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2015年07月31日06:41

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「日本の病気」

 昨日の日経の夕刊に「はびこる無責任の体系」と言うのがあって、2020年東京オリンピック新国立競技場の建設に関してこんな記事がありました。

(引用開始)

 問題があるのはわかっていながら、責任のありかがハッキリしないまま、ずるずると進み、どうしようもなくなって、最後は首相裁断によって幕を引くーーー。新国立競技場の建設計画の迷走劇のことだが、いつかどこかで似たような話があったと思い、本箱の奥から学生時代に呼んだ本を引っ張り出してみた。

 丸山真男著『現代政治の思想と行動」である。その中に「軍国支配者の精神形態」と言う論文がある。日本ファシズムの支配のありようを、神輿(みこし)=権威、役人=権力、無法者=暴力による「無責任の体系」と分析して見せた。

 今度のケースで言えば神輿と映った元首相がいた。担いで、実権を握っていた役人もいた。ところが彼らにとって設計や建設は無法者だったに違いない。そのなんたるかもわからずに引きずり回されて自滅した。どうしてこの国では、こうも無責任に体系がはびこるのだろうか?その根っこには、我々自身で戦争責任を問えていないという問題がある、とみるのは飛躍のし過ぎだろうか?

 少なくともここは、担当の文部科学省で人事の断行するのなら、責任を明示したものにする必要があるのだろう。

                        (論説委員長 芹川洋一)

(引用終わり)

 見事な見識なので、あまり僕の意見は書かないつもりですが、僕がこの文章を読んで一つだけ思い当たることがあります。でもそのことは非常に大事なことで、核心的な問題ではないかと思います。

 「箱根山、駕籠に乗る人かつぐ人、そのまた草鞋を作る人、捨てた草鞋を拾う人」と言う言葉がありますが、今の時代はみんな「駕籠に乗る人」ばかりで、「駕籠」を担いだり、草鞋を作ったり、捨てた草鞋を拾ったりする人がきわめて少ない時代なんです。何分、大学進学率56%と言うのは、国民を「みんな駕籠に乗る人」に育てるようなもので、「大学まで出て、駕籠かきになろうとか、草鞋編みになろうとか、掃除人になろう」と思って大学にはいきません。結果、国民はみんなひとかどの「評論家」になり、自分が大勢の駕籠かきを雇って大名行列を仕切り、つつがなく旅籠に全員を届けることが出来るのかどうかなど考えずに、「駕籠に乗りたがる」のです。

 わかりやすく言えば、戦前の日本人で「大学出」と言えば、ごく限られた人たちだけでそれでも社会に出れば、一通りの現場を経験させて、人物の適性と能力を確かめて幹部に登用しましたが、現在は「石を投げれば大学出に当たる」ぐらい大学出が溢れて、世の中が「兵隊よりも将校の方が多い」ような場面が多く、我も我もと「目立つ案件に飛びつき」しかし現場経験や自分の能力を知らず、さりとて「専門スタッフである優れた兵隊を指揮できる力もない」ポッと出の代議士が、老獪な官僚や財界や宗教団体、建設業者などから担がれて、軽々に「駕籠に乗り」、その駕籠かきもどきが「振付通りに踊らない客」を抛り出したということでしょう。

 要は、「駕籠に乗る人」の資質が下がっていて、戦前であれば「国家の顔に泥を塗った」として、厳しく処断され、あるいは腹を切ったものが、今では鵺のように生き残り、国民の税金を湯水のように無駄遣いしていることに何の反省もありません。これは「戦争に対する反省」が不十分と言ったレベルの話ではなく、『国家の威信を傷つけた責任』問題であって、昔なら「天皇陛下に申し訳ない」と言って、切腹できなければ、「蟄居」を申し渡されて、二度と表には出てこれないほどの大罪であったわけで、「意識」の問題です。

 ここまで「日本が劣化している」と言う認識で、「徹底した反省」と「責任の追及」が求められます。
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