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2015年09月20日16:37

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もうキリスト教における神の居場所

キリスト教における神の居場所/無知蒙昧者が語る似非現代キリスト教論者・めくらまったくの燃債の利がないデタラメをいって世間を惑わす虚偽。ナンセンス【nonsense】なトーク。こうやって世の中のひとは騙されてキチガイトークを鵜呑みにして拡散されてまかり通れば、社会は荒廃する。あんたらの感覚は300年前に終末で死んだハリボテの似非現在キリス教を後生大事にさも価値ありのように見せかけてるただの虚構の世界の熱狂者で気持ち悪い。
もうキリスト教における神の居場所─NEWSポストセブン / 2015年9月19日 16時0分 
 社会学者の橋爪大三郎氏と元外務省主任分析官の佐藤優氏による対談。今回両氏が挑むのは、現代キリスト教に最も影響を与えた神学者カール・バルトである。バルト神学を突き詰めれば、今後キリスト教世界の進む道が見えてくる。
橋爪:これまでは歴史的な文脈で三大一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)を語ってきましたが、今回は現代のキリスト教に絞って議論を進めてみましょう。
佐藤:キリスト教は第一次世界大戦を境に大きく変わりました。19世紀の主流も啓蒙主義でした。多くの人が基本的には科学技術と人間の理性に頼ることで理想的な社会が作られていると考えていた。
橋爪:神がいなくても合理的に考えれば、世界は進歩していくはずだ、と。
佐藤:そうです。また19世紀はナショナリズムの時代でもあった。国家や民族という大義の前に命を投げ出す土壌がつくられた。そして大量破壊、大量殺戮をもたらした第一次大戦が起きた。
 19世紀は、基本的に18世紀の啓蒙主義を継承していた。理性を基本にした社会から世界大戦が生じてしまった。そして伝統的神学はこの戦争を追認することしかできなかった。この限界を克服しようとする過程でバルト神学は生まれたのです。バルト神学は、現在のキリスト教を考えるうえで避けては通れないほどの影響力があります。
橋爪:バルト神学は、スイスの神学者カール・バルト(※注1)が確立したものですね。どんな特徴がありますか?
【(※注1)1886―1968。スイスの神学者。バルトが著した新しい聖書解釈「ローマ書」は第一次世界大戦後のヨーロッパに影響を与え、一大神学運動を巻き起こした】
佐藤:18世紀末ころまでキリスト教では、神は天上にいると考えられていました。
橋爪:でもそれでは、当時市民の間で常識となった天体学や科学と矛盾してしまいます。
佐藤:そうなんです。そんな時期、「19世紀プロテスタント神学の父」と呼ばれたドイツの神学者シュライエルマッハー(※注2)は、神は心のなかにいるという説を唱えた。しかし神が心のなかにいると自分の主観的な感情と神を区別できなくなる。このシュライエルマッハーの考えを否定したのが、バルトです。
【(※注2)1768―1834。ドイツの神学者。宗教を哲学や道徳と区別。宇宙の直観の領域と説いた】
 バルトは、神は物理的な意味で上にいないことを理解しながらも「神は上にいる」と定義しました。人間は神ではないから神について知ることはできない。しかし牧師や神学者は信徒に神について語らなければならない。だから神学は「不可能の可能性」に挑戦する学問だと主張しました。
 バルトが「不可能の可能性」と語ったのは第一次大戦後の1918年。そこから神の居場所が「心のなか」から「上」へと変わったのです。
※SAPIO2015年10月号
上から4行目でデタラメぶりが出てる世迷言、4行目のトーク
橋爪:神がいなくても合理的に考えれば、世界は進歩していくはずだ、と。
佐藤:そうです。また19世紀はナショナリズムの時代でもあった。国家や民族という大義の前に命を投げ出す土壌がつくられた。そして大量破壊、大量殺戮をもたらした第一次大戦が起きた。
ここでもう終わってるわけです。これって人間のキリスト教です。とにかく何もご存知でない無知蒙昧の似非現在キリスト教(普遍的キリスト教会・カソリックやプロテスタント教会でそれらをデカダン・アンティークキリスト教会と仮称、なぜならハリボテが未だに現代までさ迷い漂流している。というのもこういう頓珍漢な妄信な無知低俗者のためにあるため。)【盲信】憧憬者の著名人は知ったかぶりで世間に出鱈目をばら撒き、それが何も知らないものが鵜呑みにして妄信して世間にまかり通ってしまう。
既に300年前の富士山富士山が宝永大噴火した時に現代キリスト教は栄枯盛衰の末期で終末して死に絶えたのです。が、とはいえなかなか消滅することなく残骸の残党が行き場がなく止めないでズルズルと現代までそれらカスは引き継がれて漂流しながら世間の人々を妄信させて取込み根強く欺いて洗脳して生き永らえているが価値はないし、盲信した末端信者は精神を病んで苦しんでいる者が多いこと。キリスト教が既に近世で全て総じて代の終末で完結したのことも知らない世間のデカダン・アンティークキリスト教会の末端信者。古い教会のなかでもがいて抜け出せないで虜になってしまってる。見えない枷が末端信者の身体に巻き付いていて染みこんでいるために盲目で熱狂的。なので一度、それら似非キリスト教モドキに落ちて妄信すると更に上の特殊なる新キリスト教会へと来られるのは無理でみな耐えられずにUターンで古巣に舞い戻る。それを私は何度も見てきた。古い教会のデカダン・アンティークキリスト教会の末端信者は虚言の似非キリスト教会から離れないでいるのが実態なのです。今日も若い世代で妄信していく人達。

追記: もう赤福餅創業の歳に代の終末で荒廃して蛇の脱け殻になってしまったカソリックやプロテスタント教会のデカダン・アンティークキリスト教会がいくら後世の人が論説で展開しようが、ますます狂った屁理屈でしかない。 なんで前のカソリックやプロテスタント教会のデカダン・アンティークが終幕したかのかはそこに聖書の真理がないからにほかならない。
聖書書の真理は神である主イエス・キリスト様はカソリックらが聖書の真理を悉く人間の恣意的な理屈で破壊することを予見してたために真理は閉ざさされて、これら似非現代キリスト教のデカダン・アンティークキリスト教会には主は臨在されなかった。 それどころか、主は御自ら教会を御建てになるまでは聖書の真理は誰にも分からない様になってたのです。 主は再臨されて主の真のキリスト教会が近世以後に開かれました。 今は前の古いデカダン・アンティークキリスト教会の者が主の御再臨の書を歪めようと破壊しようが消滅することはありません。何故なら、主の真のキリスト教会があるからです。つまりはヨハネによる黙示録の新しい天と新しい地エルサレムが確固たる主のもとにあるからです。 デカダン・アンティークキリスト教会のキチガイ信者がたとえ一万人で寄ってたかっても主の真のキリスト教会である特殊教会「ニューエルサレム教会」には敵いません。 せいぜい自分らのデカダン・アンティークキリスト教のハリボテの壊れたところを何度も修復してとち狂った論説でああでもないこうでもないと論じ合うがいい。 
どんな立派な論証を立てようが、そもそうもあんたらの言う現代キリスト教というのはボロホロの幽霊船でしかないのを何とか世間を欺くためのものでしかない。元が既に近世で壊れて瓦解し、凋落したものでしかないのに、そんなにいくら頑張って論法しようが駄目なものはもう駄目なのです。
パソコンで言うとウィンドウズXPをサポートするようなもの。 もう無理があり限界なのです。
幾らサポートしてもますます壊れて崩れていくだけ。いたちごっこの堂々巡り。

頭の良い人達が何万人も聖書の真理を解こうとして、結局は曲解に捏造して組織を狂わせ破滅に向かっただけ。それがカソリックやプロテスタント教会のデカダン・アンティークの断末魔で最後でした。ノーマルキリスト教会もしくは似非西洋キリスト教会に現代キリスト教会を私はこれらカソリックやプロテスタント教会のデカダン・アンティーク教界とまとめて仮称する。もう過去のものでしかない俗世的な普遍的教界なのです。価値はゼロ。 それは時代遅れのノーマルキリスト教界と言えば分かるかな?

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