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2024年03月26日20:32

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論語「夫れ何の遠きことか之れ有らん」VSスッタニパータ「犀の角の如くただ独り歩め」 

「論語」 

子罕第九の30 
唐棣の華、偏として其れ反せり。豈に爾を思わざらんや。室是れ遠ければなり。子曰く、未だ之を思わざるなり。夫れ何の遠きことか之れ有らん。

「桜花舞い散る中、貴女を思わぬ日はない。ただ遠くに住む身で会いに行けぬだけ」と歌の文句があるけれど、孔子先生がダメ出しする「そんな男は本気じゃないさ。愛しているなら距離なんか気にするものか」

論語にはこういう章もあるのだ。

学而第一の1 
子曰く、学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや。朋有り遠方より来る、亦た楽しからずや。人知しらずして慍らず、亦た君子ならずや。

儒教では神も仏も助けにはならない。ただただ、歴史と、先学の師と、同学の友と、切磋琢磨あるのみ。
儒教は、他人が存在しないと成立しない宗教だ。

「スッタニパータ」 

蛇の章 犀の角
あらゆる生物に対して暴力を加えることなく、あらゆる生物のいずれをも悩ますことなく、また我が子を欲するなかれ。況んや朋友をや。
犀の角の如くただ独り歩め。
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、
犀の角の如くただ独り歩め。
朋友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、
犀の角の如くただ独り歩め。
子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、
犀の角の如くただ独り歩め。

古代支那の孔子は、儒教の完成に、他人を必要とした。
全くサカサマで、
古代印度の釈迦は、他人を必要としない、どころか、他人は邪魔なのだ。友も、妻も、子も、全て邪魔だ。

サイの角、つまり、鹿のような二角ではなく、一角=ただ一人=孤独こそが、仏教の完成である。

他人と交わるから、愛が芽生え、暴力に会う。ウイルスに感染する。

愛・暴力・ウイルスは、釈迦に言わせれば、全部「同じ」、他人という害悪である。

孔子に言わせれば、愛・暴力・ウイルスは、他人との交流、社会・歴史・学問と同じだ。

この二人は、話が合わなかっただろう(笑)。最終目標が違うからだ。
釈迦「孔子さん個人は永遠に救われない。解脱できないで輪廻を繰り返す」
孔子「釈迦のやり方では、この人間社会は救われない」


■交際相手から暴力、過去最多=ストーカー被害も―内閣府調査
(時事通信社 - 03月26日 18:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=7802064

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