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2016年02月07日19:22

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規制も行き過ぎると、生きにくい世の中になる

言論・表現の自由はどこに……「放送禁止用語」の厳しすぎる自主規制
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=3839432

最近の「仮面ライダー」は改造人間ではないというのを最近になって知った。

ネット等で検索すると、医療が発達してきた中で、臓器移植や体内に取り付ける医療機器が生まれたことで、悪の秘密結社の陰謀により、自分の意思に反して身体を改造された改造人間という存在を、ネガティブなとらえ方でドラマの設定に用いることで、実際に臓器移植等を受けた人たちを傷つけてしまうかも知れない等の、時代の変化への配慮が行われたという説が有力なようであるが、そこまで配慮しなければならないものだろうか。

「あしたのジョー」は漫画史に残る傑作だと思うのだが、今では「ドヤ街」が舞台だという設定自体、どうもよろしくないらしい。そんなこと言い始めたら、大阪の西成区が舞台の「じゃりン子チエ」なども問題になるのだろうか。

同様に、手塚治虫の「ジャングル大帝」なども、黒人差別を助長する有害マンガだとされているようである。

まったく馬鹿げた話だと思う。

世の中には、いろいろな考え方、政治的な立場、宗教的な見解、さまざまな価値観がある。はっきりと善悪の線引きができることもあるが、立場が変われば、大抵の場合、違ったモノの見方ができるようなことは少なくない。

あまりにあれこれと配慮しすぎると、何も言えなくなる。

当然に、何かを言えば、誰かを怒らせたり、不愉快にさせたりすることがあるが、それは仕方のないことである。世の中の全員に対して、「いい顔」はできない。皆それぞれ、立場も考え方も異なるからである。

僕などは、思ったことをハッキリと言ってしまう。それで知らず知らずのうちに敵をつくったこともあるし、損をしたこともある。でも、そういう性格は治せないから、相変わらず、思ったことを口に出してしまう。

テレビ等の公共の放送機関だって事情は大して変わらない。

もちろん、事実と明らかに異なることや、特定の人々に対するいわれなき誹謗中傷は論外であるが、何かの主張やメッセージを伝えるということは、それに賛同する人だけではなく、反対意見を表明する人をつくり出すことでもある。議論が巻き起こるから、人々の認識がより深まることだって期待できるし、論点が整理され、新たなアイデアが生まれることだってある。

企業の中だって、身内意識で凝り固まって、議論する前にお互いに「空気」ばかり読みあっていると、「おかしい」と思うことだって改革することが難しくなり、やがて「東芝」や「シャープ」みたいな事態に陥ってしまう。

話が逸れてしまったが、なんでも「自主規制」すれば良いというものではない。因縁つけられるリスクをあらかじめ排除するための「自主規制」ばかりが助長されていると、そのうち、何も表現できなくなってしまうだろう。

「中立」「公平」「不偏」といった立場は、頭の中の抽象的思考の産物であって、現実世界ではまず存在しないと割り切った方がよい。我々は、「オギャー」と生まれて以来、生きている限りは、自身の存在に拘束され、特定の立場や主義主張から逃れることはできないのである。

テレビ局だって、新聞だって、一見して「中立」的な立場を取っているかのごとく装っていても、特定の主義主張を巧妙に視聴者に伝えようとしているものである。

規制なんか、いっそ全廃してしまった方が、却って潔いような気がするが如何なものか。
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