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2006年08月31日20:09

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【独話】 死にゆく人と何を話すか vol.2

こんこん、「失礼します」

入った部屋には今日は誰もいなかった。この部屋の主は散歩に出ているらしい。いつもの通り手早く掃除をしていく。彼女は掃除の時間に時々部屋を空けてくれるので、やりやすい。

「ご苦労様」部屋の主が帰ってきた。小柄で優しそうなおばあちゃんだ。ここはこの病院の中でも特別な患者、末期ガンの患者さんだけが入れる個室である。彼女もここにいるからには末期がんである事は間違いない。しかし彼女は癌とは思えないほど健康そうに見える。こうして一人で部屋を離れることもよくあることなのだ。

「今日はね、上のフロアの何々さんとお話して・・・」 彼女は意外に情報通だ。実際、このフロアしか知らない僕とは違って、この病院の上から下までよく知っている。そしてそれを詳しく僕に教えてくれるのだ。

「そうなんですか、へえ」 相槌を打ちながら、部屋の掃除をしていく。一通り終わると、彼女は適当に話を切り上げて、僕を解放してくれる。「ご苦労様」 「では失礼します」

一度彼女がお見舞いに来た人と、僕について話しているのをうっかり聞いたことがある。僕がいるとは気づかずに 「若い子なんだけどね、なかなか親切でいい子なのよ」 と褒めてくれていた。嬉しかった。

最初のころは元気だった彼女も段々やつれてきた。出歩くことも少なくなり、ベッドでうとうとする時間が増えていった。あるとき、ベッド脇のサイドテーブルを掃除していると、それまで寝ていると思っていた彼女が突然話し始めたことがあった。ちょっと寝ぼけていたのかもしれない。
「私はほんとに死ぬのが嫌なのよ。何で私が死ななくちゃならないんだろう」
僕にはなんとも言いようがなかった。彼女も返事を求めるでもなく再び寝息を立て始めた。

何で彼女が死ななくてはならなかったのだろう。彼女はとても人柄の温かい人で、知り合う全ての人から好かれていた。僕がたまに疲れていたり、機嫌が悪そうだったりした時には、いつも優しい言葉をかけてくれた。それどころか、末期がんの患者ばかり相手をしなくてはならない僕に同情さえしてくれていた。彼女のことを知れば知るほど、彼女に迫り来る死が怖かった。

でもそこにいる患者さんはいつか必ず亡くなる。彼女ももちろん例外ではなかった。ある朝行くと、部屋は空いていた。僕はきれいに部屋を掃除し、次に来る患者さんを迎える準備をした。

その頃僕は自分に自信をなくしていて、自分が生きていてほんとにいいのだろうかと疑問に思っていた。彼女が亡くなった時、心底から、代われるものなら代わってあげたかった、と思った。僕が生きているより、彼女が生きていたほうがずっと世の為になるだろう。僕は患者さんが亡くなって初めて泣いた。

でも、僕は生きていて、彼女はもういない。僕にできる事は、もし代われたなら彼女がしたであろうように、人に対して優しく、暖かく接しようと努力することだけだった。今の僕がもし少しでも優しい、少なくとも親切であるとすれば、そのほとんどは彼女の影響だ。ある意味で彼女の代わりに僕が生きているのだ。彼女に恥ずかしくないように世の中と触れていよう。僕は今でもそう思う。
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