昔書いた文です。いくつか続きます。
こんこん、「失礼します」
僕が入っていったのは病院にしては珍しく、床にじゅうたんを張った豪奢な部屋だ。それもそのはず、この部屋はこの病院でも10室しかない末期癌の患者用の個室なのだ。いわゆるターミナルケア(終末医療)用の病室である。
僕は数日前にこの病院に清掃のアルバイトとして入り、今日はじめて個室の清掃をすることになった。大まかな清掃の仕方は昨日習っている、が、同時に「この部屋の患者さんはちょっと・・・・大変よ」と、脅かされてもいた。一言で言って気難しい人らしい。
「こんにちは、お部屋の掃除に入ってよろしいですか?」
部屋の主は痩せ型の老婦人だ。ベッドから半身を起こして本を読んでいる。
「どうぞ」
緊張しながら部屋に入った。彼女は本を読む手を休めて、じっとこちらを見ている。僕は前日に習ったとおりの手順で掃除を進めていった。ベッド周り、テーブル、窓、洗面所、風呂場と終わった。あとはじゅうたんに掃除機をかけて終了だ。と、そこで、部屋の主から声がかかった。
「あなたはこのお仕事は初めて?」
じっと見られて緊張していた僕は、話しかけられてちょっとほっとしながら、「はい、そうです」と答えた。
「そう。初めてならしょうがないけど、昨日までやってくれていた方は、この電気スタンドも拭いてくれていたわ。あ、今日はいいわよ。あと、窓は10センチくらい開けといてくれるかしら。」 そのほかにも細々といくつかの指示があった。
「明日からもあなたがやってくださるのかしら。よろしくね」
こちらこそよろしくお願いいたします、と答えて僕は掃除機をかけながら部屋を出た。正直に言って、苦手な感じの人だった。何を言っても怒っているように聞こえる人で、彼女が掃除の仕方をじっと見ていると、叱る理由を探しているかのように感じたのだった。
それでも僕はまだましだったらしい。前日までその部屋を担当していた人は実際にずいぶん叱られたのだという。そのあとも掃除に入るたびにいくつかの小言を言われたが、叱るというよりは、掃除に慣れていない僕に掃除の細かいやり方を教えてくれるつもりだったようだ。後になって考えると、だが。
僕はそのフロア全体の担当になったので、10室全部の掃除に入る。といっても常に全室が埋まっているわけではなくて、たいてい1,2部屋は空いている。患者さんの性質上、部屋が空くという事は、患者さんが亡くなるということだ。患者さんが部屋にいる期間の平均は大体2〜3週間といったところか。
しかし、僕が入った時に既にいた彼女は、結局ずいぶん長くその部屋にいた。全部で2ヶ月以上はいただろう。僕は段々掃除には慣れていったが、彼女の部屋を掃除する時はいつも緊張していた。彼女はたいていベッドで本を読んでいたが、掃除の間はじっとこちらを見ているのだった。僕の苦手意識はいつまでも消えなかった。
ある日、彼女の部屋に入ると彼女は酸素マスクをしていた。もうその頃には僕も、どうやら酸素マスクをするようではもうあまり長くはないかもしれない、と分かるようになっていた。酸素マスクをして、そのあと持ち直してマスクを外せるようになる患者さんは、あまり多くないのだ。
彼女はその二日後に亡くなった。最後に掃除に入った時には、彼女は目を閉じて寝ているようだった。いつものように掃除をして出て行く前に、なんとなく彼女に呼ばれたような気がして、ベッド脇に寄った。しかし、おそらく彼女は意識もなかったのだろう。身じろぎもしなかった。初めて会った時もやせていたが、今では頬もこけてしまっている。彼女の顔を見ながら「では失礼します」と挨拶して、僕は部屋を出た。
患者さんが亡くなるのは、それが初めてではなかったが、彼女が亡くなって、僕は相当落ち込んだ。なぜだろう。初めて担当した部屋の患者さんではあったが、それほど仲良くなったわけでもない。むしろ苦手意識があったのに。しかし、苦手意識があったからこそ逆に罪悪感のようなものがあったのかもしれない。
そのあと僕は何度も考えた。僕は彼女に対して、もっと何かできたのではないだろうか。苦手な人というだけで、どこか避けていたかもしれない。あまり見舞いの人も来ていないようだった。もっと寂しくないように話しかけたりしたほうが良かったのかもしれない。
だが考えてもしょうがない。もう彼女は死んでしまったのだ。僕が何を思ってももうやり直す事はできない。その時が、初めてそのアルバイトを辞めようかと思った時だった。だがそれが最後ではなかった。
今では彼女に対してああすればよかった、こうすればよかったとは思わない。あの時の僕にはあれしかできなかったのだ。今でも時々彼女のことを考える。じっと僕の掃除を見ながら、彼女は何を考えていたのだろう。
今でも僕は生きています。あなたの事はまだ忘れてはいません。・・考えると不思議な気がします。
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