レベル的には岩波新書とか中公新書あたりがちょうど適当であろう。最近はいろいろな出版社が新書を発刊していて、中にはヒドいレベルのものもあるが、岩波とか中公のものはまだ信用できる。しかしイマドキの平均的な大学生あたりの学力だと、ああいう新書をスイスイと読めるだけの読書力がないのだ。

したがって新書レベルの本をテキストに選んで、大量の読書をさせて、レポートを書かせるような教育が、「現代国語」教育には相応しい。レポートも単なる感想文ではダメである。大学入試の小論文のようにちゃんと課題を決めて、読んだ課題の内容を踏まえた内容のまとまった文章を書かせるトレーニングを積ませる必要がある。書きっぱなしでは無意味なので、教師はきちんとそれを添削できなければならない。だが、あくまでも「読むこと」が主であって、「書くこと」は従である。正確に読めないのに、正しい文章は書けないからである。

少量ではなく大量に読むというのもミソである。新書1冊を1ヶ月もかけて読んでいては意味がない。限られた時間でざっと読んで、骨子だけでも理解できるような能力が、大学に入っても、社会に出ても役に立つ本当の読書力である。

正確に文章を読み、達意に文章を書こうと思えば、日本語の文法や語法の勉強も必要になる。文法をやみくもに暗記するのではなくて、必要に迫られれば、ちゃんと身につく勉強ができるはずである。

古典や漢文は、僕の私見だが、必須科目である必要はなく、選択科目というか、以上のような「現代国語」の勉強だけだと物足りないような学力優秀者だけに学ばせればいいと思う。イマドキの日本語もまともに扱えないような連中に、古典・漢文は荷が重すぎる。教える方も学ぶ方も時間と体力が無駄である。古典・漢文というのは、欧米であれば、ラテン語とかギリシア語に相当するが、そういうものは本来ならば知識層だけが勉強すればいいのだ。

古典や漢文の勉強は、いわば「教養教育」であるが、現代国語の勉強は、「実学」そのものである。ごく一部の学力的にも向学心においても余裕のある層にのみ必要な知識よりも、まずはこれから必要になる知識をきちんと付与することに高校教育は全力を尽くすべきである。

そういう文脈で言えば、古典・漢文は選択科目でもよいが、英語は必須科目であるべきだろう。ただし、もっと実用性のある英語教育であるが、それは英会話を意味しているのではなくて、きちんと読めて、きちんと書ける使える英語のことである。
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