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2023年08月29日00:09

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08月29日の日記

今日の出来事:759年−鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立、1359年−筑後川の戦い、1582年−天正壬午の乱:黒駒合戦、1588年−豊臣秀吉が刀狩令を発布、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が金沢に到着、1842年−清国とイギリスの間で南京条約が締結され、アヘン戦争が終結、1871年−廃藩置県の詔書を発布

今日は、鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立です。唐招提寺は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院です。南都六宗の1つである律宗の総本山です。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真。遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいました。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧・鑑真に会いました。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出ました。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒みました。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいない事を知った鑑真は、自ら渡日する事を決意しました。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、唐で既に高僧として名の高かった鑑真の出国に反対する勢力がありました。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続でした。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛されました。ある時は船が難破しました。748年の5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまいました。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わいました。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功しましたが、鑑真は既に66歳になっていました。遣唐使船に同乗し、琉球を経て753年に薩摩に上陸した鑑真は、翌年にようやく難波津(大阪)に上陸しました。東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けました。鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、759年に唐招提寺の地を与えられました。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、763年に波乱の生涯を日本で閉じました。数え年76でした。唐招提寺は1998年に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されました。

次に、筑後川の戦いです。筑後川を挟んで南北朝が戦った戦いで、「関ヶ原の戦い」、「川中島の戦い」と並ぶ「日本三大合戦」の一つです。後醍醐天皇は征西大将軍として九州に当時8歳の皇子・懐良親王を派遣し、彼を奉じた菊池武光は、高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府としました。足利尊氏が幕府の内訌であった「観応の擾乱」を治め、「八幡の戦い」を制し、南朝の支柱であった北畠親房が没すると、南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族のみとなりました。懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦いました。戦いの苛烈さについては頼山陽も詩に歌っています。この戦いで足利側の少弐直資は戦死、南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、両軍合わせて4800人が討死にしました。この戦いに敗れた足利軍は大宰府に逃れました。九州はこの後、幕府が今川了俊を九州探題として派遣するまでの13年間は、南朝の支配下に入りました。征西大将軍・懐良親王が布陣した場所が現在の福岡県久留米市宮ノ陣です。福岡県小郡市には、将軍藤、大保、前伏、高見下など、この戦いに関連する地名や史跡が多くあります。戦いの後に傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗った場所が、筑後国太刀洗で、現在の福岡県三井郡大刀洗町です。

その次に、天正壬午の乱:黒駒合戦です。1582年、「本能寺の変」の報が入ると北条氏は上野へ進軍し、「神流川の戦い」で滝川一益を撃破しまして上野を掌握しました。その後、信濃・佐久郡の豪族を臣従させました。真田昌幸は、滝川一益を諏訪まで送り届けると叔父・矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回しました。また、嫡男・信幸(後の信之)を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めました。越後の上杉景勝も北信濃に進軍し、長沼城に入りました。真田昌幸は上杉景勝に臣従しましたが、北条氏直に降りました。北条氏直は真田昌幸を先方として、北条主力軍4万3000を上野より碓氷峠を越えて進軍させました。徳川方の依田信蕃は、小諸城を捨てて後退しました。北条氏直は、大道寺政繁を小諸城に配して佐久郡を掌握しました。さらに「武田旧臣一揆」により、川尻秀隆の死によって混乱した隙をついて郡内地方を掌握し、自らに通じてきた土豪・大村三右衛門を支援して甲斐への進軍を狙いました。しかし、上野の掌握に主力を向けていた北条軍の支援は遅れ、大村三右衛門は穴山梅雪の家臣に討ち取られてしまいました。そのため、北条氏の甲斐進軍は徳川氏に出遅れる事となりました。柴田勝家は魚津城からの撤退を決め、森長可も上杉氏の本拠・春日山城近辺まで侵攻していましたが撤退しました。上杉景勝は、森長可を追撃して信濃に攻め入りました。上杉景勝は北信濃の要所である飯山城と海津城を奪取し、前信濃守護・小笠原長時の実子である小笠原貞慶や村上義清の子・山浦景国に所領安堵状を出して川中島以南の領有化を画策し、小笠原長時の弟・洞雪斎を後援して木曾義昌の深志城を攻め落とさせました。木曾義昌は領地拡大を目指し、美濃国へ撤退する森長可を討とうとしました。しかし、森長可は木曽福島城に押し入ると木曾義昌の嫡男・岩松丸(後の木曾義利)を人質にしました。従わざるを得なくなった木曾義昌は、地元の豪族を抑え込んで森長可の撤退を手助けしました。また、「神流川の戦い」で敗北して撤退してきた滝川一益は、信濃衆の人質を明け渡す事を提案し、木曾義昌はこれを受けて見逃しました。こうして、木曾義昌は動きを制限される事となったため、深志城を上杉方に奪取されました。その他に、諏訪頼忠が河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐し、信濃・高島城に入って諏訪氏の家督を継いで再起を図るなど、信濃の在地勢力や旧武田家臣が個別に動き始めました。佐久を押さえた北条氏直は、木曾義昌や諏訪頼忠に所領安堵状を与えて信濃の掌握を図りました。北条氏直は、真田昌幸ら信濃の諸将の手助けで難なく川中島まで攻め入り、既に北信濃を掌握済みの上杉景勝軍と対峙しました。佐久を奪取された徳川家康でしたが、小諸城を追われた依田信蕃は武田旧臣の調略とゲリラ戦を展開し、北条の兵站を叩き始めました。既に掌握済みの南信濃及び甲斐から北進をし、酒井忠次らによる諏訪頼忠が守る高島城への攻城が開始されました。上杉軍と徳川軍の挟み撃ちを避けたい北条氏と、新発田重家への憂いがある上杉氏の思惑が合致し、講和が結ばれました。北条氏は上杉氏の北部4郡の所領化を認め、上杉氏は川中島以南へ出兵しない事とし、北部を除く信濃は北条氏の切り取り次第としました。これで、北条軍は徳川軍に戦力を向ける事が出来るようになり、約4万の主力軍は南へ転進しました。北条氏忠、北条氏勝ら1万を甲斐・御坂峠に張り付かせ、北条氏邦に秩父から甲斐を窺う体勢をとらせ、徳川軍1万を3方向から包囲する形で信濃・甲斐への侵攻を始めました。北条軍には、安房の里見義頼も援軍を出していました。8月18日、諏訪・高島城を攻城していた酒井忠次ら3000は、北条の大軍が来るとの報に甲斐に向けて後退しました。北条主力軍43000は、佐久経由で酒井忠次軍を追撃しましたが徳川軍は甲斐・新府城への撤退に成功しました。北条軍も甲斐に入り、若神子に着陣して新府城の徳川軍と対峙しました。27日に徳川家康は、南の府中の留守を鳥居元忠ら2000に任せると新府城に陣を移し、徳川方は8000となりました。29日、北条氏忠、氏勝軍1万が徳川家康の背後を襲うため、甲斐東部の郡内地方へ進撃しました。これに対し、鳥居元忠、三宅康貞、水野勝成ら2000が黒駒付近で果敢に応戦し、北条軍約300を討ち取って撃退しました。この「黒駒合戦」で北条軍が敗北した事により、信濃諸将の北条離れが進んでいく事になります。木曾義昌が徳川家康側に寝返り、さらに真田昌幸が依田信蕃に加勢しました。徳川家康は、依田信蕃と真田昌幸に曽根昌世らをつけて戦力を強化し、ゲリラ戦によって信濃・上野間の兵站を乱しました。信濃への影響力が低下した北条氏は上野の戦力を信濃に割きましたが、真田昌幸は北条方の沼田城を急襲して再奪取しました。北条軍は、大軍を持って攻め入りましたが、沼田城代・矢沢頼綱の活躍や真田昌幸の嫡男・真田信幸が手勢800騎を率いて、北条方の富永主膳軍5000が防衛する吾妻郡・手子丸城を僅か一日で奪還するなど激しく抵抗し、上野の要所を落とせませんでした。その後、真田昌幸が禰津某を討ち取り、依田信蕃が小諸城を攻撃して大道寺政繁を駆逐しました。徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶が、小笠原洞雪斎から旧領である深志城を奪還して徳川氏に付きました。さらに、関東平野では佐竹義重が活動を活発化させました。ここで北条氏直は徳川家康との講和を決意し、織田信雄を仲介役として講和が結ばれました。講和の条件は、北条氏直に徳川家康の娘・督姫を娶らせる事と、甲斐・信濃は徳川家康に上野は北条氏直に切り取り次第としました。諏訪頼忠は和睦して徳川家康に降りましたが、武田旧臣として「天正壬午の乱」で多大な戦功を挙げた依田信蕃が「岩尾城の戦い」で討死、甲斐の河内領は穴山勝千代に安堵され、小山田氏の支配地域であった郡内領に鳥居元忠、甲府城を中心とした甲斐中央部の国中領には平岩親吉と岡部正綱が派遣されました。羽柴秀吉が「清洲会議」で織田家の事実上の後継者となりましたが、柴田勝家との対立のために上杉景勝と誼を通じました。徳川家康は北条氏直との和睦を仲介した縁などから織田信雄と友好関係を築いたため、「小牧・長久手の戦い」へと発展する事になります。真田昌幸も「沼田帰属問題」によって上杉氏に寝返り、徳川氏との「第一次上田合戦」や、北条との沼田領を巡る戦いが続く事になります。

その次の次に、豊臣秀吉が刀狩令を発布です。刀狩は、百姓身分の者の帯刀権を剥奪する兵農分離政策です。1588年8月29日に豊臣秀吉が刀狩令(同時に海上賊船禁止令)を出して大規模に推進した政策です。一般的には百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策として知られていますが、実際には刀以外の武器所有は禁じられていません。なお、刀狩を最初に行なったのは柴田勝家です。越前国の一向一揆の鎮圧のために刀狩政策を行いました。

そのまた次に、奥の細道:松尾芭蕉が金沢に到着です。越中を後にした芭蕉は、倶利伽羅峠を越えて加賀・金沢に入りました。会うのを楽しみにしていた金沢の俳人・小杉一笑に使いを出したところ、一笑は36歳の若さで亡くなったと聞かされました。金沢の大勢の俳人たちに歓迎され、願念寺にて小林一笑の追善供養が催される事になりました。芭蕉は一笑を悼んでこの句を詠みました。「塚も動け 我が泣く声は 秋の風」さらに芭蕉は、野田山や宮腰(日本海岸の金石)の散策をしたりしました。斉藤一泉の松玄庵に招かれて、瓜やなすびをご馳走になりました。ここでこの句を詠みました。「秋涼し 手ごとにむけや 瓜なすび」

そのまた次の次に、アヘン(阿片)戦争が終結です。清では、1796年にアヘンの輸入を禁止していました。禁止令は19世紀に入ってからも何度となく発せられました。しかし、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していきました。また、アヘンの代金を銀で決済した事から、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転し、清国内の銀保有量が激減して銀の高騰を招きました。清の道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命し広東に派遣し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせました。林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行いました。1839年には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、これをまとめて海水(食塩水)と消石灰による化学処理によって処分しました。この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えました。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させました。イギリスの監察官のチャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていましたが、林則徐は「誓約書を提出すればアヘン以外の貿易を許す」と返事しました。実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていました。そこで、クェーカー教の教義に従ってアヘンを扱っていなかった「トマス・カウツ号」というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開しました。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出して引き止め、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出しましたが、林則徐はこれをはねつけました。1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させました。「麻薬の密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の議会でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声が強く起こりました。清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認されました。この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣しました。艦隊は林則徐のいる広州へは赴かず、いきなり首都北京に近い天津沖に姿を現しました。天津に軍艦が現れた事に驚いた清政府は林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させました。1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出しますが、清政府はこれを拒否しました。翌年1月7日、艦隊は攻撃を開始しました。「虎門の戦い」では関天培らが奮戦しましたが、イギリス側は完全に制海権を握りました。火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況の下、複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈しました。1841年5月、広州に上陸したイギリス軍は略奪や暴行事件を起こして民衆の怒りを買い、正規軍である八旗兵ではなく、三元里と周辺の郷村の一万余の民衆が決起して「平英団」を名乗り、イギリス軍を包囲して攻撃しました。豪雨で英軍は火器が使用できない状態で、刀や矛で襲いかかる三元里住民の攻撃に対して銃剣で防戦しましたが、英軍は全滅の危機に晒されました。 英軍は広州の清朝政府に包囲の解除を求め、からくも脱出に成功しました(三元里事件)。そして、1842年8月29日、両国は「南京条約」に調印し、「阿片戦争」は終結しました。この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めました。また、翌年の「虎門寨追加条約」では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項承認などを余儀なくされました。このイギリスと清との不平等条約に他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカ合衆国との「望厦条約」、フランスとの「黄埔条約」などが結ばれる事になります。この戦争をイギリスが引き起こした目的は2つありました。それは、東アジアで支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせる事でした。しかし、結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開ける事には成功したものの、もう一つの経済的目的「全ての中国人にイギリス製の靴下を履かせる」という目論見は達成されませんでした。中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからです。これを良しとしなかったイギリスは次の機会をうかがうようになり、これが「第二次阿片戦争」とも言われる「アロー戦争」へとつながっていく事になりました。

最後に、廃藩置県の詔書を発布です。「王政復古の政変」は事実上、中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題でした。一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として「府」と「県」が置かれ、中央政府から「知事(知府事・知県事)」が派遣されました(府藩県三治制)。「廃藩置県」は全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものでした。また軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、これも統率性を欠きました。そして各藩と薩長新政府との対立、新政府内での対立が続いていました。藩の中には財政事情が悪化し、政府に廃藩を願い出る所も出ていました(鳥取藩・池田慶徳、尾張藩・徳川慶勝、熊本藩・細川護久、南部藩など)。中央集権体制を進めるために「廃藩置県」の必要がある事は政府内の共通認識となっていましたが、その実施に向けた方策について急進的な木戸孝允と漸進的な大久保利通との対立が続いていました。木戸孝允が能力を重視して大隈重信とともに旧幕臣の郷純造や渋沢栄一らを新政府に登用した事について、旧幕臣の腐敗こそが江戸幕府の滅亡の原因で、維新のために尽力した薩長土肥の若い人材こそが政府に必要であると考える大久保利通には理解できませんでした。大久保利通は薩摩藩の藩政改革のために鹿児島にいた西郷隆盛に政府出仕を促して、新政府そのものの安定と自己の勢力の挽回を図ろうとしました。折りしも山県有朋の御親兵設置構想が浮上すると、大久保利通は岩倉具視とともに勅使として鹿児島に入って西郷説得に成功し、御親兵設置の企画推進のための出仕同意を取り付けたのでした。また、長州藩の大楽源太郎による反乱やその支持者による「広沢真臣暗殺」、公家の愛宕通旭・外山光輔による新政府転覆計画発覚「二卿事件」など、新政府内部は更に混乱の様相を見せ始めました。大久保利通は政府人事の大幅改造を断行して参議を西郷隆盛と木戸孝允の2人に限定し、自分は大蔵卿として大隈重信らを掣肘する事としました。しかし、西郷隆盛によって推挙された大蔵大丞・安場保和が大隈弾劾の意見書を提出したために、大隈重信やこれを支持する江藤新平・後藤象二郎らが結束してこれに対抗しました。弾劾は木戸孝允との全面衝突を望まない西郷隆盛や大久保利通の反対で否決されたものの、新政府は西郷派と木戸派に分裂しつつあり、「廃藩置県」どころか政務は停滞して新政府分裂の危機に至りました。山県有朋の下に居合わせた鳥尾小弥太と野村靖(いずれも木戸派)が会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られて山県有朋に対して「廃藩置県」の即時断行を提議しました。新政府を諸藩と対峙させる事によって、政権両派の再統一と求心力を回復させようとしました。山県有朋は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走りました。翌日には2人は井上馨を味方に引き入れ、井上馨は木戸孝允を、山県有朋は西郷隆盛を説得して、更に大久保利通や大隈重信にも同意を取り付けました。西郷隆盛も現状の政局を打破するために「廃藩置県」によって政府内の流れを変える事を望みました。こうして、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山厳、木戸孝允、井上馨、山県有朋の7名の薩長の要人間で木戸邸で密かに練られた「廃藩置県案」は、三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信らの賛成を得たのでした。1871年8月29日14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて「廃藩置県」を命じました。「王政復古」に次ぐ第2のクーデターでした。鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳、佐賀藩知事・鍋島直大、高知藩知事・山内豊範の代理である板垣退助を召し出し、廃藩の詔勅を読み上げました。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝、熊本藩知事・細川護久、鳥取藩知事・池田慶徳、徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられました。その後、これらの知藩事に加えて在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下されました。「藩」は「県」となって「知藩事(旧藩主)」は失職し、東京への移住が命じられました。「各県」には「知藩事」に代わって新たに中央政府から「県令」が派遣されました。なお同日、各藩の「藩札」は当日の相場で政府発行の紙幣と交換される事が宣されました。当初は「藩」をそのまま「県」に置き換えたため、現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県ありました。また飛地が多く、地域としてのまとまりもありませんでした。そこで、1871年10〜11月には3府72県に統合されました。その後、県の数は1872年69県、1873年60県、1875年59県、1876年35県と合併が進み(府の数は3)、1881年の堺県の大阪府への合併をもって完了しました。しかし、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり、事務量が増加するなどの問題点が出て来ました。そのため次は分割が進められて、1889年には3府43県(北海道を除く)となって最終的に落ち着きました。「廃藩置県」は平安時代後期以来続いてきた、特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」と言えるものでした。

今日の誕生日:豊臣秀頼、ジョン・ロック、モーリス・メーテルリンク、市川雷蔵、スタン・ハンセン、八代亜紀、マイケル・ジャクソン、伊東勤、YOU(元FAIRCHILD)、ペ・ヨンジュン、辛酸なめ子、高橋かおり、岩瀬敬吾(元19)、諫山創、片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)、浜辺美波、藤吉夏鈴(櫻坂46)

今日の記念日:文化財保護法施行記念日、秋田県の記念日、焼き肉の日、ケーブルカーの日、ターミネーター<審判の日>、焼きふぐの日、おかねを学ぶ日、ベルばらの日

今日の「今日訓」:本日は、「廃藩置県」の際に、久保田藩が秋田県になりました。初めて秋田県という名称が使われた事を記念して「秋田県の記念日」となりました。。「秋田」の名前の由来は土壌が稲作に向かなかったため付けられた「悪田」、アゴに似た地形から付けられた「齶田(あぎた)」が転じて「秋田」と呼ばれるようになりました。708年、日本で最初の流通貨幣「和同開珎」が発行された事で「おかねを学ぶ日」、1918年、大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)の子会社・生駒鋼索鉄道が、奈良県生駒山に日本初のケーブルカー(現・生駒鋼索線)を開業させた事で「ケーブルカーの日」、1950年8月29日に「国宝」や「重要文化財」の保護や文化の向上を目的とした法律「文化財保護法」が施行された事で「文化財保護法施行記念日」、1974年に宝塚歌劇で『ベルサイユのばら』が初演された事で「ベルばらの日」、1997年にAIコンピューター「スカイネット」が自我に目覚め、人類と機械の間で核戦争が起きた日で「ターミネーター<審判の日>」、「8(やき)2(に)9(く)」の語呂合わせで「焼き肉の日」、「焼き(8)ふぐ(29)」の語呂合わせで「焼きふぐの日」となりました。
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