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2015年09月30日00:17

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久坂秀次郎の現実の生涯

久坂秀次郎は、玄瑞が京都で辰路という女性に子どもを生ませており、辰路が申告し、品川弥二郎が確認した結果、久坂玄瑞の息子として認知されている。

品川弥二郎に一任された結果だが品川が結論を出すだけの根拠があったのだろう

秀次郎が正式に、久坂家の跡継ぎになったのは1879年とされ、10年ほどドラマと異なりタイムラグがある。10年の長きに渡り、養子で当主の粂次郎と実子・秀次郎は奇妙な関係を続けることになった。美和の杉家関係の抵抗があったと想像した方が整合性がつく

大倉組の台湾基隆支社に勤務し、亡くなったのは東京で68歳になる。

実は秀次郎は生後、久坂玄瑞の縁者である酒造家に託され、長州藩の徳佐村という場所で育っている。京都にいたわけではない。

明治12年(1879年)9月、秀次郎が久坂家を継ぐことが決まった。当時15歳の秀次郎の養育費は楫取素彦が工面することも同時に決まった。

秀次郎は久坂家を正式に継いだ後、大倉組(ホテルオークラや現在の大成建設などが属していた大倉財閥の企業)という会社の台湾支社で勤務する。久坂家を継いだ久坂秀次郎は品川弥次郎のヒキもあり、平凡なサラリーマンとして明治、大正、昭和を生き抜く事になる。
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