■「帰国日までに」警察も奔走 東京で指輪なくした米国人に「奇跡」が
(朝日新聞デジタル - 06月02日 11:35)
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無信仰でどうして道徳が持てるのか?
他国の人間は、本気でそんなことを問うらしい。
道徳に信仰や宗教が必須とは思わない。
数千年前の、いたかどうかも知らん「人間」の託宣が必要だとは。
ただ「落とした人が困っているだろう」
そう感じるのみである。
それは別に躾や教育の成果ではない。
そんなことを曾祖母、祖父母、父母は、何も言わなかった。
道徳の時間は遊び時間だった。
「修身の時間を復活せよ」とかいうが、
自身をふりかえって「親や教師の教え」に素直に従っていたという人が
いったいどれだけいるのだろう。
我々は「入力すれば期待通りの結果を出力する」機械ではない。
どこにも「盗んでよい」という情報はなく、
いっぽう「盗みはよくない」という倫理も法律もある。
盗人は「まさか悪いことだとは知りませんでした」というだろうか?
「だめだ」といえば「わかりました、やりません」
そんな素直な脳髄が横溢しているのなら、何の苦労もない。
神社や寺を嫌いではないし、むしろ好むが
宗教学演習や座禅がもたらしたのは、空腹や脚の痛みだけであった。
いっぽう、信仰に厚い他国で何が起きているのか?
過去から現在までのさまざまな物事をみるにつけ、
あれらが「信仰の結果」なのだとしたら、
自分にはすくなくとも「信仰も宗教も不要」というほかはない。
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